第閑話 聖女の再起
暗い部屋。
豪奢な造りの一室だが窓は分厚いカーテンで遮られ、なんの灯火も燈されていないため部屋の中は真の闇に覆われている。
今が昼なのか夜なのか、それすらもわからない。
だがヒトの気配はたしかにある。
じっと動かないが、微かな呼吸と熱が間違いなく存在している。
聖女クラリス。
いや元聖女、と言った方が今はもう正しいだろう。
長い歴史を誇ったアルビオン教は、完全に崩壊した。
わずか一日の間に起こった出来事を起点に、十日を待たずに聖都『世界の卵』にある教皇庁はすべての権限を停止され、現在はヴァリス都市連盟総統府の管理下にある。
大陸を十二に分ける大司教区、その管轄下にあった無数の司教区もすべてその存在する国の管理下に置かれ、当時誇った権勢、世界宗教ゆえの治外法権はすべて停止されている。
それに異を唱えるアルビオン教の上層部は誰も居ない。
己らが信仰し、その祈りに応えて顕現した主神アルビオンとその属神悉くが、ヒトの手によって殺されたことにみな放心している。
神の力でこの世界を恣にできると信じた欲にまみれた者ほど、その放心具合はひどいものだ。
神すら殺す力にたてついた戦犯として、自分たちが断罪されることを理解できているからだろう。
だが聖都『世界の卵』はもちろん、大陸中に存在するどの教会でも略奪は発生していない。
それどころか辺境でヒトの暮らしを支えてきた小さな教会では、現在の方が潤沢な物資を支給され始めているところさえある。
神が死んでも信仰は残る。
いや信仰を核とし、ヒトの暮らしに寄り添いその救いとならんとした意志は続くのだ。
それを無下にするつもりなど、神をも殺した者たちにははじめからありはしない。
そんな信仰の在り方と神の威光をかさにきて、世界を恣にせんと望む「宗教屋」たちを一掃できればそれでよい。
敗れた方の教徒悉くを殲滅する、神と悪魔との最終戦争ではないのだ。
だがクラリスはそんな状況すら知らない。
クラリスの心は今完全に折れている。
己の愚かさから、逃れようのない死を迎える――殺される体験をしたクラリスは部屋の片隅で震え、怯えることしかできなくなっている。
永続蘇生系アイテムの効果により、倒された女神アルビオン以下四属神はすべて、その本拠地である『天空城』で蘇生をされている。
その際に憑代となった聖女と、それを特別に守護する祝福を受けた騎士たちも同じく「属神の一部」として蘇生を受けた。
生々しい死の瞬間を魂に刻み込まれた状態で、わけもわからず生き返らされたのだ。
そしてその場所は高高度に浮かぶ『天空城』とくれば、天国に召されたのだと勘違いしても仕方がないところではあろう。
だがそこに存在するのは『黒の王』に仕える強大な僕たち。
――死してなお赦されず、地獄へと捕らわれた。
クラリスや他の聖女たちがそう絶望するのもしょうがないのかもしれない。
ただその扱いは賓客に対するもので、食事や生活は保障されている。
今もクラリスの食事を、同じく蘇生されたエドモン枢機卿が部屋に届けに来ている。
「クラリス様。お食事をお持ちしました」
ノックをし、扉の前で声をかけるも返事はない。
見えるはずもないのに、いやいやをしながら拒絶の意を弱々しく表しているだけだ。
蘇生されてから丸一日、クラリスは何も口にしてはいない。
水でさえも口にすれば、すべて吐いてしまう気がしているからだ。
「失礼いたします」
「入って……こないで……」
「我々に拒む理由も権利もない方です。申し訳ありません」
静かに扉が開かれ、その隙間の分だけ光が室内の暗がりを切り裂く。
二人の影がその光の中を長く伸び、部屋の片隅にしゃがみ込むクラリスを室外の光から覆っている。
聖女クラリスを憑代に顕現したユリゼンの直衛として前線へ出、そこで何の役にも立てずついでのように魔法で焼き殺されたエドモンの眼にも絶望の色は濃い。
だが労わるようにクラリスの方を一瞥し、近くのテーブルに食事を置いて退出する。
