第閑話 シュドナイの夜歩き
アーガス島迷宮攻略都市。
深夜。
最近不夜城となりつつある夜街からはけっこう離れた位置に、ヒイロの常宿となっている『白銀亭』はある。
周囲には他の宿屋や酒場などもありそれなりに賑やかな場所ではあるが、この時間ともなれば燈火もおとされ、ひっそりとしている。
今宵は月夜。
夜半まではりいりいと鳴いていた虫たちも今は眠り、月に照らされた草が音のない風にゆるりと揺れている。
夏待ち月の少し熱をもち、土の匂いをはらんだような空気を夜風が醒ます。
さすがにこの時間はヒイロも眠りについている。
エヴァンジェリンやベアトリクス、白姫の三人娘も満足してすでに夢の世界だろう。
そんな時間帯、夜の暗がりと同化したような漆黒の毛皮が、月の光をぬめりと反射している。
『千の獣を統べる黒』だ。
さすがに己が主がメンテナンスとやらをされている場に雄の身でいるわけにもゆかぬゆえ、こんな時間まで夜歩きとしゃれ込んでいる。
――けっして追い出されておるのではない。自ら空気を読んで尾で扉を開き、望んで夜歩きに出ておるのだとも。
もっとも最近は、そのついでにすることの方が主になりつつはあるのだが。
今宵も例にもれず、そのついでの相手はいるようである。
「我が主の宿に、なにようか?」
完璧に気配を消しているつもりだったであろう複数の影が、シュドナイの誰何する声に動揺の気配を洩らす。
――この程度で我が主をどうにかできると、本気で思っておるのだからなあ……
内心溜息をつくシュドナイである。
もちろんこのまま放っておいても、ヒイロはもちろん『鳳凰』、『真祖』、『凍りの白鯨』をどうにかできる連中ではない。
殺気を放った瞬間に察知され、それはもうひどい始末のされ方をするだろう。
だが主の忠実なる僕として、よき夢を見ている主の眠りを妨げるような不粋を見逃すつもりなどシュドナイにはない。
その主が夢を見られぬほど疲れて泥のように眠っているとか、夢でまでメンテナンスをされて歯ぎしりしているとか、そんな厳しい現実は知らん。
ただ良い夜の無粋者は、排除するのみ。
襲撃者たちが慌てて振り返った先、高い塀の上に月を背にしたシュドナイが佇んでいる。
九本の尾を禍々しく広げ、光る金の獣眼が背の月と同じ色をしている。
「なにようかと問うておるのよ。――答えぬか」
もう一度シュドナイが口を開き、そこで初めて目の前の小動物がしゃべっていることを理解する襲撃者たち。
驚愕の空気を洩らしながらも、一言も発することもなく抜刀したのはさすがというべきか。
だがそれを見てシュドナイの口が、笑みの形に開く。
月を背にしているはずなのに、その口腔が紅く紅く染まっているのが見える。
人語を解する小動物が何者なのかはわからない。
だがこの場に自分たちがこの装備でいることが露見したからには始末するしかない。
自分たちのターゲットがいつも連れている漆黒の小動物もバケモノだったことに驚きはするが、始末することに勿論躊躇いなどはない。
魔物の一種だったとしても、自分たちに敵うはずがないと何の根拠もなく慢心していた。
だが既に動けない。
己の意志に寄らず口もきけない。
見れば月を背に、巨大に広がったその小動物の影に自分たちは囚われている。
いやそれもおかしい。
すでに月が高い時間、その小動物の影は大きすぎる。
それに九つの尾の影は、その本体とは関係なくうねうねと動き、襲撃者たちの身を絡め取っている。
「――答えぬのであればよいわ」
ずるずると影を大きくしながら、その小動物が邪悪に嗤う。
その影の中から、遠く低く、無数の「鳴き声」が聞こえてくる。
その中に襲撃者たちは引きずり込まれてゆく。
犬。猫。狼。虎。獅子。熊。――正体さえも不明な「千の獣」たちの鳴き声が、シュドナイの小さな影の中から無数に響いている。
ぽきゅ。ぐじゅ。
そして先に深く沈んだ者の影の下から、鳴き声が止まり水気を含んだ濁音が響く。
それと同時に目を見開き、されど声を出すこともできずにずるずると影に沈んでゆく。
シュドナイの影の下で、千の獣たちに喰われてゆく。
