第21話 天蓋事件 上
分厚い硝子を割り砕くような音。
それと同時に地に降り注ぐ、無数の空の欠片。
その瞬間、世界中のヒトが――いや五感を持ち、魔力を感知できる存在すべてが確かにその音を耳で聞き、世界が砕け、剥落するのをその目で見た。
中央暦――0457年 ウィンダリオン中央王国
帝暦―――0521年 シーズ帝国
聖暦―――2218年 ヴァリス都市連盟
すべて夏待月七の日
創造神の御業である『静止した世界』が、神ならぬモノたちの手によって破られた瞬間である。
後に『天蓋事件』と呼ばれることとなるこの現象は、世界中で同時に発生した。
それは誰もが勘違いや思い込みなどとは思えぬほどに明確なものだったが、その後に特段なにも発生しなかったので、その時点では大きな混乱につながることはなかった。
ただしそれは「市井に生きるヒトたち」の間では、という限定条件が付く。
強大な力を持ち、世界を左右できる立場に在ると信じていた者たちほど、この瞬間を自分たちのみならずすべてのヒトが感知できたことも含めて驚愕した。
ともすれば過信しがちであった各々が信奉する、己を強者と見做すに足る“力”。
その“力”など市井の者たちとそう変わらぬ、取るに足りないモノとして扱える存在がいるということを確信したのだ。
そしてある者は深く静かに、あるモノは大々的に行動を開始する。
『因果事象』
神ならざるモノの干渉により『世界』が大きく変動する、その濫觴。
それはこの世界が本来辿るはずであった歴史から、大きく逸脱してゆく嚆矢となった。
世界の中に在る者は誰もそうと感知できぬままに、世界は「普通」を失った。
だがその震源地。
ラ・ナ大陸中央から南より。
大陸三大強国の一つに数えられているウィンダリオン中央王国領、その南端。
『迷宮都市島アーガス』においてはその限りではない。
この現象が『天蓋事件』と呼ばれるようになる事件の象徴、ウィンダリオン中央王国の最大戦力、魔導空中要塞『九柱天蓋』があっさりと陥落――というよりは文字通り砕かれたその地。
当時その場にいた者たちにとって間違いなく、今までの生涯で最大規模の騒動。
関わった者たちは例外なく思い知らされる他はなかった。
――世界には人知の及ばぬモノが確かに存在し、それは自分たちのすぐそばに在ることを。そしてその存在は、ヒトの都合などまるでしったことではないという事実を。
「なんだ、これは! 何が起こっている?!」
轟音が耳に入ると同時にギルド・ハウスを飛び出し、上空に膨大な魔力が渦巻いていることを感知したギルド『黄金林檎』の幹部、『鉄壁ヴォルフ』は空を見上げそう叫ぶしかなかった。
答えられるものがいるはずのないことなど理解している。
だが叫ばずにはいられなかったのだ。
『迷宮都市島アーガス』の中心地、冒険者ギルドや有力ギルドのハウスが立ち並ぶこの通りでも、表に出ているすべてのヒトは空を見上げ、ヴォルフと同じように叫びを上げたり、呆然としたりしている。
そして先の轟音に反応して建物から飛び出してくる人々で、あっという間に通りは人で埋め尽くされてゆく。
そのすべてのヒトの思考は、喚いていようが呆然としていようが総じて停止している。
何を考えていいのかわからないから真っ白になる――上空の異物の如く。
無理もない。
それほどの光景なのだ。
ウィンダリオン中央王国の国民、中でもこの『迷宮都市島アーガス』に暮らす人々は頭上に巨大な質量が浮遊していることに慣れている。
魔導空中要塞『九柱天蓋』が上空に浮かんでいることがもはや日常であり、魔法の――ヒトの力はそれを可能なさしめることを、理屈ではなく肌で理解できている。
だが今、アーガス島にいる人々の目に映るのはその常識すら通用しないモノだ。
巨大な――魔導空中要塞『九柱天蓋』すらもしのぐ――魔物。
純白の巨躯を誇る『凍りの白鯨』が、轟音と共に忽然と上空に現れたのである。
呆然とするなという方が無茶というものだろう。
空の欠片が割れ散る残滓も認識しながら、ただ空を見上げる以外何ができるというのか。
「あれが……魔物だって言うんですか?」
続いてギルド・ハウスを飛び出してきたヴォルフのパーティーの副長、『疾風のサジ』が、常に浮かべているシニカルな表情をさすがに失って呟く。
誰に問うでもない問いが、思わず漏れたという様子。
当然そんなことを聞かれても、ヴォルフに答えられるわけもない。
サジに続いて飛び出してきた己のパーティー・メンバーから注目されても、答える言葉など一つしかない。
「わからん……」
ギルド『黄金林檎』のメンバーは手練れの冒険者揃いである。
今この場に揃っているヴォルフが率いるパーティーも、冒険者ギルド本部に依頼されてここアーガス島の迷宮、その最先端を攻略している精鋭だ。
――つい先日も第五階層を突破し、第六階層が『連鎖逸失』となっていないことを証明したばかり。その結果を受けて、人類初めての「第六階層」を攻略するべく、世界中から有力ギルドや冒険者、それ以外の者たちもここアーガス島に集中し始めているのが現状――そんな中この事態は発生している。
とにかく魔物に関しての知識について、そこらの冒険者などよりもよほど詳しいからこその大手ギルドメンバーである。
なかでも幹部でもあるヴォルフとザジは、『黄金林檎』の最精鋭たちと共に、「連鎖逸失」が発生している迷宮に挑んだこともある。
「連鎖逸失」の発生している迷宮の下層に湧く魔物は、こちらの攻撃がまったく通らない――文字通り歯が立たない。
対して魔物の攻撃を受ければ一撃で死に至ることすらある。
『鉄壁』の通り名が示す通り、『黄金林檎』で当時からトップクラスの「盾役」だったのがヴォルフだ。
その実績と自信に裏付けられた技と盾をやすやすと貫き、死なぬまでも一撃で戦闘不能状態にされたのは苦い記憶である。
――俺たち『黄金林檎』なら、「連鎖逸失」を突破することだってできる!
