第32話 慈悲なき最適解
「なんでも言う! なんでもいうことを聞く! だから助けてくれ!」
全面降伏を告げる言葉が、迷宮に響く。
砕けた両の拳と両脚の重傷はそのままに、なぜか急に痛みが消えたディケンスが恥も外聞もなく慈悲を乞い願う。
ディケンスにもヒイロという異質な存在の恐怖は、嫌というほど伝わっている。
自分が、いや組織が総力を挙げても敵わないということも理解できてしまっている。
成長限界まで至った自分が、まるで小虫のように扱われているのだ。
桁が違う相手を前にすれば数などなんの力にもならないことは、嬉々として今まで自分が立証してきている。
その立場が今、入れ替わったということだ。
であるならば組織に義理立てする必要などないし、「組織が黙っちゃいないぜ」などという脅しなどまるで通じないだろうということくらいはディケンスにも理解できる。
今まで自分が始末してきた中にはそういう者も多かったからこそ、そんなときに強者側がどんな残酷な感情を持つのかを知悉している。
俺を誰だと思っている、国が、軍が、ギルドが、仲間が、お前など――
隠しきれぬ恐怖と絶望を瞳に浮かべつつ、そう喚き散らす相手をディケンスは「今ここに居なきゃ間に合わねえなあ。いても同じだがよ」と嘯きつつ、嘲笑いながら殺してきたのだ。
――同じことをされる。殺される。死ぬ。終わる。
ついさっきまでは痛みに支配されてのた打ち回っていたが、全く四肢を動かせないままに痛みだけが消えた今、純化された死の恐怖だけがディケンスを支配している。
今目の前にいる、冒険者ギルドで会った時は害のないお坊ちゃん、天賦の才に恵まれた天使のような美少年にしか見えなかったヒイロが、ディケンスの命など第一階層の魔物と同レベルにしか考えていないことがひしひしと伝わってくる。
何よりも恐ろしいのが、第一階層の魔物を狩るのと変わらぬ労力で、ヒイロが自分をそうすることが充分可能であると理解できてしまっているということだ。
ヒイロの感情の感じられない朱殷と白金の瞳がディケンスをじっと見下ろしている。
「組織の本拠地か? 仲間の数か? 名前と潜んでいる冒険者ギルドか? なんでもいう! なんでも正直に答える!」
本気である。
今ここで偽る気も、組織や仲間に義理立てする気も毛頭ありはしない。
ただ今助かるためには、自分の生殺与奪を握っている相手に有効な情報を提供するしかないとディケンスは確信している。
情けなかろうとみっともなかろうと、ヒイロの歓心を買わねばならない。
でなければ確実に殺される。
それがわかる。
「いやそんなことはまあ……どうでもいいんです」
「――え?」
面倒くさそうにヒイロが応える。
一瞬恐怖も絶望も忘れて、ディケンスが聞き返す。
瞬殺可能な相手をあえて生かしておく理由が、情報を得ること以外に在るとは思えない。
溜息を一つついて、ヒイロが説明する。
「貴方も、貴方の言う組織とやらも間違いなく蜥蜴の尻尾でしょう? 『連鎖逸失』をおこしている――者なのか、組織なのか今はまだはわかりませんが――少なくとも何段階にも安全弁を挟んで、そう簡単には自分たちにたどり着けないようにしているはずですよ」
ヒイロは自分ならそうする。
そしてそうまでするということは、自身もしくは自身の勢力にそこまで絶対的な自信を持っていないのだろうとも判断している。
万が一辿り着かれたら破滅する、自分たちを破滅させ得る「力」がこの世界のどこかには存在することを確信している。
だからこそ慎重になっている。
回りくどい手段で細心の注意を払って、それでも世界に干渉している。
少なくとも『連鎖逸失』に多くの人々が疑問を持ちえない程度には。
自分と『天空城』の力を信じ、あるいは過信して結構大胆な行動をとっているヒイロに比べれば、慎重に慎重を重ねるような抜かりない相手と言って間違いない。
『凍りの白鯨』の時の直接介入は、その相手にとってはかなり大胆な選択だったはずだ。
その件も踏まえた上でヒイロは彼我の戦力について、今のところは『天空城』が上回っていると判断している。
迂闊と言ってもいい行動をとっているヒイロたち『天空城』に対して、現時点でも直接的な行動に出てこないということはそういうことだろう。
こっちは相手を捕捉できていないが、間違いなく向こうはヒイロたち『天空城』を捕捉できているはずなのだから。
