第56話 ヒトの至れる高み
空中に浮かぶヒイロの目の前で、アルビオンの巨躯が轟音と共にアットワ平原に崩れ落ちてゆく。
雲にとどこうかという威容でありながら、その形は美しい女性そのものというだけでも強烈な違和感、ある種のグロテスクさをヒトに与える。
それが頭の天辺から股下まで真っ二つにされ、わずかにズレながら崩壊する光景となれば、もはや恐怖を通り越して笑いが漏れるレベルのものとなる。
実際、顕現した主神アルビオンに一縷の望みを託していた残存の『教会騎士団』たちの多くは、我知らず笑いの形に己の顔をゆがめている。
ヒトというのは不思議なもので、己の許容量を超える経験を得た時にはなぜか笑う。
笑うしかないのだ――――己が心に巣食った、絶望と狂気に身を任せて。
涙と涎を流しながらへらへらと笑う己の信者に囲まれて、アルビオン教の象徴、主神アルビオンが崩れてゆく。
それは世界宗教であるアルビオン教の崩壊と同義と言ってよい。
アットワ平原には各国、各組織の間諜が無数に配されているし、上空に浮かぶ三つの『九柱天蓋』は「アットワ平原の聖戦」の推移をすべて克明に記録している。
真なる神の顕現と、ヒトの手によるその討伐。
それがヒトの世にどのような形で受け止められるのかはまだ未知数だが、間違いなくこの事実は拡散される。
そしてヒトとヒトとの戦いであろうが、ヒトと神との戦いであろうが、勝者が正義とされ、敗者が邪悪とされることに違いなどはない。
神をも侵略の道具として使わんとした邪悪なるアルビオン教が、迷宮で得た力を正しく行使する冒険者ギルド――アーガス島独立勢に倒された。
それが唯一の真実とされる。
放置しておけば世界中に及んだであろうアルビオン教の暴虐、その狂気を、水際で阻止した救世の英雄。
それがアーガス島独立勢の立ち位置となる。
実際に神と対峙し、それを退けたアルフレッドやアンヌ、今も空中に浮かぶ魔神モードを発動しているヒイロは間違いなく「勇者」だとか「救世主」と呼ばれることになるだろう。
無邪気に褒め称える市井の民たちはともかく、権力に近い者たちの笑顔の裏には打算とへつらい、そして――化け物に対する本能的な恐怖が隠されているだろうが。
ともかく戦は決着したのだ。
アルビオン教上層部が望んだのとは、真逆の形で。
『――お見事です』
二つに断たれ崩れゆくアルビオンの言葉に、空中に浮くヒイロは答えない。
ヒイロは一切の手を抜かずに、己の忠実なる僕を両断した。
主と僕であったとしても、勝者が敗者にかける言葉はないのだ。
高位魔法使い同士の戦いでは必中魔法が前提となってくるため、魔法使いの高速機動では互いに躱しきれず、最強呪文の当て合いになることが多い。
己が最大呪文の攻撃力と、相手の魔法防御力の差し引き。そしてその逆。無数の撃ち交わし。
あとは体力値と魔力値の多寡が勝敗を分ける。
だがアルビオンは己の最大の魔法を一撃、ヒイロに叩き込めればそれでいいと思っていた。
己の全力を主がどのように受け、己をどのように屠るかにしか興味がない。
勝てぬことなどわかっていたのだ。
それでも主と戦える事にこそ意味がある。
これは主と戦い、敗れた上で『天空城』に加わった僕たちに憧れを持つ、儀式召喚型の僕たち皆が思っている事である。
僕たちの在り方の根底はやはり戦う者のそれであり、その本能が絶対者へ挑むことを求めるのだ。
アルビオンが使用した魔法は、『来たれ、汝甘き死の時よ』
アルビオン教においては世界と同義である己を周囲の世界そのものとリンクさせ、自壊によって効果範囲の世界を文字通り崩壊させる禁呪。
自身と同じ大きさの『生命の樹』を現出させ、10の座と、その間を繋ぐ22の小径を己の魔力で満たし、世界と同義とする。
魔法陣完成と共に空は昼と夜が入り混じり、この世界にはないはずの惑星・衛星が直立するという派手な魔法効果を伴う。
そして『生命の樹』が砕け散ると同時に、魔力作用点から球状に世界に無数のひびが入り、一定範囲内の空間を「世界崩壊」させる。
魔法が成立すれば、この世界からアットワ平原という場所が消滅することになったはずだが、それをヒイロは力技で阻止して見せた。
広がり始めた世界のひびを、己の魔力を込めた暗黒洞で覆い、止める。
そのまま暗黒洞を爆縮させ、『世界崩壊』という現象そのものを消し飛ばす。
アルビオンの禁呪を、己の魔力で砕いたのだ。
相手の魔法の出掛かりを潰す、『魔成妨害』はヒイロがお気に入りの魔法の一つで、ゲーム時代はプレイヤー限定魔法だった。
