第閑話 世界の舞台裏 ~Re:Theatrum Orbis Terrarum~
この世界に在りながら、この世界のどこでもない場所。
地続きでありながら、舞台上で踊る者たちからは認識されない裏側。
舞台裏――矛盾空間、大伽藍圏。
その最奥に巨躯というにも生温い、地上に墜ちた衛星の如きなにかがいる。
在ると言った方がしっくりくるほどの、ただただ巨大ななにか。
それは俯瞰してみれば、自らの無数の翼で我が身を覆い、膝を抱えてうずくまる巨大な神像にも見える。
まるで割れた卵の殻のようにその周りを囲むこれもまた巨大な壁から伸びる、無数の鎖がそれをここ――大伽藍圏に縛り付けているかのようだ。
だがこれだけ巨大なものを、ヒトの手で造ることなどできはしない。
確かにそこに在り、見る者を圧倒する光景であるにもかかわらず、それはどこか嘘くさい。
確かにヒトの手によって造られた巨大建造物や、逆にヒトの手など到底及ばない大自然が生み出す雄大な風景を見た時に誰もが得る、魂の根源が震えるような畏怖を感じない。
それはその巨大ななにかだけではなく、大伽藍圏全体から誰しもが感じる、まるで夢の残滓を忘れかけながら眺めるような感覚である。
「お久しぶりさね」
その空間に、ヒトの声が響く。
彼我の対比では月とヒトが話すようなものだが、どうやらその声は巨大ななにかに挨拶をしてるようだ。
老婆の声。
老婆の姿。
いかにも魔法使いでございますというような、ローブと杖。
だがその姿もこの空間と同じように、どこか嘘くさい。
『飽きないね、貴女も。勇者、英雄、救世主――今この時までの実在しない歴史において、あらゆる立場で世界を導いてきたはじまりの賢者』
その声に、巨大ななにかが応える。
それは世界そのものが発したかのように、どこから聞こえるのかが判然としない。
巨大ななにかは、その老婆の事を『はじまりの賢者』と呼ぶ。
「やかましいね。アタシにとってはそれこそが真実さ。本当にあったかどうかなんてな関係ないね」
『相変わらずお強い』
巨大ななにかの言葉を鼻で笑い飛ばす老婆。
「実在しない歴史」とは何を指すのかを理解した上で、そんなことは知ったことかと言い放つ老婆に、巨大ななにかは今回も感心せざるを得ない。
「よく言うよ、アンタがその気になりゃ一撃で今回のこの身は砕かれる。そうすりゃ少なくとも今回はアタシが舞台に上がることはない。――そうするかい?」
己が「強い」と評されたことに対して、不本意そうに鼻を鳴らす老婆。
『私は貴女に負けた身だよ。忘れたわけじゃないだろう?』
だが巨大ななにかの答えは、老婆に自身が負けたということを告げる。
であれば大伽藍圏にこの巨大ななにかを壁と鎖をもって封じたのはこの老婆――『はじまりの賢者』ということか。
「負けたのはアンタ自身にだよ。ヒトのせいにするんじゃないよみっともない」
だが老婆はその言葉も笑い飛ばす。
確かに戦ったことはあるのだろう。
そしてその決着は、間違いなく老婆の――『はじまりの賢者』の勝利でついている。
だがその真実は、お互いの中に別のカタチであるのかもしれない。
『手厳しい』
「事実だからね。あんたは今回も舞台にゃ上がらないのかい?」
苦笑めいた響きを伴う声に、そんなことはどうでもいいとばかりに老婆が問う。
あるいはそれを問うためだけに、普通ヒトが絶対に訪れることのできない大伽藍圏を訪れたのかもしれない。
今この時――はじまりの時代に。
『貴女の言うとおり、私は自ら舞台を降りた者だよ。舞台に上がる者に干渉することはもうしない』
だが巨大ななにかは老婆の望み、もしくは危惧するようなことはしないと断言する。
ただその言葉からは、以前はしていたということも明確に伝わる。
「覇気のない」
『返す言葉もない』