そんな若い思い上がりを四人もの創設メンバーと共に叩き潰された、輝かしい大手ギルド『黄金の林檎』が抱える二度と消えない傷。
その消えない傷を抱えた――そこから生き残ったからこそ。
少なくともヴォルフとサジは、けっしてヒトの手には負えない魔物が存在することを、知識ではなく実体験として知っている。
それでも「わからない」としか言えない。
それほどに今、自分たちが目にしている魔物は規格外すぎる。
いっそこんな魔物もいることを最初から知っていれば、思い上がりで大切な仲間を亡くすことなどなかったのではとすら思う。
「攻撃……してきますかね?」
固唾を呑んでカティアが問う。
今ここにいる誰もが、最悪の想定として思い浮かべている事だろう。
おそらくそうなったら、ただの冒険者に抵抗の余地はない。
新人だとか手練れだとか、そういう問題ではない。
迷宮で大型魔物と対峙するのとはわけが違うのだ。
カティアの問いには誰も答えない。
誰もが最悪の事態となった場合、一縷の望みとしてウィンダリオン中央王国の最大戦力、魔導空中要塞『九柱天蓋』が何とかしてくれることを祈っているだろう。
日頃は頭を押さえつけられているようで鬱陶しがる者が多い『九柱天蓋』だが、こうなると縋るには足る一縷の希望である。
だがその期待は無残に裏切られることとなる。
最初の衝撃が落ち着きつつある中、アーガス島全体が急に陰った。
畏怖の対象であった巨大な魔物の直上に、アーガス島全島よりも巨大な浮かぶ陸地――浮遊島というには巨大すぎる――が先の魔物と同じく忽然と現れたからだ。
それに遅れて無数の黒点――おそらくは魔物――が純白の巨躯を誇る魔物の周りに現れる。
だれもがみな、口を閉じることも忘れて空を見上げ続けるしかない。
見たこともないような数の、魔物の軍勢。
魔物をよく識る者ほど、その光景に静かな絶望を得る。
魔物というのは基本的に多対一で何とかする対象なのだ。
それに徒党を組まれれば、ヒトには為す術などない。
それが原始的な群れではなく、明確な意志によって統率されているとなればなおのことである。
そして上空で展開されている情景は、意志・思考という点ではヒトよりも下だと信じられていた魔物が、そうではなかったということを如実に語っている。
集団で「転移」を使いこなす存在が、本能のみで動いているとは考えられない。
――どうしようもない。
逃げるにしてもどこに逃げるというのか。此処は島なうえ、相手はこの島よりも巨大な本拠地らしきものと共に侵攻してきているのだ。
終わりというのはこうも突然に、理不尽に降りかかるものなのか、とヴォルフはほぞを噛む。
思えば「連鎖逸失」に対して本質的な対応を取れていない時点で、いつこうなってもおかしくはなかったのだ。
ここまで圧倒的なものでないにしても、ある日「連鎖逸失」の奥から魔物が溢れだしてくればヒトの世は終わる。
そんなことは、魔物と対峙したことが一度でもある者であれば、誰もが知っていたはずだ。
そこから目を逸らしてき続けた結果が、今日この時なのか。
――やっと「連鎖逸失」のない第六階層に進めたってのに!
だがすべてはもう遅い――――としか見えない。
シンとした群衆――軍人も冒険者も一般人もない――が恐慌に陥らんとするその刹那。
絶望の象徴とも見えた巨大な純白の魔物に、巨大な光の柱が上から、黄金の炎と真紅の大剣が横から叩き込まれる。
轟音。
それと同時にその魔物が、島中に響く大叫喚をひしりあげる。
ここから見てもわかるくらいに跳ね回っているからには、確実にダメージをくらったのだろう。
――敵対している?
わかりはしない。
だがヴォルフは即応する。