現実となったこの世界では、これを喰らった魔法使いはほぼ何が起こったのか理解できないままに敗北を喫するだろう。
相手が発動した魔法に数倍する魔力量を要求されるため、かなりのレベル差が必要とはなる。
ヒイロがレベルアップ時に魔力量増加にこだわるのはこれがあるからである。
その後はこれもヒイロがお気に入りとしている『見斬』――陰系瞳術魔法の最高位術、己の瞳が映した敵に、それを両断できる刃を顕現させる――を叩き込み、一撃のもとに勝負を決めた。
今はもう消えているが、三百メートルを超えるアルビオンを縦に割断する巨大な刃の顕現に、それを見たモノすべての思考が半ば停止したのはやむを得ないだろう。
人間離れ――そんな言葉で済ますにははるかに及ばない力の行使をその目に見て、平静でいられるヒトなどはいないのだ。
その力に対して敵として立っている『教会騎士団』の生き残りたちが、笑うしかなくなるのもむべなるかな。
『勝負はつきました。僕たちの――ヒトの勝ちです』
再び空中の巨大な表示枠に、魔神モードのヒイロが映され、戦いが終わったことを宣言する。
それを受けてアーガス島陣営からは爆発的な喝采が、完全に崩壊しているアルビオン教陣営からは放心したような溜息や、助かったことに泣き出す声が聞こえる。
自分たちの主神を真っ二つにした張本人が戦の終りを告げたことにより、ここから皆殺しにされることはないとの理解から、力が抜けたのだ。
だがその宣言を聞く、両陣営以外の者は思っている。
確かに勝負はついた。だがそれを――ヒトの勝ちだとのたまうのか、と。
魔神モードから通常へと戻りつつあるヒイロの姿が、リアルタイムでこの情報を得ているであろう、世界を動かしていると自認している者たちの内心を表しているともいえる。
神を屠った魔神に、我々の世界は蹂躙されるだけではないのか? と、その姿を見ている者はみな考えずにはおられないだろう。
冒険者ギルドが『連鎖逸失』の存在しない迷宮の深奥から甦らせてしまった魔神。
それが今ヒトのふりをして話している、誰もが知る神様、主神アルビオンを一刀両断してのけたヒイロという存在ではないのか。
だがその限りなく正解に近い不安も、ヒイロの続く宣言でそれどころではなくなる。
『神をも倒しえたこの力は、間違いなくヒトの力です。『連鎖逸失』を超えた迷宮での鍛錬により、ヒトが必ず至れる高み』
わりと嘘である。
ヒトの生涯を鍛錬に捧げたとしても、ヒイロの位置まで辿り着くことは不可能だ。
そもそもヒイロはプレイヤーであり、この世界に生きるヒトとは別種の存在だ。
そしてそのプレイヤーであるヒイロをして、この世界の基準であれば千年に限りなく近い数百年を、百度繰り返してやっと辿り着いた高みであるのだから。
だが――
複数の表示枠に映し出された、六人の姿にアーガス島陣営は一段と湧く。
『黒旗旅団』の連中はノリで騒いでいるだけだろうが、『黄金林檎』に属する冒険者たちやポルッカは、表示枠の中で仮面を取ったその顔をよく知っている。
『四属神を退けた彼らの正体が、それを証明します』
冒険者ギルドでは死んだと見做されていた六名の冒険者。
『連鎖逸失』に挑み続け、それでもその突破を為し得ぬままに無念の死を遂げたはずの、有名な固定パーティー。
アルフレッドやアンヌの事をよく知る者たちこそ、それが生きており、属神とは言え神を倒し得た事実に興奮を抑えきれない。
正体不明の美少年ではなく、つい数か月前までは自分たちとそう変わらぬ位置に居たはずの者たちが、神をも倒す。
それを可能としたのが『連鎖逸失』の存在しない迷宮における鍛錬だというのであれば、確かに戦いを生業にする者であればそこへ至れると信じるに十分な、生きた証拠ともいえる。
『そして冒険者ギルドは此処に宣言します。現在世界に存在するすべての迷宮と魔物領域を、冒険者ギルド管理の上で――』
喝采はない。
地を揺らすような快哉は叫ばれない。
いっそ静まり返っているアットワ平原の上空に、ヒイロの宣言が響く。
『『連鎖逸失』から解放します』
それを耳にしたすべての力持つ者たちに激震が走る。
その宣言がハッタリなどではないことは、バカでなければ理解できるからだ。
神をも屠るその力をもって、今までヒトが諦めていた各地の『連鎖逸失』をすべて解放することは確かに可能。
事実とは少し違うが、結果は変わらない。
そして解放されたアーガス島の迷宮だけでもこれだけの力を得ることができるのであれば――