今の自分にはクラリスを救える、どんな言葉も持ちえていないことを理解しているのだ。
退出の寸前に、万感の思いを込めて共に扉を開いた影へと黙礼する。
大人である己の絶望は己自身で何とかするが、せめてクラリスの瞳に以前のような無邪気な光を取り戻してくれと願って。
「……だ、れ?」
「アルフレッド・ユースティン・フィッツロイと申します」
静かなアルフレッドの声が、クラリスにとどく。
――わからない。知らない。
一瞬ヒイロかもと期待をしたが、ヒイロであったとしてもどんな顔をすればいいかわからない。
もう自分はヒイロと出逢った時のように、あんなふうには笑えない。
そのヒイロに敵対し、その味方であったヒトたちに殺されてしまったから。
「貴女を……四属神を倒したパーティーのリーダーをしている者です」
その声を聞いた瞬間、クラリスの思考が停止する。
ひっという弱い叫びを一つ上げ、両腕で己の華奢な身体を抱きしめてがたがたと震えはじめる。
「今日は同じ立場の者として、貴女に伝えるべきことがあると思ったので、ヒイロ君の許可を得てここへ来させていただいた」
その言葉に、クラリスはほんの少しだけ興味を引かれる。
恐怖以外の感情が身の内に芽生え、扉の外の光から今なおクラリスを護るように立っているアルフレッドと名乗った男性――自分を殺した一人の方へ光を無くしたままの瞳を向ける。
「私も貴女と同じく、一度死んだ――殺された身です。それも一方的にむごたらしく、妹を含む仲間悉くを目の前で殺され、それでも一矢報いることすらできずに虫を踏みつぶすように殺された経験がある」
噛み殺すような声で、己の経験を告げるアルフレッド。
その内容にクラリスの瞳が見開かれる。
「死の恐怖はよくわかります。絶対の行き止まり。理不尽な途絶。行き場のなくなる想い。怒りや悲しみや、それこそ恐怖そのものさえもぷつんと途絶えるあの虚無感」
クラリスの今置かれている状況を、同情やおためごかしではなく理解する。
できる。
同じく一度死を経験した者だけが共感できる、狂気にも似た想い。
「それだけではありません。理不尽な死はその瞬間に、己がどんな人間であったのかを思い知らせることも知っています。目を背けたくなるような醜悪な思考と感情の爆発。誇りも尊厳も消し飛ぶようなみっともない思考にまみれて終わる。たとえ生き返れたとしても、その記憶を拭うことは出来ない。誰を誤魔化せても、自分自身だけは誤魔化すことができない」
「――どうやって、あなた、は?」
――この暗い深淵のような絶望から抜け出し得たのか。
絞り出すようなアルフレッドの告白、その偽りなき思いの吐露に、掠れた声でクラリスが問う。
この人は今の自分と同じ、いやそれ以上にむごたらしい死を体験してなお今こうやって自分の意志で立っている。
それがわかるからこそ、問わずにはいられない。
「運が良かったんですよ私は。生き返った瞬間に、目の前には自分を殺した敵がいて、その敵と対峙している者がいたんです」
そのクラリスの問いに、ふいに苦笑いを浮かべてアルフレッドは答える。
あれがあったからこそ、自分は、いや自分を含めた仲間たちはみななんとかまだ自分の足で立っていられるのだ。
「逃げろと叫んでいました。そして勝てるはずなどないってわかっている相手に、泣きながらすっ飛んで逃げたくなる己を殺した恐怖の象徴に、もう一度立ち向かうことができました。――一緒に殺された仲間みんながそうでしたね」
「すごい……」
「でしょう。自分もまだ捨てたモノじゃないと思えましたよ。だからこそ今もこうやって、なんとか生きていられます。思っていたよりも醜くて情けなかった自分の正体を思い知り、本当の絶望を知った上でもね」
どうしてあんなことがとっさにできたのか、今でもわからない。
仲間たちと酒を入れて話してもなお、本当のところは自分たちでさえこうと言えないのだ。
あるいは取るに足りないやせ我慢、良いカッコをしたかっただけというくだらない理由なのかもしれない。
