第69話 総統令嬢の欲情
「信じられない……」
『九柱天蓋』旗艦、その居住区に用意された最上級の部屋。
その最奥、豪奢な天蓋付ベッドに寝そべり、美しく整った清楚な顔に妖艶な笑みを浮かべている女性がいる。
ヴァリス都市連盟の総統令嬢、アンジェリーナ・ヴォルツ。
三大強国の一角としてシーズ帝国皇族と同格の部屋を用意され、第一皇女がべそをかいているのとまったく同型のベッドの上で、その男好きのする躰を悦びに震わせている。
身に着けているのはシンプルなデザインの夜着。
丁寧に縫製された総絹製の為す絶妙な光沢と透け感が、包む躰の醸す色香を際立たせている。
同じ素材で作成されているガーターストッキングと夜着の裾の隙間が生み出す『絶対領域』は、ヒイロが見れば一言ありそうな完成度だ。
だがその姿を誰に見せているわけでもない。
天蓋から伸びるプリンセス・ヴェールを閉じ、外との結界のようにしてその中でくすくすと笑っている。
だが薄いプリンセス・ヴェールは枕元に灯りを燈した状態ではアンジェリーナのシルエットだけではなく滲んだような陰影も透かし、その前に立つ者を虚心では居させない。
実際、つい先刻までアンジェリーナに「襲撃」の報告をしていた「炎の魔道士」の通り名を持つ『五芒星』の一人は、その報告を終えるまでに幾度生唾を呑み込んだか覚えていない。
香水やお香の類ではないアンジェリーナそのものと言っていい甘い匂いが空気中に満ち、揺らめく燈火に映し出される薄く滲んで透けた妖艶な影を前にすれば、この世界の男であれば誰でもそうなるのだ。
それはアンジェリーナが、いわば世界からかけられている呪いなのだ。
だがもう、アンジェリーナはそうなることを当然としている。
側に仕える者たちもその特性を知り、自制できる者たちが揃えられている。
それでもアンジェリーナが無防備に魅力を全開にすれば、血迷う男は多いのだが。
そして今のアンジェリーナはその状態と言っていい。
今はもう一人きりになったベッドの上で、本当に心の底から愉しくて笑っている。
その理由、それは――
「シーズ帝国の第一皇女様が、あんな女の貌をするなんて」
転んだ後に「お姫様抱っこ」されたシーズ帝国第一皇女ユオ・グラン・シーズの真っ赤に染まった女の貌を思い出して、アンジェリーナは笑う。
「ウィンダリオン中央王国の幼女王陛下が、あんな表情をみせるなんて」
そしてそれをみて、ほんの刹那だけとはいえ羨ましそうな表情を浮かべたウィンダリオン中央王国の幼女王スフィア・ラ・ウィンダリオンを想い出して、また笑う。
成り上がり者――父がこの期のヴァリス都市連盟総統であるというだけの自分とは、根本から違う二人だと、アンジェリーナはユオとスフィアを認識している。
歴史ある大国、その王家と皇族の正統な血筋。
生まれた瞬間からヒトの上に立つ者として育てられ、本人たちもその期待に応えて高貴に、美しく育った本物のお姫様たち。
その立場ゆえに、市井の者たちのような恋愛などは望むべくもないだろう。
だがそれでも高貴な立場の殿方に望まれて妻となり、大切に扱われるであろうことは間違いない。
幼女王などは王配を得、家庭ではともかく公的には主君として夫に向き合うのだ。
色欲に濁った目をした男たちに、おもちゃにされることなど、国が亡びでもしない限りあり得ない。
彼女たちは王家や皇族として誰に恥じることなく、高貴で貞淑な妻として誇り高くその生涯を過ごすのだ。
少なくとも本人がそうあらんと望めば、それは叶う。
大陸の三美姫などと呼ばれ、男たちから美しいと呼ばれる同じ女として生まれながら、自分とは全く違う人生を約束された、羨ましいヒトたち。
汚れた女とは住む世界が違う、キレイな女性の象徴。
本気でそう思っていた。
だが先の公式歓迎会でその二人が見せた貌。
あれはどこにでもいる、ただのオンナの貌だった。
いやそうじゃない。
市井の女の子たちは、心を奪われた殿方にはもっと綺麗な表情を見せる。
あれは大国の王家、皇族としての責任――という名で隠された欲と、女の欲望がないまぜになった、決して純粋とは呼べない代物だ。
だからこそ色が宿り、艶を放つ。
年齢などは関係なく、狡い女だけが纏い得る女の武器――力だ。
