第67話 第一皇女の羞恥
「死にたい……」
『九柱天蓋』旗艦、その居住区に用意された最上級の部屋。
その最奥、豪奢な天蓋付ベッドに膝を抱えてべそをかいた、美しい少女がうずくまっている。
シーズ帝国の第一皇女、ユオ・グラン・シーズである。
常は美しさもさることながら、凜としたいかにも皇族然とした空気を纏っているのだが、そんなものは雲散霧消して今はどこにも感じることは出来ない。
ただめそめそと、小さな声でさっきから同じようなことを繰り返すばかりだ。
美しい真紅の瞳は己が涙に滲み、いつもはヒトを突き刺せそうなくらいにぴんと立っている輝く黄金の角のようなアホ毛も、今はわかりやすく萎れている。
先の公式歓迎会でやらかした大失態から、まだ立ち直れていないのである。
「いや、あの……姉上?」
それをどう慰めていいかわからぬまま、弟にして皇太子であるクルスが困惑気味に声をかける。
普通ならいかに姉姫のものとはいえ、女性の寝室に足を踏み入れるようなクルスではない。姉弟仲は良い方だと思っているが、皇太子たる者、迂闊なことは出来ないのだ。
だが今はそんなことを言っている場合ではない。
なんとしても明日夜の『舞踏会』までに、姉姫を立ち直らせる必要がある。
今現在『天空城』勢、それもそのトップであるヒイロに通用するかもしれない「女としての魅力」を持ったユオの戦線離脱は、シーズ帝国の皇太子として絶対に容認できない。
もっとも常の姉姫であれば、クルスはこんな余計な心配はしない。
自分よりもよほどしっかりしていると思っているし、能力的にも性格的にも姉姫がもしも兄王子であれば、どんなに自分は楽だっただろうかと常に思っているくらいなのだ。
だが今回はさすがに放置できない。
もしも姉姫の立場に自分がいたとしたら、自分一人ではとても立ち直る自信など持てないからだ。
「あはは、もう死んでいるようなものよね? あんなに小さい女の子もいたのに、よりによって私が……」
「えっとぉ……」
いやアレが見えていたのは自分とユオだけだったから、しょうがないだろうとクルスは思う。
もしも見えていたのであれば、あの場にいた多くの者がユオと同じ状況になっていてもさほど不思議とは思わない。
どれだけしっかりしていようが、幼女王スフィアも例外ではないだろう。
ものすごく清楚に見えるのにどこか怖いと感じる、総統令嬢アンジェリーナはどうだかわからないが。
クルスはどちらかと言えば弁が立つ方だ。
その気にさえなれば「ああ言えばこう言う系」とでもいおうか、まあ皇太子など口下手では務まらない。
だが今は気の利いた言葉の一つも出てこない。
虚ろな瞳で、虚ろな声で笑う姉姫にかけるべき言葉が見つからない。
さっきのは仕方がないと、やはりクルスは思う。
アレが見えてしまったという、自分たちの血が宿す『竜眼』という血統能力を恨むしかない。
あんな圧倒的な存在を突然叩き付けられて、平然としているのは大国であるシーズ帝国の皇族である自分たちにだって出来はしない。
そんなことができるとすれば、彼らと同等の力を持った者だけだろう。
クルスが友達になりたいだなどと思っていた相手は、想像以上に本物の化け物だったのだ。
それを目の当たりにしたのだ、膝がくだけたり尻餅をついたりする程度の事は許してほしいと思う。
大声をあげて騒ぎ立てなかっただけでも、自分たちの胆力は褒められるべきだとさえ思うクルスである。
だがそのために姉姫が支払った代償はあまりにも大きい。
男性と話すことに慣れていないことを誤魔化すために、どうせ酔えぬのにいつもよりも赤葡萄酒を多くとっていたのも災いしたのだろう。
「公式歓迎会の場で……大陸中の要人たちが集まっている場で私、お、お……わぁぁぁ!!!」
「赤葡萄酒が上手く毀れていたので、誰にも気付かれてはおりませんよ!!!」
頭を抱えて呻きだしたユオに、慌ててフォローを入れるクルス。
これは別にいい加減なことを言っているわけではない。
姉姫が飲んでいた特級と言っていい赤葡萄酒は芳香が強く、濃い紅の色を持つ。
それが尻餅をついた際、ワイングラスに注がれていたほぼすべてがユオの身に着けていたドレス、それも腰から下に派手にかかったので、本当に気付いた者はほとんどいなかったはずだ。
実際この部屋に戻りユオの様子をその目にするまで、クルス自身もそんな大惨事になっていたことにまるで気付いていなかった。