敵対している者同士とは思えない、古い友人同士のような空気が両者の間には確かにある。
そもそも敵対している者だというならば、老婆は何のために今ここへきているのか。
老婆の言葉には、巨大ななにかが自ら舞台に上がることを期待しているニュアンスが確かに含まれている。
「アンタのお仲間は今回もなんやかんや暗躍してるよ」
『元仲間だよ。私は最後に残された愚かな望みすら自ら手放した身。十三愚人の仲間を名乗る資格はすでにない』
十三愚人の事もこの『はじまりの賢者』は知悉しているようだ。
そして巨大ななにかは、過去「十三愚人」の一人だったという。
その当時は「十四愚人」を名乗っていたのだろうか。
「今回のはおそらくアンタと同等かそれ以上だよ。それでもかい」
『…………』
重ねられる老婆の問いに、巨大ななにかは黙して語らない。
今回の――それは間違いなく『黒の王』を首魁とする『天空城』勢の事をさしている。
「そういう意志だけは固いと来たね。……それもまあいいさ」
沈黙を守る巨大ななにかに対して、溜息を一つついて老婆が踵を返す。
確認には来る。
何なら期待もする。
だが老婆には無理強いをしたり、説得したりするつもりはないようだ。
『行くのかい?』
「それがアタシの役割だからね」
老婆の答えはそっけない。
何を当たり前のことを、と言ったところだろう。
『甘くない私が相手だというなら――今度こそ貴女は勝てないよ?』
「勝てないからって放り出せる程度のことを、アタシは役割とは呼ばないよ」
振り返らぬままに、宣言する。
そこには悲壮な決意とか、絶対の意志とか、死をも顧みないという固いものはどこにも感じられない。
そこにあるのは、この老婆の静かな在り方だけ。
「この世界を終わらせる可能性の存在をアタシは赦さない。その芽を摘むためには誰のどんな望みでも踏みにじってみせるさ。アンタはどうなんだい、『はじまりの愚人』」
『――もう私は愚人ではないよ』
自分は変わることなくこう在る。
お前はどうなんだと問われた言葉に、力無く巨大ななにかは答える。
愚か者でさえもいられない、ただの敗者。
すでに舞台から降りて久しい、忘れ去られた脇役。
「だったら……アタシが助けてって言ったら、力を貸してくれるかい?」
老婆の小さな声は、巨大ななにかには届かず虚空に消える。
そんなことは百も承知で、一度も振り返ることなく老婆は大伽藍圏を後にする。
これ以上かける言葉はない。
かけられる言葉もない。
次に話すことがあるとすれば、文字通り「次の」始まりの時代を迎えた時だけ。
そう思い定めて、二人は再び袂を分かつ。
だが最後となる今回。
二人は最終局面で、再び相見える可能性がまだある。
これからヒイロがこの世界の舞台で演じる役割次第で、世界は本来はなかったはずの幸せな終劇へと導かれる可能性をまだ残している。
世界と、十三愚人と――ヒイロ率いる『天空城』
それぞれの望みがぶつかり合い、絡み合い、どれだけ繰り返しても二度とはない自分たちだけの歴史を繰り広げたその最果て。
ヒイロ本人は意識することなく、思うがままに振る舞った結果が奇跡のように収斂する最後の時間帯。
その時にこそ「巨大ななにか」は己が望みを取り戻し、すべての鎖を断ち切ってこの舞台裏――矛盾空間、大伽藍圏から、世界の舞台――Theatrum Orbis Terrarumへと帰還するのかもしれない。
あたかも銀幕に復帰する、忘れ去られていた名優のように。
幸せな結末を真に望むのであれば、己の望みだけではとても足りない。
誰もかれもを巻き込んで、悲劇なんて笑い飛ばす必要が絶対にあるのだ。
君が笑えば、世界は君と共に笑う。
君が泣けば、君は一人きりで泣くのだ。
全てがうまくいかない時、微笑む者にこそ価値がある。
エラ・ウィーラー・ウィルコックス