十余りあった襲撃者のシルエットのほとんどがシュドナイの影の下に沈み、鳴き声も水気を含んだ音も少なくなってきた時点で、最後に残されたリーダー格らしい最後の一人がなんとか声を発することに成功する。
「ま、まってくれ! 助けてくれ! 何でも言う。雇い主も吐く。証人にもなる。だから……」
その声は意外にも女のものだ。
その声を聞いて、一瞬シュドナイがきょとんとした表情をする。
最後の一人は思ったのだ、その情報が欲しくて自分だけを残したのだろうと。
そしてすべてを吐けば、黒幕に対しての証拠、証人として自分だけは生き残れるだろうと。
だが違う。
その勘違いを聞いて、黒い小動物は嗤う。
その影の下に潜む、千の獣たちもみな嗤うように鳴く。
「吾輩はよいわというたぞ。――もはやそんなものはどうでもよい」
そう言うと同時、最後の一人も影の底へと沈みはじめる。
再び響きはじめる水気を含んだ音と、獣たちの鳴き声。
もはや再び声を出すことも叶わず、激痛に目を見開きながら影の底に沈みきるまでは死ぬことさえも許されず我が身をかみ砕き、咀嚼され、喰われながら徐々に沈んでゆく。
「黒幕だの、証人だのと愚かなことを。我が主に敵対したものは、そこでただ死ねばよい」
情報も証人も知ったことか。
黒幕とやらが何であれ、我ら僕が殲滅すればそれで済む。
難しいことは序列上位者たちに任せておけばよい。
シュドナイにとって、我が主に仇為さんとしたものを生かしておく理由など三千世界のどこにもありはしない。
――疾く死ね。
最後に片目だけ残った襲撃者の瞳に映った光景は、己を殺した小動物が月に嗤い、ざわざわと黒い己が身を震わせている光景だった。
絶対に手を出してはいけない相手だということを理解すれども、それを誰にも、自分たちの雇い主にも告げることなどできず、とぷんと影に沈んで終い。
全てが終わった夜には、すでにシュドナイの姿もない。
ただ月とそれに照らされて微睡む、平和ないつものアーガス島迷宮都市の夜がただ在るだけである。
「おはようございます、我が主!」
「ああ、おはようシュドナイ。今日もよろしくね」
朝。
まだ日は低い位置に在り、早朝と言っていい時間帯。
結構夜更かしであるにもかかわらず、ヒイロの朝は早い。
それは主を眠りの園から呼び戻す役を、取り合ってやりたがる者たちが居るためだがそこは置く。
すでに身嗜みを整え、完璧に仕上がっているエヴァンジェリン、ベアトリクス、白姫に比べてヒイロはまだ寝ぼけ眼で、寝癖もついたまま。
今からまた三人がかりで準備をされる、騒がしい時間帯が始まるのだ。
「お任せください。しかしそろそろ『世界会議』の予定日ですが、相変わらず迷宮攻略を続けていてよろしいのですか?」
「ああ、そのへんの仕込みはセヴァスが中心でやってくれてるから、当日まではいつも通り、かな?」
「左様ですか」
であれば吾輩などが気をもむ問題ではあるまい、とシュドナイは割り切る。
あの「執事長」が動いているというのであれば、なんの瑕疵もないのは間違いない。
「シュドナイも毎晩お疲れ様」
そう思っていたら、主から思わぬ礼を言われた。
毎夜シュドナイが、忙しいセヴァスに代わってヒイロの身の回りの「塵掃除」をしているということに気が付いているのだ。
嬉しいのだがどこか面映ゆい。
「……我が主ほどではございませんが」
そういうとシニカルな笑みを浮かべたヒイロに、尻のあたりを緩く蹴られる。
恐れ多いとも思いながら、シュドナイはこの空気が楽しくて仕方がない。
自身も女性体であればエヴァンジェリン、ベアトリクス、白姫のような喜びを得られたのかもしれないが、雄である己にはこれこそが身に余る充実。
今日もシュドナイはヒイロの前に立ち、迷宮を先導するのだ。
絶対の主たるヒイロに対して己ら僕が多かれ少なかれ親しみのようなものを得、それによって己自身も変わって行っていることを自覚はしている。
それが良いことなのか悪いことなのか、今はまだ判じきれない。
分をわきまえ、図に乗らぬようには細心の注意を払って律することは当然。
だがこの変化が『天空城』――主にも、僕たる自分たちすべてにとっても悪いことでなければよいなと、我知らず願う『千の獣を統べる黒』である。