「つまり貴方たちを泳がせようが拷問しようが、簡単に尻尾を掴ませてくれるような迂闊ものだとは思っていません」
ディケンスだけではなく、その所属する『組織』そのものが大した情報をもっているとヒイロは思っていない。
その背後にいるであろう存在を、今回のこの一手だけで炙り出そうとはハナからしていないのだ。
「――だから僕たちはとりあえず貴方たちを組織ごと消して、敵の反応を見ることにします。迂闊に動いてくれればいいんですが、さてどうかな?」
よってそういう結論にたどり着く。
直截的に世界に介入する手段が失われれば、水面下でそれを再構築しようとするのは自明の理である。
ヒイロたちにしてみれば、その際に生まれる「不自然さ」を捕捉すればいい。
慎重を期してしばらく動かないというのであれば、それはそれで構わない。
少なくともその期間、敵が世界に直接的な介入ができないということはヒイロたちの利になるからだ。
実際現状では手も足りなければ準備も整っていない。
上手く動かれれば『管制管理意識体』の監視をすり抜けることも可能かもしれない。
世界に対してはともかく、想定される敵に対して自分たちの動きを隠す必要のないヒイロたち『天空城』勢にとって、時間の経過は味方である。
各国への僕と自動人形侍女の送り込みを進めれば、それだけ敵を釣り上げやすくもなるはずである。
そのために初手として、とりあえず『謎の組織()』は壊滅させる。
そうこともなげに言ってのけるヒイロに、ディケンスは二の句が継げない。
ディケンスたちの組織は、ヒイロにとって敵として見做されてすらいないのだ。
「冒険者ギルドに潜り込ませているのも中枢部というわけではないみたいだし、大きな混乱にはならないでしょう。――各冒険者ギルドで、職員が何人か行方不明になるだけですよ」
そう言って微笑む――微笑んでそれを告げることができるヒイロは、本物の魔人に違いないとディケンスは思った。
自分たちを使役していた魔人と、別勢力の魔人が自分たちを潰しに来たのだ、と。
そしてそれはあながち間違いではない。
一つ間違っているとすれば、ディケンスたちに接触していたのが魔人とするならば、ヒイロは『魔人』とも言うべき隔絶した存在であるということか。
ヒイロが動き出した瞬間に、各冒険者ギルドの「容疑者」はすべて拘束されている。
ヒイロが主としてこれと言った指示をしなかったので、僕たちは各々最大効率で訊くべき情報を聞き出し、取るべき行動をとっている。
手段を選んでいない。
事実今この瞬間、すでに『組織』の本部は『天空城』に急襲され壊滅している。
洗いざらいの情報を引きずり出され、不要となった者の末路は対応した僕たちのみぞ知る。
そしてそれを知らせる表示枠が、タイミングよくヒイロの眼前に現れる。
『ヒイロ様。全冒険者ギルドにおける対象者の駆除はすべて完了しました。本拠地もすでに制圧が済んでおります。そこから辿ってつながりのある者もすべて駆除完了。紐は数本繋がっていますね。今は泳がせております――――迂闊ね』
上半身だけ表示されているのは『管制管理意識体』である。
その美しい顔に憂いを浮かべて、敵の迂闊さを嘆いている。
「御苦労さま。まあいいことじゃないか、尻尾を掴ませてくれるというのなら掴ませてもらおう。大体迂闊というなら僕らの動きもそうだよね?」
『……否定はしません』
その様子に苦笑いで応えるヒイロ。
姿と声を得てから、ずいぶんと個性を確立してきているものだと感心しているのだ。
実体化してほしいくらいに魅力的な容姿と声をしているのだが、これはこれでいいのではないかとも思っている。
エヴァンジェリンとベアトリクスが怖いというわけではない、決して。
いまも『管制管理意識体』からの表示枠であると解ってからは、加速度的に機嫌の水位を下げている二人ではあるのだが、これはお仕事なのでヒイロは涼しい顔のふりをしている。
そう、これは『天空城』の首魁としての仕事だ。
予定通り、こちらは最適解・最善手と判断した一手をさした。
相手がさしてくる手は予測できていたのに、少し遅れたのはご愛嬌だ。
あとはとりあえず、相手の出方を待つのみである。
だが処理せねばならない者が一人、ヒイロの足元に残っている。
ディケンスの耳にも、今の会話は届いている。
だがその内容を脳が理解することを拒否している。
四肢を砕かれたみじめな姿のまま、『魔人』としか思えないヒイロを見上げることしか、ディケンスにはできない。