そしてそのカタチの力であれば、だれにも負けぬ自信がアンジェリーナにはある。
それは根拠なきものではなく、これまでの経験の上に成り立つ確固としたものだ。
ユオとスフィアがその欲を宿す理由も、報告を受けた今では一応理解している。
暴力こそを力と見做す者たちにとって、ヒイロとその仲間たちは絶対者と呼んで過言ではない存在なのだろう。
国家の持つ最大の力が「軍事力」という名の暴力である今の時代、その責任を担う者たちが欲抜きでヒイロを見ることは不可能だということもわかる。
だからこそユオとスフィアは、自分と同じ立ち位置まで堕ちたともいえる。
王家や皇族と言った力がまるで通じぬ相手に、その責を担ったまま女として相対せねばならないからこその先の表情だ。
圧倒的な高みから見れば、王族も皇族も市井もみな同じようなものと化す。
叩けばいつでも潰せるという意味において、本質的にみな横並びにならざるを得ない。
つまりアンジェリーナはあの二人と、同じステージで戦うことができるのだ。
それが嬉しくて、心から笑う。
「そして私が……こうなるなんて」
アンジェリーナは今、生まれて初めて女として欲情している。
男に組み敷かれて躰を許す。
そんなことはもう、今まで数え切れぬくらい繰り返してきている。
それで躰が得る快感も嫌になるほど覚えさせられたし、今はもうそんなに嫌いでもない。
だが自分から組み敷かれるのではなく、組み敷きたくなったのは本当に生まれて初めてなのだ。
自分を男の欲望の視線で見る男たち皆が、蒼褪めて下を向くことしかできない絶対の暴力をその身に宿した存在。
その気になればこの世界さえも滅ぼせるだろうと、大国の指導者たちが真面目な顔をして語る『神殺しの英雄』
そんな特別な存在が、今まで自分を好きにしてきた男とたちと同じように、自分の上で馬鹿みたいに腰を振っているところを想像すると躰の芯に灼熱が燈る。
そして自分に夢中にさせた後、取るに足りない男に自分が躰を許せばどうなるのかを想像すると、思考が蕩ける。
嫉妬に狂って相手の男を殺すのだろうか?
それだけでは収まらず、自分も薄汚い売女として断罪してくれるのだろうか。
それでもいい。
いやそれがいい。
世界を滅ぼせる力を持った男が嫉妬に狂って自分を殺すなら、自分はこの世界と等価だと思い上がったまま死ぬこともできるだろう。
もう汚れきって取り返しのつかない自分には、望外の最後ではないのかとさえ思う。
もはやアンジェリーナは、自分がヒイロに女として気に入られた場合にヴァリス都市連盟が得る利益などどうでもいい。
今更自分だけを選んでほしいなどという、少女のような願望などももちろんありはしない。
なんなら第一皇女と幼女王と一緒に閨に呼ばれたってかまわない。
男にそう扱われるのが、世界が定めた自分の在り方だと言うのなら。
だったらせめて世界を好きにできる男に組み敷かれて、抱き潰されたいと思うのだ。
そのための手段を選ぶ気など、アンジェリーナには毛頭ない。
明日の『舞踏会』ではヴァリス都市連盟の総統令嬢として、ヒイロと何曲かを共にすることは間違いない。
つまりヒイロは、自分に触れるのだ。
今宵の公式歓迎会で、ヒイロは今までの男たちとは似て非なる反応を示してアンジェリーナを内心かなり驚かせてみせた。
だが実際にアンジェリーナの躰に触れて、平気であった男などこれまでにただの一人もいはしない。
であれば明日のダンスで、手を握り肌を触れさせればたとえヒイロと言えどもそうなるはずだ。
それを想像して、無垢な笑顔をアンジェリーナは浮かべる。
明日自分は生まれて初めて、女に生まれてよかったと思えるのではないかもしれないと。
だが世界に呪われ、かくあれかしと定められた清楚な娼婦、アンジェリーナ・ヴォルツはまだ知らない。
その呪いが通用しない男に、ただの女の子として扱われた時に自分が得る、喜びと絶望を。
そしてそれを得たがために、自分が想像していたのとはまるで違う女としての人生を送るようになることを。
そのことを知らぬまま、アンジェリーナは嗤う、笑う。
男の脳を蕩かせるような妖艶な笑顔で。
見た者が護りたくなるような、無垢で純真な笑顔で。
明日の村祭りでのダンスを楽しみにしている、市井に暮らす一人の女の子のように。





