第18話 蹂躙
黒と白しか存在しない『静止した世界』
その中で色を保つ者――すなわち静止させた当人以外で動ける者は『黒の王』と、その僕『千の獣を統べる黒』のみ。
『凍りの白鯨』と対峙している。
もっとも二体ともほぼ黒一色と言っていい姿ゆえ、『黒の王』の腕に抱かれる冒険者「ヒイロ・シィ」だけが色をもっているようにも見える。
『千の獣を統べる黒』の金の獣眼が二つ。
『黒の王』の竜頭にぽかりと空いた眼窩にて、白金に揺れ輝く四つの「ゲヘナの火」
それに分身体の白に近い金の髪と魔法発動に伴う効果だけが、この墨絵の如き空間で文字通り異彩を放っている。
そこに届いた、届くはずのない二つの美しい声。
「シュドくん……ありがと」
甘く響く、優しげでありながら凜としたその声は『左府鳳凰エヴァンジェリン・フェネクス』
「よういうた! それでこそ側付の僕よ!」
元気いっぱいの物言いにもかかわらず、己の手の届かぬ我が身の背を舌で舐めあげられるかのような官能的な声は『右府真祖ベアトリクス・カミラ・ヘクセンドール』
声はすれども姿は見えず。
だがその二人を象徴する色彩が、白と黒の世界を侵食し始める。
まず生まれたのは黄金の炎。
『鳳凰』を象徴する不滅の炎が『黒の王』の眼前、まるで護るように燃え上る。その炎は一瞬も留まることなく、巨大化してゆく。
それとほぼ同時に虚空に見開かれる、紅の巨大な瞳。
『真祖』が持つ吸血鬼の神髄、『瞳術』の極みが、黒と白の『静止した世界』その黒の部分すべてに無数に見開かれ、そこから流れる真紅の血涙が黒も白も紅に染めてゆく。
『こ、これは……』
どんな存在であれ逃れ得ぬはずの、絶対の結界。
それが綻びをみせることに動揺を禁じ得ない『凍りの白鯨』
――わりとポンコツだし、意外と人間味あるよなコイツ。
余裕が出たせいか、結構のんきなことを考えている『黒の王』である。
もっとこう無味乾燥な『不正者絶対殺すマン』みたいなのを想像していたので、意外の念を禁じ得ない。
まあ『千の獣を統べる黒』がブチ切れるまでは努めてそのようにしていたのであろうが、それがあくまで「努めて」であったことを知れば見方も変わる。
脅威とならぬのであれば、突然今の状況に叩き込まれて混乱しているという点では仲間意識のようなものがなくもないのだ。
だがいつも通りのように聞こえて、その裏に火も凍らんばかりの怒りを満たした二人の声が再び届く。タダで済ます気などサラサラないことが、実はまだ一週間程度の付き合いしかない『黒の王』にも充分に伝わってくる。
「すこし、まってね、ブレド様」
「世界すべてを静止させるか。大した術じゃが我には通じぬ。すぐに壊すぞ主殿」
通じてたじゃねえか、と『黒の王』が心の中で突っ込んだことは秘するが華というモノだろう。
だが本来、世界の内にあるモノには絶対に覆せないはずの『凍りの白鯨』が行使する『静止した世界』。
それを『千の獣を統べる黒』のように己が動けるようになるだけではなく、術そのものを食い破らんとしている。
そんなことまでもが可能ということは、『黒の王』に連なるモノたちはみな、すでに半分以上外の存在と化している証左と言えるかもしれない。
だが白と黒の世界にじわじわと拡大する黄金と真紅が世界すべてを満たすのを待たず、『黒の王』も聞いたことのない声が『静止した世界』に響き渡る。
『You are way. too late!(遅い!)』
――誰?
『黒の王』の心の疑問に答える者はない。
いやこの声そのものは知っている。あっちで一番好きだった中の人の声だが、「T.O.T」には声を当てているキャラはいなかったはず。
――英語の発音が本格的じゃないところがよくわかっている! 誰がだ?
だが答えの代わりに、キィン! という澄んだ音が全天に響く。
その直後、『静止した世界』を行使している『凍りの白鯨』の直上に、蒼い点がぽつりと生じる。
――その蒼はにじんでいる。
黒白に染まる『静止した世界』において空は白。
蒼は本来の空の色である。
あたかも純白の画用紙に一滴、濃い蒼の絵の具をおとしたかのようににじみがじわじわと拡がってゆく。
拡がれば拡がるほどその速度を増してゆくそれは、黒白に染められた世界すべてを本来の色ににじませてゆく。鳳凰の黄金も、真祖の紅も、その一切合切を例外なく上書きしてゆく。
海側の空との境界――水平線。
陸側の空との境界――地平線。
その彼方まであっという間に到達し、今や白と黒であった『静止した世界』は、本来の色がすべてにじんだ、焦点の合わぬような世界に変じている。
――ガシャァン!
