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黒髪のエリス  作者: 振斗
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カンバヤシと呼ばれた男

 シトワ伯爵家の領地では複数の馬が飼育されていた。乗馬用のもの、馬車用のもの、中にはかつてそれらの活躍をしていたか、年老いたために御役目御免となり単に飼育されている馬もいた。

 馬の多くは上等な南方馬だった。がっしりとした馬体に、太い足の北方馬に比べ、南方馬はほっそりとした優美な脚と馬体、絹糸の如くなたてがみを持っており、脚の速さでも北方馬に勝っている。ただ力強さでは北方馬の方が上だ。

 その違いから貴族が使うのは南方馬、北方馬は荷物車運びや農地を耕すといった目的のため商人や農民が使う。

 シトワ伯爵家に雇われている馬丁は丹念に馬体にブラシをかけていった。

 開けっ放しにしてある馬小屋の扉や窓から朝日を浴びて、南方馬の馬体の毛並みがところどころ光輝く。

 ようやく乗馬用の馬たちにブラシをかけ終えた馬丁は、その様を見て満足げに額の汗を拭った。

 (これでお嬢様も走らせがいがあるだろう)

 馬丁はそれから今日の仕事が終わった後飲むビールについて思いをはせた。

 (良い仕事をした後のは格別に美味いからな 今夜飲むのも美味いに違いない)

 単純だが、実直な彼らしい考えであった。


 エリスは朝食を食べたのちしばらくして、乗馬服姿で現れた。

 馬丁に今日はどの馬がお勧めか訊ねる。

 馬丁は白と黒の斑模様の馬を勧めた。

 エリスは素直に馬丁の言葉に従い、本日はそれで遠乗りをすることにした。鞍や馬具を装着してもらい、颯爽と斑馬に跨がる。

 エリスは軽く放牧場で走らせた後、放牧場から出て、斑馬を翔らせる。

 その後ろ姿を見送りながら、馬丁は「うん、うんさすがお嬢様」と笑顔であった。

 馬小屋から離れたところにある屋敷では、そんなエリスの姿を不安そうにカーラが見ていた。

 (お嬢様の様子がおかしい)


 カーラと馬丁ではここ最近のエリスの様子に対し、大きな認識の違いがあった。

 馬丁としては普段都にいる伯爵家のお嬢様が自分が手塩にかけて面倒をみている馬に毎日のように乗ってくれるので、それが嬉しくて堪らなかった。仕事にも遣り甲斐が出てくるというものである。

 元々エリスは運動神経が良く、乗馬技術もそれに見合ってかなりのものである。

 一方、カーラは悪夢にうなされていたエリスの不穏なつぶやきを直接聞いたこともあり、心安らかではない。

 あの後、カーラはエリスに詳しく悪夢の内容を聞こうとしたが、我に返ったエリスは誤魔化すばかりである。

 念の為に夜エリスが眠った後の様子を覗ったりもしたが、規則正しい寝息を立てるのみで、悪夢に苦しんでいる様子は見られなかった。

 あの「死んだはず」という不可解なつぶやきの後、エリスの具合は良くなっている。

 毎日日課のように遠乗りをし、図書室で読書をしている。食事もきっちりと取っている。

 エリス自身、両親に向けた手紙に静養がうまくいっていること、体調が回復していることなど書いて送っている。

 カーラはお付きとしてエリスの領地での報告書を書かねばならぬが、エリスの手紙と同じ内容のものを書くだけだった。

 確かにエリスは心身共に健康になった。

 だが階段から落ちる前と比べ、幾つかの差異が見られるようになった。

 甘いものをあまり食べなくなったこと、反対に魚料理を好むようになったこと。恋愛小説のかわりに歴史書を読むようになったことなど。

 上げられるのはたわいもないことばかりかもしれない。しかし長い時間、姉のように、ときとしては母のように接してきたカーラにとっては胸に引っかかるのであった。



 斑馬は快調に走っていた。

 領地内にある森の中、道路は八頭用の大型馬車が通れるほど広い。また伯爵家の領地内ということもあり、突然人が馬の前を横切る心配もなかった。

 顔にあたる風を受けて、エリスは心地良かった。

 ただ単に馬を走らせることの気持ち良いこと。

 (そうだカンバヤシは小学生の頃、自転車で山道を走らせることが好きだった 高校生からはバイク、社会人になってからもドライブが好きだった)

 