それならそれで構わないと思う。
矜持の正体なんて、あるいはそんなものかもしれないと今は思える。
理由がどうあれ、一度折れても再び立てた自分たちが嘘ではないと知っているから。
「貴女も同じですよ、きっと」
だから告げる。
立場上やむを得なかったとはいえ、自分たちが受けたのと同じ絶望を自分たちが与えてしまった、たった十歳の少女へ。
だがクラリスは力なく首を振る。
――そんなわけはないのです。お兄さんたちは強かったのです。私は――
「アルビオン教はもう、無くなります」
その言葉に、クラリスはびくんと身を竦める。
考えることを放棄していたが、それはある意味当たり前の話だ。
死の直前に自分でも理解したように、神様の力をもって他の国を、人々を蹂躙しようとして阻止されたアルビオン教を、世界が赦すわけはない。
正しいことではなかったけれど、ある意味においては自分たちが敗れたからこそアルビオン教は終わる。
それは一面においては事実なのだ。
「ですが救いを必要とする人は変わらずにたくさんいて、その声はもうどこにも届かなくなるかもしれない」
だが続けられたアルフレッドの言葉に、うなだれていたクラリスは弾かれたように顔を上げる。
「これから間違いなく訪れるヒトの大躍進時代。そんな時代だからこそ気付かれない、忘れ去られる弱い者は必ずいます」
クラリス自身がそうだった。
アルビオン教に救われていなければ、自分は6歳の冬に飢えて死んでいたはずだ、あの辺境の寒村の片隅で。
本当に自分を救ってくれたのは教皇庁の綺麗な服を着た偉いヒトたちではなく、魔物に襲われて突然いなくなってしまったお父さんとお母さん、お兄ちゃんよりも貧しい格好をした、村の神父さんだった。
自己責任とか弱者救済とか難しいことはまだクラリスにはわからない。
だけど――
「死は恐ろしい――だけどみなヒトはいずれ死にます。本当に怖いのは、二度目の死を迎える瞬間に、一度目と同じ想いを得ることです。――少なくとも私たちはね」
自分に言い聞かせるようにも聞こえる声で、アルフレッドが言う。
だからこそ自分たちは、そうならないように死を乗り越えたのだと。
「伝えることはそれだけです」
頑張れとか、こうするべきだとか、力持つ者の義務だとかを熱く語るわけではない。
同じ死を体験したものとして己の場合を語り、今アルビオン教が置かれている状況だけを告げて、アルフレッドは退室する。
暗闇に差し込んで来ていた外の光が細くなり、静かに扉は閉じられる。
再び暗い部屋に戻る。
それでもクラリスの瞳に、以前のような無邪気な光は戻らない。
光無く、絶望に覆われたまま。
だが震える体を自分で一度抱きしめ、エドモンが届けてくれた食事を口にする。
アルフレッドの言うとおりだと思ったのだ。
自分が絶望していようがいまいが、救いを求めるヒトは必ずいる。
自分は取るに足りない力でも、そんなヒトに手を差し伸べたくて聖女たらんとしたはずだ。
アルビオン教が上層部の愚かさで、クラリスの至らなさで滅んだとしてもそこだけは変わらない。
アルフレッドが死を超えてなお上げることのできた叫びのように、自分なりの声をこの世界に向けてあげてみせる。
アルビオンの聖女ではなくなり、自身は死の恐怖に捕らわれたままであったとしても、己にできることを一つずつでもやり始めるのだ。
それは他者のためにではなく、自分のため。
いつかもう一度本当に死を迎える時、一度目のような想いを得ないために。
クラリスは立ち上がり、外の光をさえぎっていた豪奢なカーテンを勢いよく退けた。
今外は昼。
雲一つない晴天の光が澱んだ空気の室内に強く差し込む。
『天空城』は雨の日であれ、嵐の日であれ、雲海を眼下に従えて晴天の空、または満天の星空の高みに浮遊する。
どんな絶望に覆われても、その向こうには変わらぬ己の在り方があるのと同じように。
クラリスの瞳に、二度とあの幼いが故の無邪気な光は宿らない。
今その瞳に宿るのは、強い意志の光。