分厚い硝子を割り砕くような音とともに、そのにじんだ世界全体にまさに割れた硝子のようなヒビが走り、にじんだ世界を映したガラス片が剥落してゆく。
その向こうに在るのは、本来の世界。
時が刻まれ、対流する大気が風として頬を撫でる、静止せざるいつもの空間。
世界はすでに、通常の空間に戻っている。
だがまだ日の高い時間帯であり、空の色が蒼であった通り雲一つない晴天であったはずのアーガス島全体が陰っている。
まるで分厚い雲が上空に留まる、雨の日のように。
されど雨は降っていない。
そして海側も陸側も、一定の距離を置けば燦々たる日が射している。日の光が遮られているのは、『凍りの白鯨』を中心とした、一定の範囲のみである。
その距離は長いが、一定ではない。
『――!!!』
絶句する『凍りの白鯨』のはるか上空、忽然と現れた広大な陸地が浮かんでいる。
『天空城』
『黒の王ブレド・シィ・ベネディクティオ・アゲイルオリゼイ』の居城にして、名を同じくする組織の本拠地。
『天空城』とは巨大な白亜の城のみならず、それを支える広大な大地――アーガス島をはるかにしのぐ規模の山岳や湖も存在する。その天空に浮かぶ大地が陽光を遮り、アーガス島全域を陰らせているのだ。
「ユビエ様、ずるい」
「おのれユビエ殿、一人でいいところを持っていくとは……」
『I have nothing know about it.(知らん)』
――え? この声『管制管理意識体』なの? マジで?! 確かに変な英語だけど! なんで急にしゃべれるようになってんの?
エヴァンジェリンとベアトリクスとのやり取りに、素でおどろく『黒の王』
黒白の空間から通常空間に戻った瞬間、エヴァンジェリンは黄金の炎がそのまま本人に変じ、ベアトリクス(大人バージョン)は『黒の王』の陰から這い出るように現出している。
『千の獣を統べる黒』は序列上位者たちが動き出してからは、真の姿である巨体を縮こまらせて脇に引いて黙している。君子危うきに近寄らず。雉も鳴かずば撃たれまい。
その二人が非難する声とのやり取りを信じる限り、先の声と『静止した世界』を割り砕いたのはどうやら『管制管理意識体』で間違いないようである。
『――I was forced to visualizing.(必要に迫られて可視化しました)』
『管制管理意識体』(暫定)が『黒の王』の疑問にその声で答えると同時に眼前に表示枠が現れ、そこに見たこともないような美女が映し出されている。
どうやら侍女服に身を包んだその姿が、可視化した『管制管理意識体』ということらしい。
――そんなの「T.O.T」にはなかったぞ! てか必要に迫られてできるもんなの? そもそも何の必要に迫られたの?
混乱を余儀なくされる『黒の王』
まさかその理由がこの一週間、今まで己が独占していた『黒の王』との接点を、他の僕たちが得始めたことだとは思い至らない。突出して問題なのは約二名。あえて名は秘す。
あくまで『管制管理意識体』として自分から実体化までするつもりもないが、せめて見た目と声くらいは主好みにしたいと序列一位は考えたのだ。考えたからできる、というのもどうなんだという話ではあるのだが。
ちなみに主が望むのであれば自動人形としてでも、分身体を利用してでも実体化することを厭うつもりはない『管制管理意識体』である。
なにしろ敵は強大なのだ。
これまでのようにゲームとしての貢献をしていれば序列最高位を維持できていたのとはわけが違う。これに関してはどれだけ『黒の王』が言い訳を試みようが、この一週間の夜を観測していれば説得力は皆無である。
だが『黒の王』にしてみれば、本拠地の『管制管理意識体』がアバターを得るなど聞いたこともない。
当然のことながら担当絵師もいない以上、どうやってその姿を為したのだという疑問が湧くのもあたりまえだが、それは『管制管理意識体』の姿を見た瞬間に理解できてしまった。
――これあれや。俺の理想の妄想をそのまま形にしたやつや。
言葉が何やら妙になっているが、正解である。
ここ一週間、エヴァンジェリンとベアトリクスの美貌と肢体に晒されてきたヒイロの記憶があってなお、じっと見ることすら憚られるような妄想の化身。
少なくとも『黒の王』としては最高のビジュアルの一角であることは間違いない。
己の理想の妄想が具現化してさえなお、それが唯一絶対とならぬところが男の性か、愚かしさか、救えなさか、強欲か――あるいは弱さか。
他者が生み出した美の極致にこそ心惹かれるのもまた、一方の真実ではあるのだ。
――だからそんなにジト目で見なくても大丈夫だ、エヴァ、ベア。
今は『冒険者』ではなく『黒の王』なのに、心を読まれたのはなぜだろうかと疑問しつつ、要らん言い訳を内心に浮かべてしまう『黒の王』である。
『We will clean them first.(とりあえず対象を始末します)』
表示枠に映る姿をふいと『凍りの白鯨』の方へ向け、淡々と宣言する。
そんなことは児戯にも等しいと言わんばかりだが、事実そうなのだろう。
その美しい顔は無表情ながら、頬に僅かに朱がさしている。
――テレるようなことは何も……あ。
『管制管理意識体』は己の主、『黒の王』の思考をほぼ完全にトレースできている。つまりさっきの「通じてたじゃねえか!」という心のツッコミも筒抜けなのだ。
短期間とはいえ「静止」に囚われていた己を恥じている。
朱がさしている原因はそれだけではないが。
――いやそういうことであれば俺が『管制管理意識体』が可視化したのを見て瞬間でおもったあれやこれや……
『黒の王』は考えるのを止めた。
――そうじゃない!!!