カンバヤシとは、エリスがこの世界に生まれる前に呼ばれていた名前である。


 カンバヤシ―正確には神林広司(かんばやしこうじ)という名前であった。

 新潟県出身、大学は東京に進んだ。

 卒業後は警察へ。警察大学校で学んだ後、警備部へと配属された。そこではテロ対策が専門で、神林は狙撃手としての任務を任せられた。



 エリスの脳裏にそのときの記憶が蘇る。

 仕事に関して、気持ち良い思い出など殆ど無い。ただ目の前にある任務をこなすだけ。出来て当たり前、失敗は許されない世界だった。

 

 エリスは手綱を引き、斑馬の脚を緩めた。

 斑馬は駆けるのを止め、ゆっくりと歩く。

 

 (もう少し長生きして、定年まで勤め上げていたら、仕事のことも良い思い出になったのだろうか)


 とあるひとりのテロリストがオフィスビル占拠事件を起こした。過激な思想を持つ組織の、武器などの製造や調達をしていた男である。

 人質救出部隊と犯人確保部隊に分かれ、神林は犯人確保部隊だった。

 幸いなことに人質らは神林らが犯人の居場所に突入する直前に全員救出し、ビルの外に逃したと連絡があった。

 (今にしてみれば、あの連絡で気が緩んだのかもしれない)

 犯人はビル内にある防火シャッターを挟んだ、倉庫として使われていた部屋に隠れていた。

 神林はその男と目が合い、そして男は持っていた爆弾のスイッチを押して自爆したのだろう。

 至近距離にいた神林を道連れに。


 いつも最期のことを思い出すと、恐怖で身震いがする。

 (最悪だ)

 妻と娘がいた。妻は同い年、食品メーカーの研究職に着いていた。娘は三歳で七五三を終えたばかりだった。

 新潟の実家には両親と妹がいた。

 もう届かない人々の思い出。

 (せめて同じ世界なら、まだ行方を知ることもできたのに)


 カーラに起こされたあの日に、全てのことが分かった。

 まるで思い出せえ、思い出せえ、としつこく見ていた悪夢はあれから全く見なくなった。

 カーラは何か察したらしく心配そうにこちらを見ているが、訳を話せなかった。

 まさか前世の夢を見ていたなど言えない。それもこちらとは何もかも違う異世界から来たなどと。

 失恋のあまり、頭がおかしくなったと思われるのがオチだろう。

 失恋といえば、前世の悪夢に悩まされてから今に至るまで全く気にしなくなった。

 せめてもの不幸中の幸いだろう。


 エリスは斑馬を小川近くまで歩かせたのち、馬から降り、近くの木につなぎ、水を飲ませた。

 遠乗りをしたときのいつもの習慣である。

 水を飲んでいる馬から少し離れ、エリスは小川沿いに歩く。

 前からよたよたと足取りが覚束ない男が歩いてきた。エリスは歩くのを止め、じっと男を見た。

 ここはシトワ伯爵家の領地である。そこを歩けるのはシトワ伯爵家に関連した者だけである。

 距離が近付くにつれ、男の異様な様が見てとれた。男はまだ若く、着ている衣服こそそれなりに良いものだか、頭髪はボサボサで、どうやら酔っぱらているらしく、赤くなった顔に視点が定まっていない。

 「なんだ、あのクソ女」

 「偉そうに、婆が」

 口汚く、喚きながらエリスのいる方向へと歩いてきた。

 エリスは知らなかったが、男は領地を街道をはさんである町に住む男だった。あまり評判の良くない男で飲み屋街で働く女のヒモをしていた。

 女とケンカでもしたのか、朝から酷く酔っ払い、伯爵家の領地まで入り込んだらしい。

 エリスは関わったら面倒臭いことになると思い、その場から男を刺激しないよう静かに立ち去ろうとした。

 だが男は年若いエリスを見ると、好色そうな下卑た笑みを浮かべ、それまでの足取りが嘘のような速さでエリスに近寄った。

 男がエリスの左腕を掴む。

 瞬間、エリスは男の手を払い、更に男の腕につかみかかり、肩関節に関節技をかける。

 物凄い痛みに男は悲鳴を上げ、みっともなく泣き叫んだ。

 エリスはすぐにその場から離れて、斑馬のところまで戻った。すっかり水を飲み終えた斑馬のつないでいた紐をとき、馬に乗ると、その場から駆け去って行った。


 (どうやら身体の方も前世の記憶が残っているらしい)


 領地でしばらく過ごしたのち、エリスらはバトワに戻った。

 

 だがバトワでは不穏な空気がエリスを待ち構えていた。


 

 

 

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