解放された各迷宮、魔物領域から得られる利益は膨大なものとなるのは言うまでもない。
それよりももっと重要なのは、今世界各国の均衡を保っている「軍事力」というものの基盤が、一から再構築されるということだ。
いまの世界最高レベルなど、話にならない高みに在る戦闘能力。
それを得るためには、解放された迷宮での鍛錬が必須であることなど、誰でも理解できる。
つまり。
このヒイロの宣言をもって、今この時より世界のキャスティング・ボートは冒険者ギルド――いや、アーガス島独立勢が握り、世界はその意向に沿って動くしかなくなったのである。
後に『大迷宮時代』と呼ばれ歴史に燦然と刻まれることとなる、ヒトの大躍進時代の幕開けである。
「フィッツロイ公爵」
アットワ平原の戦況を『九柱天蓋』の旗艦から見守っていたウィンダリオン中央王国の『幼女王』スフィア・ラ・ウィンダリオンが、現在の右腕ともいえるフィッツロイ公爵に声をかける。
公的な場ではもちろん、素を出すようなことはなく陛下モードを堅持している。
胸元に蒼く輝く『支配者の叡智』が美しい。
「なんでございましょう、陛下」
「貴様は賭けに勝ったな。御子息と御令嬢は今後世界を左右する御仁の側近となり、『神殺し』の通り名を得て英雄となった」
アルビオン教が「聖戦」と称した侵略行為は、アーガス島勢の圧勝で幕を閉じた。
それどころか「神殺し」という今まで存在しなかった『英雄』を産み、アーガス島勢は神を詐称する魔物による征服から世界を救った立役者となりおおせた。
『静止した世界』でヒイロと行った会議通りに情勢は推移したというわけだ。
そして「神殺しの英雄」のうち二人は、フィッツロイの性を名乗る者。
祝いの一言も申し述べようというものだ。
「それは愚息と愛娘の事でございます。私は陛下の忠実なる臣下に過ぎませんよ」
「ふむ、その位置の方が利があると見るか。まあわからぬでもない」
「滅相もございません」
英雄の親として前にでるよりも、スフィアの忠臣としての立場を堅持する方がはるかに利がある。
間違いなくフィッツロイ家現当主アルフォンスはそう判断している。
今軸足を置くべきは目に見える様々な現象ではなく、ヒイロにどう思われるかだ。
それをこの時点で確信できている己の立ち位置を、今さっき殺された神に感謝したくなるアルフォンスである。
「小芝居は不要だ。まあ余も他所に比べればかなり有利と言ったところか? どう思う?」
スフィアはヒイロを疑っているわけではない。
ないがあんな会議一つで、己が世界の王となる確約を得たと思えるほど純でもない。
有利なことは確か。
だがそれとてもいつひっくり返るか知れたものではない、不安定なものに過ぎないのだ。
約定を反故にする者に抗する手段を持たぬ身では、そんなものに何の価値もない。
そのことはアルフレッドはもちろん、スフィアもよく理解できている。
こう見えても二人は大国の王と、大貴族なのである。
「それは間違いなく。アーガス島の独立を認めたとしても我が領内に在ることは変わらず、冒険者ギルド――というよりもヒイロ殿、そのヒイロ殿が信任するポルッカ殿とも陛下は友好的な関係が築けております。シーズ帝国、ヴァリス都市連盟ともに我々にとって周回遅れといっても過言ではありますまい。もっとも――」
「もっとも?」
「シーズ帝国には第一皇女であるユオ・グラン・シーズをはじめ美姫は多く、ヴァリス都市連盟の総統令嬢アンジェリーナ・ヴォルツもその美しさでは有名ですな」
アルフォンスの目は笑っていない。
「――何が言いたい?」
「陛下がヒイロ殿を王配に迎えれば、ウィンダリオン中央王国が世界を統一するという話は、より確実なものとなりましょう」
「…………」
――ここで素に戻ってテレることでもできれば、私も可愛げがあると思えますのに。
そのことは当然スフィアも考えていたことなのだ。
だがそれを良い手だと言い切る自信が、スフィアにはない。
ヒイロの周りにいる女性たちもそうだし、ヒイロほどの力を持つ者にとって、大国の王配などというものは重荷にこそなれど魅力的なモノではないのではという危惧もあるのだ。
「太刀打ちできないとかそういうことはどうでもよろしい。形だけでもそうなることが重要だと申し上げておるのです」
「軽挙妄動は尻尾を踏みかねんぞ」
そのあたり、上昇志向の塊であるアルフォンスにはピンと来ぬものか、スフィアに女としての自信がないからだという点だけを理解している。
――確かにそれもありますけれども!
