序
噂とはたちの悪い風邪のようなものである。
どんな丈夫な身体を持つ者も、あっという間に家(酷いときなど部屋、更に悪化すると寝台)から一歩たりとも出られなくなるのだから。
そして誰しもが次の標的になるということもそっくりである。
ここドロデア王国の第一の都バルロで最近流行りの噂は、ナーター伯爵家令息とシトワ伯爵家令嬢の婚約破談である。
ナーター家令息が他に愛おしい女性ができたため、シトワ家令嬢を振ったという。
ナーター家令息リングトムは十六歳、シトワ家令嬢エリスはひとつ下の十五歳。両家の間で婚約が取り交わされたのは今からちょうど十年前のことである。
一般的にこのような噂のとき、人々は振られたエリスに同情し、振ったリングトムと相手の女性を責めるはずであった。
だが今回は違った。噂をしている者の多くがリングトムの恋愛を応援していた。
なぜならばリングトムの恋のお相手が『一角獣の乙女』だからである。『一角獣の乙女』は類い稀なる美貌を持ち、精霊たちから祝福を受け大いなる霊力を、更にそれによる病や傷を回復させることができるという。
リングトム自身も栄えある聖士隊の一員であり、寡黙な美丈夫である。
民衆たちはまるで恋物語のようなふたりを単純に祝福していた。
上流階級の間で流れている噂はもう少し事情が詳細である。
ナーター家もシトワ家も同じ階級で、ともに同じくらい由緒ある家柄である。だが代々、国の重職に就く者を輩出してきたナーター家と違って、シトワ家は年々と領地で細々と暮らすことが多くなった。いわゆるジリ貧状態である。そんな状態を打破し、宮廷のあるバルロに出てこられるようになったのは、現シトワ家当主が豪商の娘と結婚したからである。妻の実家の支援により、ようやく何代ぶりかに伯爵としての面目が立つようになった。
そのような両家の大きな隔たりもあり、ほぼ成金のようなシトワ伯爵家との婚姻よりも、一般階級出身とはいえ伝説の『一角獣の乙女』との婚姻の方が名実ともに一流のナーター家に相応しいのではないか―
表立ってではないか、そんな会話がひっそりとされていた。
一方噂の主であるシトワ家の者たちはそれどころではなかった。
噂が都中に流れるようになったきっかけはナーター家で開かれた私的な茶会である。春の花が見ごろになり、リングトムが聖士隊の親しい者たちなどを招待した。茶会は聖士隊の隊員だけでなく、彼らの妻や婚約者、公的に認められた恋人などもいた。
リングトムはその茶会に『一角獣の乙女』を同伴してきたのである。
ふたりはとくに公的に付き合いを宣言したわけではなかったが、仲睦まじい様子は誰の目から見てもれっきとした恋人であった。
茶会にはナーター家の中を取り仕切る家令もいたが、実直さと生真面目さを体現したような白髪に眼鏡の家令はそのようなふたりを見ても特に何も動じていなかった。
家令のその様子から考えて、招待客たちはふたりの仲が既にナーター家でも黙認されていることを悟ったのである。
茶会から数日して、そのことをエリスは家人が隠していた新聞の社交欄で知ることになった。新聞の記事は恋人たちに好意的な文で書かれていた。
エリス自身、茶会があったことも知らされておらず、またこれまで聖士隊の隊員らに紹介されたこともなかった。
エリスが婚約者と会えるのは年に数えられるほど、リングトムが聖士隊に入隊してからはその数はさらに減ったいた。
せっかく会えたとしてもリングトムはあまりエリスに関心がないようで、お義理で相手をしているような状態であった。
自慢の婚約者の裏切りに、エリスは強い衝撃を受けた。
屋敷のフロア中に響きわたるほどの大きな声で、ヒステリックに叫ぶ。
「そんなあの方が、嘘よ!」
頭に血が上りすぎてしまい、エリスはその場から駆けだした。とくに意味のある行動ではなく、衝動によるものである。
両手は宙を掻くように動き、視点は定まっていなかった。足だけが無意味に動かされていた。メイドたちが二、三人で押さえようとしたか、エリスはメイドたちの腕が伸びてくると、全身のありたっけの力で抵抗し、無駄な努力で終わった。
階段にさしかかり、エリスは見事に踏み外し、最上段から踊り場まで物凄い音を立て、転げ落ちていったのである。
メイドたちが駆け寄ったとき、エリスは失神していた。
男性使用人たちがエリスを寝台に運び、医者が呼ばれた。
父母であるシトワ伯爵夫妻は顔を真っ青にしながら、医者の診断を待つ。シトワ伯爵夫人が結婚前、実家で懇意にしていた医者で、腕は確かな上、口も固いという信頼がおける人物であった。婚約破棄のショックのあまり、エリスが階段から転げ落ちたという不名誉な話が外に漏れるといったことはないだろう。
幸いなことにエリスは寝台に運ばれてから間もなく意識を取り戻した。医者は丸一日エリスの傍で様子を見て、命に別状はないと診断した。
後頭部にはたんこぶができ、身体中には痣や擦り傷ができていた。顔も唇の右はじがわずかに切れていた。いつもまとめられていた髪は部分部分が解け、埃が絡み、無惨であった。
身体の傷を診て、湿布や傷薬、痛み止め、そして鎮静剤が処方される。
伯爵夫妻も側次の使用人たちもエリスの無事に安堵した。
その日一日、エリスは鎮静剤の効果もあり、寝台でぐったりした様子で横になって過ごした。
エリス付きのメイドはカーラという。
年齢は二十歳で屋敷に上がって六年、エリス付きになって三年になる。
カーラはシトワ伯爵夫妻と同様に今回の件で胸を痛めていた。
貴族階級の女性たちは髪を背中を覆うほど伸ばし、毎朝お付きのメイドに結わせる。エリスは見事な黒髪を持ち主である。その黒髪に相応しい大柄な体躯に気が強そうな瞳。エリスは買い物やダンスが好きで、パーティーなど人が集まる場所ではどんな髪型にするかふたりで相談するのが好きであった。
そんな普通の少女らしさも、今は世間では『一角獣の乙女』と比較して俗物だと嘲笑う。
(明日からはなんと言って慰めようか)
カーラはそんなことを考えながら、寝台の中で寝返りを打った。
カーラにはエリスの寝室から扉を挟んで隣のお付き専用の部屋が与えられている。
扉の向こう側で、エリスが悪夢でうなされていることをカーラはまだ知るよしもなかった。