「殺すな!!!」
大音声を発したが時すでに遅く、上空の『天空城』からは『凍りの白鯨』の巨躯をそのまま呑み込むほどの極太の光の柱が上から下へと突き抜ける。
エヴァンジェリンは黄金の光を纏った鳳凰と化して『凍りの白鯨』に突貫。
ベアトリクスは巨大な真紅の剣を顕現せしめ、『凍りの白鯨』を縦に断つ。
人語を話すものがあげるとは思えぬ叫喚をあげて、天空をのた打ち回る純白の巨躯。
――殺ってしまったか?!
「どうし、て?」
「そういうことはもうちょっとはやく言うてくれ主殿!」
どうやらギリギリで『黒の王』の言葉は届いていたらしく、手を緩めて殺すには至っていないようだ。
だが三者ともがただで収めるつもりなど毛頭なく、「死なぬ程度」に手を抜いた三者三様の一撃が三重奏となった結果、『凍りの白鯨』は瀕死の重傷でその巨躯を空中でびくんびくんさせている。
まあ生きているならいいか、とわりとドライな判断の『黒の王』
説明責任も果たさず、一方的に『黒の王』を殺そうとしてきた相手なのだ、自身が返り討ちとなる覚悟くらいは持っていたと期待してもいいだろう。
ましてや動けぬところを一体一体砕くと言い放った、その相手にぶち転がされたとあっては言い訳の余地も本来あるまい。
生きていることを僥倖と思ってもらわねば、といったところである。
――悔しいのかな?
びくんびくんしているのをみて、思わずくだらぬことも考えてしまう。
ともあれもはや『凍りの白鯨』――運営の憑代は『黒の王』とその一党にとって脅威足り得ぬことは証明された。
思いつく範囲での当面の脅威は排除できたと考えていいだろうし、生きて押さえられたからには聞き出せる限りのことを聞き出すべきだと判断する。
同情する余地はあるが、あくまでも抵抗する、仇為す姿勢を変えぬとあれば処分することを躊躇うつもりもない。
優先すべきは己と己の組織の安寧。
それをも超えて最優先されるべきは己の愉しみであることにブレはない。
そのためにも可能であれば、取り込みたい相手ではあるのだ。
最初にみなに伝えた、「まだ敵とは決まったわけではない」という判断は見事に外れたが、力で組み伏せた相手に対する生殺与奪の権は『黒の王』の手に在る。
運営の憑代という、『管制管理意識体』と並んでもとより半分外側の存在と言っていい『凍りの白鯨』を逃がすのか、味方に引き入れるのか――あるいは殺すのか。
それはこれからの交渉次第だ。
『――Should I speak by your language?(主の言葉で話しましょうか?)』
今度はこっそり、『黒の王』の視界にのみ、以前のような文字で『管制管理意識体』の言葉が表示される。
「その方がいいな……」
『承知いたしました。今後もよろしくお願いいたします』
そう言ってにっこりと微笑み、深々とお辞儀する『管制管理意識体』に見蕩れて、『黒の王』はしばらくぼーっとしていた。
その様子を見て機嫌の気圧がみるみるうちに下がってゆく二人の上司の脇で、心の底から勘弁してほしいと思う『千の獣を統べる黒』である。
こんなことなら、身命を賭して死闘を繰り広げていた方がよほどましであるとさえ思う。
その前で『凍りの白鯨』のびくんびくんは徐々に小さくなっていっている。





