炎の記憶
厚い木扉を挟んで向こうにはエリスが寝台に横たわっていた。
カーラのものとは違い、さすが伯爵家令嬢とあって、柔らかい絹製の豪華な寝具である(カーラそれは木綿である)寝台のスプリングも程良く効いて、普段の寝心地は大変良いものである。
鎮痛剤が効いていたときは良かった。
時間が経つにつれ、身体中のいろいろな個所から痛みが涌いて出てきた。
エリスを襲う痛みは様々であった。金槌で叩くような鈍いものから、針で刺すようなものまであった。エリスは痛みに襲われるたびに目が覚めたが、またその痛みから逃げるように枕に頭を擦り付けて、強引に眠りの世界へと入った。
そんなことを幾度と繰り返していくいくうちに、こんな夢を見た。
重い鉄製の扉があった。
その扉を開く。鉄製の扉が音を立てないよう、慎重に引く。指に、腕に力が入るのが分かる。
全部は開かない。人がひとり出入りできるだけの隙間を開け、素早く中に入った。
扉の先は真っ暗。倉庫として使われているのか、厚紙で出来た箱や、本の塊があちこちにある。黴の臭いがする。丹念にあたりを観察する。
耳が僅かな物音を捉えた。
薄暗闇の中では壁と間違われるほどの、箱の集合体があった。
足音は勿論のこと、呼吸音にも細心の注意をしなければならない。
気配を意識して消し、箱の集合体の裏側を見ようとした。
思いがけないことがあった。
人がいた。
薄暗闇の中にぎょろりと動く眼。
眼が合った瞬間、閃光があたり一面を支配した。
「お嬢様」
カーラの声がした。
寝台脇には朝の身支度をし終えたカーラがいた。
「ご機嫌は如何ですが?」
エリスは咄嗟に大丈夫だと伝えた。とくに意識したものではなく、反射的に出た言葉であった。
カーラがそう尋ねたのはリングトムの件や階段から転げ落ちたことがあったからであろう。
カーラの目から見て、エリスは昨夜よく眠れたようであった。事実このように自分が起こしにくるまでしっかりと眠っていたし、頬も血の気が良いのが見て取れたからである。
カーラはエリスが弱々しげながらも「大丈夫」と答えたのに安心し、朝のお茶の準備をした。
だが実際は違っていた。エリス自身としては何とも表現しがたい悪夢を見た後であった。
頬が血の気が通って赤いのも、悪夢のあまり心臓が早鐘を打ったからであろう。
息も荒くなっていた。汗も通常より多めにかいている。
カーラがお茶を差し出す。
すっかり喉が渇いていたので有難かった。
カーラが淹れてくれたのはエリスの大好きな甘い茶であった。蜜で煮た果実を入れたものである。
だが何故か今朝はそれがいつも以上に甘く感じられた。飲んだ後も喉がひりひりと渇く程の甘さである。
いつもならカップいっぱい飲み干すのに、半分以上残して、エリスは水を所望した。
この些細な変化にカーラをはじめとした屋敷の者たち、そしてエリス自身もまだ気がついていなかった。
屋敷の中で静かに一日を過ごして、再び夜が来た。
エリスはまた同じ夢を見ることになってしまった。
その日はカーラが起こしにくる朝まで待たず、夜明け前に目が醒めてしまった。
夢の内容は昨夜と同じ、鼓動が早く打ちのも、呼吸が苦しいのまで全く同じである。
ただ一点、大きな違いがあった。
夢の中でエリスは自分とは違う人物であったということを認識したのである。
(あれは間違いなく男性だった)
夢は毎日毎日同じ内容でありながら、日を追うごとに細部までがはっきりと分かり、妙な現実感が増してきた。
身につけている衣服が男物で重量感がありながら、とても動きやすいものであること。
頭、顔全体を覆っていること。とくに頭には硬い頑丈なものを被っていること。
利き手と思しき右手には何か長細い奇妙なものを握っていること。そして厚手の手袋をしていることなど。
自分自身以外のことも分かってきた。
探している人物が男であること。自分ひとりだけではなく、仲間がいるらしいということなど。
だが夢の最後の閃光。あれを見るたびにエリスの心臓は早くなり、最悪な目覚めとなるのだった。
同じ夢を毎夜毎夜繰り返していくうちに不安に感じるのは、皆誰しも同じだろう。