「そこですな」
だがこの際拙速は利にならぬ、というのはアルフォンスも同意見のようだ。
焦って今のアドバンテージを失うのは愚の骨頂。
女を使うのは周りが使いだしてからでも遅くはない、今一番近い位置に居るのが自分たちだということを最大限に利用すればいいだけの話だ。
それに下手に策を弄することこそが悪手となる危惧もある。
ヒイロ本人もだが、彼に付き従う者たち、とくにエレアとセヴァスと呼ばれていた男性二人は、アルフォンスをしてただものではないと思わせるに足る空気を放っていた。
それは怪異としてのものではなく、アルフォンスの得意とする、政治や経済の分野においての判断である。
彼らがいる以上、無策でヒイロの懐へ飛び込むのがもっとも効果的である可能性もあるとアルフォンスは判断し、今のところそのように行動してもいるのだ。
「それにフィッツロイ公爵の御子息と御令嬢の力が、ヒトの力に夢を見させてくれるものだというのは認めよう。――だがヒイロ殿のあれは……」
「陛下。――どうあれヒイロ殿は存在するのです」
スフィアの言わんとすることは理解できなくはないが、それを遮るアルフォンスである。
ヒイロがヒトであれ、それ以外の者であれ。
あの圧倒的な力は現実として己らが生きる世界に既にあり、目を背けて生きていくことなどもはや不可能となっているのだ。
であれば世界に責任を持つ立場にある者のすべきことは、それを懐疑したり目を背けたりすることではなく、正面からその力と対峙することであるはずだ。
たとえ御せぬ力だとしても、その膝下に跪いてでもよりマシな方向へ導く努力はするべきなのだ。それがこの世界において「持つ者」として生きてきた己らの責務であろう。
「そう、じゃな……」
ヒイロの美しい、邪心のない顔を思い浮かべているスフィアに、『支配者の叡智』から誰の者ともしれぬ記憶・知識から導き出されたある思考が浮かぶ。
普通の善良なヒトが世界を滅ぼし得る力を持っているということが、実は一番恐ろしいのではないか、と。
「ふん。自作自演で世界のためってかい。危ういねぇ……」
アットワ平原のはるか上空に、『はじまりの賢者』と呼ばれる老婆が浮遊している。
その目にはステルスモードになっている『天空城』も映し出されているし、ついさっきまで行われていた戦闘のすべてを確認できている。
「いい子でしょう、ヒイロ君。今回こそはと期待しているのだけれど」
「アンタはあの子につくのかい?」
その背後に、ヒイロに「放し飼い」をされている十三愚人のⅦにして元プレイヤー、シェリル・パルヴァディーも浮いている。
「ええ。全力でフォローするつもり。私にできることなら何でもするわ。十三愚人を敵に回すのも厭わないわよ? なんなら私の拠点も起動させる」
「……そんなにこの世界が嫌いかい?」
溜息をついて問う老婆の質問に、いつも笑っているようなシェリルの美しい顔から表情が抜け落ちる。
「――当たり前でしょう?」
完全な無表情から、抑揚のない声で告げられるシェリルの返事を聞いて、老婆は一つ肩を竦めた後、転移魔法でその姿を消す。
今この場でヒイロたちに接触するつもりはないようだ。
老婆の消えた空間をしばらく無表情で見つめていたシェリルがふといつもの様子に戻り、こちらも一つ肩を竦めて自分も転移でこの場所から姿を消した。
まだ舞台は序盤なのだ。
即興師が引っ掻き回す場面でもなければ、機械仕掛けの神が登場するべき場面でもない。
もう今しばらくは本来舞台に上がるべき役者たちだけで、この世界の舞台――Theatrum Orbis Terrarumを回してもらう時間帯なのである。