公衆の面前ですっ転んで赤葡萄酒で自分の服を汚すなどという、シーズ帝国の皇族としてあるまじき失態をうまく転じて、キッチリと自分の利に導く。
やはり自分の姉姫は大したものだと、感心さえしていたのだ。
「……誰にも?」
「えー、あー」
だが違った。
あの時姉姫が見せていた動揺や表情は、すべて素のものだったのだ。
虚ろな半目で己に問いかける、呪詛のように響くユオの言葉に答えることがクルスには出来ない。
「一番、気付かれたくない方に……」
そう、ユオの一番近くにいた者はおそらく――いや間違いなく気付いている。
一番近くにいた者、すなわちヒイロである。
だからこそらしくないというべきか、少なくとも周りから驚きの声が上がるほどの大胆な行動に『神殺しの英雄』は出たというべきだろう。
「いえ、ですが……おかげで姉上の夢であった、お姫様抱っこをしてもらえたではありませんか」
「あんな状態でね……」
ヒイロは尻餅をつき、赤葡萄酒を自らのドレスに派手に零したユオをすぐさま抱き上げ、控えの部屋まで「お姫様抱っこ」で運んだのだ。
その際の周囲の反応ときたら、大声こそ上げはしないものの物理的な圧を感じるくらいの驚愕に満ちていた。
それは主宴会場に集う紳士淑女だけではなく、ヒイロの背後に付き従う僕たちすらも同様であった。
「しかしヒイロ殿も真っ赤でしたし、姉上も――あんな貌ができたのですね」
おそらく気付いたのはヒイロのみで、僕たちはヒイロの背後に居たので気付かなかったのだ。
『千の獣を統べる黒』は獣ゆえの嗅覚で気付いていたが、この際それは除外してよいだろう。
よってヒイロはユオに恥をかかさぬために、派手な行動に出た。
『神殺しの英雄』に抱きかかえられて退室する『シーズ帝国の第一皇女』は確かに絵になっていたし、クルスさえも「上手くやったなあ」と思っていたくらいなのだ。
当然周りの者は距離を取り、結果誰にも気付かれぬままにユオは退室することができた。
最も気付かれたくなかった相手に、気付かれた上でフォローを受ける形でだが。
さすがにヒイロも無表情を保つことができずにその顔を赤く染め、それを見たユオはそれこそ赤葡萄酒が顔にでもかかったのか、というほどに茹っていたわけだが。
だがクルスが、真紅の瞳に涙をためて恥じらいながらお姫様抱っこをされる姉姫のその表情を、今までに見たどんな姿よりも美しいと思ったのも事実なのだ。
少なくとも同じ男として、ヒイロにも通用していただろうと思えるほどに。
恥ずかしいというのは充分以上に理解できる。
皇族の女性として、そんな醜態をさらした相手と明日ダンスを踊るなど、悪夢以外のなにものでもないだろう。
だがいかに厳しくても、戦線離脱は絶対に認められない。
「死にたい……」
「いや、あの……」
よって何とか立ち直ってもらうために、クルスは努力を継続する。
さっきから何度目かわからぬほどの繰り返しに突入しながらもだ。
だが同時にクルスもある程度気付いている。
羞恥を感じているのは嘘ではないし、『神殺しの英雄』の真の姿を知ったゆえの恐怖も、ユオはその心に確かに抱えている。
一方でさっきから死にたい、死にたいと繰り返す姉姫の頬にはもうずっと朱がさし、涙に潤んだ真紅の瞳には別の熱もこもっているということを。
――利己や義務感で女を使うのよりは、よほどよい傾向なのでしょうが……
大好きな主人に構われた犬ではあるまいし、変な癖というか趣味が、敬愛する美しい姉姫に芽生えていなければいいなあ、などと少々下世話な心配をしてしまうシーズ帝国の皇太子である。
そして同時に思う。
一旦は友達になるなど不可能だと確信させられた、掛け値なしの化け物であるヒイロ。
だけどあの見た目だけで言うならば美しい年下の少年が、自分の姉姫にあんな表情をされて抱きつかれるような体勢だった時に、何を思っていたのかを聞きたいと素直に思えた。
あれだけ恐ろしく感じた化け物が、嘘じゃなく姉姫の女に頬を朱く染めていた。
だったら男同士として、本音で話すこともできるのではないだろうか。
もしもそれができたなら、それは友達になれたということじゃないのかな? と。
そのためにもまず、羞恥に深く沈んでいる姉姫を浮上させることは必須。
幸いにして『舞踏会』までまだ時間はある。
いっそ明日のダンスの最中に、ヒイロの耳元で「二人だけの秘密にしてくださいね?」とでも囁くことを提案してみようかとクルスは本気で考える。
いつもの姉姫との落差で攻めるのは、あるいは有効ではあるまいか、と。