それに付け加え夢の最後の閃光への恐怖もあり、エリスは寝ること自体、怖さを感じるようになった。
寝るたびに夢はしつこく繰り返された。
一度でも目が覚めてしまえば、心臓も呼吸も狂いぱなしである。
寝台の中で夢から覚めた後は、ナイトテーブルに置いてある小説や詩集などを読んで過ごした。そうして気を紛らわせようとしたのである。
食欲も無くなり、みるみるうちにエリスはやつれていった。頬は痩せ、血の気も悪い。
だが何故がエリスは夢の内容を誰にも話そうとはしなかった。
屋敷の者たちは皆、エリスが失恋のためにこうなったのだろうと思っていた。
階段から落ちた直後に診察してくれた医師がまた呼ばれた。医師はエリスに何か不安に思っていることはないか訊ねてきた。
エリスは指先を口元にやりながら「ええ…」と言い淀んだ。
いくら家族ぐるみで信頼をしている医師とはいえ、エリスは悩みの内容が言いにくかった。
(たかが同じ夢を繰り返し見ているだけ)
自分が些細なことで悩んでいることを気恥ずかしさから言えなかったのである。
医師は屋敷を去る際に、カーラをこっそりと人知れずによび、忠告した。
「年頃の少女の場合、心の中にある悩み事は両親や医師にはなかなか言えないことがある。このようなときは姉妹や友人、年の近い気のおけない同性が一番話しやすい。エリス様の場合はカーラ、君が一番理想的である。エリス様が心内を打ち明けるときは任せたよ」
カーラは医師の言葉に力強く肯いた。
シトワ伯爵夫妻はエリスの様子の変化をリングトムと『一角獣の乙女』の噂が原因だと信じて疑わなかった。
このまま都にいても噂がすぐに聞こえてエリスが辛いだけ。一層のこと、シトワ家の領地にでも行った方が気が紛れるのではないだろうかと。
シトワ家の領地は静かな湖畔と森があり、療養にはうってつけではないかと。
この提案を聞かされ、エリスはすぐに受け入れた。
本来、エリスは華やかな場所が好きで、都に離れることは極力したくなかった(これは婚約者であるリングトムのそばになるべくいたいという乙女心からもある)
だが今のエリスに必要なのは気分転換である。
エリスは療養での静養の提案が出されてから、早急に準備が進められ、二日後にはカーラをはじめとした数人の使用人たちと領地へと向かった。
シトワ家の領地へと着いてから、エリスは積極的に外に出た。
湖や森への散策、馬に乗りあたりを駆け巡ったりもした。領地の静かな環境でならぐっすりと夢を見ず眠れるだろうと考えたからである。
だが、考えが甘かった。
ここでも夢は繰り返された。
ある日、エリスは領地の屋敷の庭先にある大木の下で、アームチェアに腰を掛けたままうたた寝をした。
季節は春から夏に向かおうとしているところで、風通しの良い木陰で、寝不足状態が続いているエリスにとってこれは「是非にでも寝てくれ」ていう素晴らしい環境であった。
カーラはうたた寝をしているエリスに掛けるものを持ってこようとしたところであった。
カーラがアームチェアのそばに来たとき、エリスが苦しそうに唸っていた。
カーラは屋敷の中で一番エリスの近くで眠っていた。しかしそうはいっても木扉を挟んでのこと。エリスが悪夢でうなされるのを見るのは初めであった。眉間に皺が寄り、歯は強く食いしばられ、正しく苦悶の表情であった。
カーラはその表情やうなり声を聞いて、思わず肩を揺らしてエリスを起こしてしまった。
夢から覚めたエリスの目の縁には涙の球があり、すぐさま顔の縁に沿って流れていく。このときもエリスの頬は赤くなっていた。
目が覚めた直後のエリスは自分がまだ夢の中なのか、現実の世界に戻ってきたのか分からないようで、周囲やカーラの顔、自分の手のひらを見つめたりした。
そんなエリスの様子に胸迫るものを感じ、カーラはこう慰める。
「やはりリングトム様のことがそんなにお辛かったのですね」
だが自分の手のひらをじっと見つめたまま、エリスはカーラの慰めの言葉を遮るように呟いた。
「…違う、私はあの時に死んだはず」
自分の口から出た言葉にエリスは震えた。
閃光だと思ったのは爆弾が爆発したときの炎であった。