第17話 僕の矜持
巨大な黒猫。
九本ある長い尾はすべて逆立ち、小刻みに震えている。
なめらかな漆黒の体毛は総毛立っており、撫でられて静電気を発する本物の猫と同じように――というには激しすぎるが、紅黒い雷光を纏っている。
怒っている。
激怒というにも生温いほどに、『黒の王』を己が主とする『天空城』に属する大妖『千の獣を統べる黒』は憤激している。
だが誰も動けぬはずの「静止した世界」から脱し、咆哮をひしりあげ得たのは怒りゆえにではない。
大妖『千の獣を統べる黒』を総毛立たせるに足る――――恐怖。
おぞましささえ伴う純粋な恐怖に突き動かされ、『千の獣を統べる黒』はこの世界を縛る理をいとも簡単に捻じ伏せてのけた。
『――『静止した世界』の中で、動けるモノはおらぬはず』
あり得ぬ事態に対峙し、動揺を隠しきれない『凍りの白鯨』が言葉にしても詮無きことを口にする。
無理もない。
あり得ぬことこそを狩り、世界をあるべき姿に保つのが『凍りの白鯨』の存在理由。
その権能を覆されては、己自身も特異点の発生――不正の一役を担ったことになりかねない。
「はず? ――はずと言うたか我が怨敵」
呆然と呟く『凍りの白鯨』に対して、怒れる僕は咆哮する。
動けるようになった今、もはや恐怖はない。
あるのは己が主に敵対するモノ――すなわち「怨敵」への純然たる怒りと敵意のみ。
「主を滅すると言われて動けぬ僕がどこにおる? そのような僕に何の存在価値やある! ――皆無!! 皆無だ!!! 刻が凍る? 世界が静止する? ――知らぬわ!!! そのような戯事に、吾輩の絶対の忠誠を縛ること能わず!」
無茶苦茶言っている。
だが「無茶苦茶」というのであれば、「現実化したT.O.T世界」という時点ですでにそうともいえる。
すでに世界の理は綻んでいるのだ。
いや綻びなどとは生温い、崩壊しているといっても過言ではない。
そんな世界において「はず」などという言がどれほどの価値を持とうか。
あるいは「想いの強さ」が全ての理をひっくり返す世界であるやもしれぬのだ。
いや、世界がこうなった「引金」こそが――
『千の獣を統べる黒』が自身の怖気を払うように、その巨体を震わせる。
巨体ではあってもその仕草は猫そのものである。
主に敵対するものを前にして、主の命によらず動けぬ己。
僕として己が定めた存在理由――矜持を根底から否定される状況に肚の底から恐怖して、『千の獣を統べる黒』は『静止した世界』の軛を割り砕いた。
あとは責務をまっとうするのみ。
勝てるか勝てないかなどというものは、取るに足りぬ埒外――いわば二の次だ。
為すべきを為すことができるのであればそれでよい。
その先に死しかないとしても、己が己として在りきれることに『千の獣を統べる黒』はむしろ安堵してさえいる。
『黒の王』が心のスイッチを切り替えたそれと同じ理由で、『千の獣を統べる黒』は今、己の意志で「特異点」――世界の理から外れるモノの一体と化したのだ。
もはや言葉は不要とばかりに、『千の獣を統べる黒』は為すべきを行使する。
出し惜しみなど一切せず、己の持つ最強技を発動。
おそらく傷一つつけることすらできずに薙ぎ払われることなど百も承知で、統べる「千の獣」その悉くを召喚する。
『千獣咆哮』
顕現した千の獣、そのこと如くが雄叫びをひしりあげ、『千の獣を統べる黒』の九つの尾にそれらの渾身の魔力が吸収されてゆく。
牙を剥いた『千の獣を統べる黒』が大咆哮をあげる。
紅黒く染まった雷光を纏い、膨大な魔力が『千の獣を統べる黒』の大きく開いた咢から『凍りの白鯨』へと走り、直撃。
だがほぼ無傷。
当然と言えば当然の帰結。
巨大な猫とはいえ、所詮十数メートル級に過ぎない。
主である『黒の王』と比べれば巨躯と言えるが、怨敵――空中要塞をもしのぐ巨躯を誇る『凍りの白鯨』に対しては誤差の範囲でしかないのだ。
それにいかな『千の獣を統べる黒』の最大の技とはいえ、主である『黒の王』の上位呪文、その連撃に対して無傷であった『凍りの白鯨』に通るはずもない。
――白光は発生しなかったが。
そんなことは『千の獣を統べる黒』も先刻承知である。
この後の反撃で、己と己が統べる千の獣すべてが薙ぎ払われるであろうことも。
『――汝ごときが動けたところで、なんの痛痒も感じぬ』
虚勢ではないのだろう。
組織の首魁である『黒の王』を滅しようとしている『凍りの白鯨』が、その僕の一体が動けたところで、どうということもない。
だが――
「だからどうした、存在理由すら己で定められぬ傀儡よ! 吾輩が勝つか負けるかなどはどうでもよい、吾輩は最終的な我が主の勝利を確信しておる! 吾輩は僕として恥じることなく全力を尽くし、薄紙のように引き裂かれたとて我が主の御前で滅ぶのだ! それに何の不満があろうや!」
己の在り方を『千の獣を統べる黒』が謳いあげる。
僕としての己をまっとうできるのであれば、死すらも恐れるに値しないと。
『死は死。そこに是も非もあるまい』
慈悲無く世界の敵を排除するべき『凍りの白鯨』にあるまじき感情が、また芽生えている。
――憤懣。
在り方を己で定められていない者が、そうでないものに対して抱く感情。
「だから貴様は傀儡だというのだ。吾輩は吾輩の矜持に従い生き切った末に死に至る。死は一つの結果に過ぎぬ。矜持もなくただ存えることのどこに意味がある?」
死を前にして虚勢ではなく動じず、意味のある死は無意味な生に勝ると言い切ってみせる『千の獣を統べる黒』
ただ焼き払えばいいはずのものに対して、意地になって問答を仕掛ける『凍りの白鯨』
あるいは『凍りの白鯨』こそが、『千の獣を統べる黒』のように在りたいのかもしれない。
『個の矜持など取るに足らぬ! 我が存在理由は世界の守護! これに勝る意味があろうか!』
たとえ他者への絶対服従であろうとも、それを定めたのが他ならぬ自分自身であれば、それに殉じることに一片の疑問も不満も持ちはしない。
そういう相手を前に、『凍りの白鯨』は己の存在理由の尊さをもって抗じるしかない。
大義名分をもって、疾しさ、あるいは憧憬を塗りつぶすのだ。
――曰く、世界のためだからしょうがない。
「世界の守護など知ったことか。吾輩は我が主の愉しみのためとあれば世界を劫火にて焼き払うことも躊躇いはせぬ。善も悪も知ったことか。――己で定めぬ存在理由とやらに意味などないわ、愚か者め」
だが切って捨てられる。
己の軸を揺るぎなく持つ者に、ただの言葉は届かない。
しょうがなく生きることなどクソくらえ。
死は避け得ない、ならばどう生きるかが重要。
己が為すべきを為して死ぬことこそ、生きるということだ。
頭ではわかってはいても、そうそう実践は出来ないことでもある。
『取るに足りぬ! もうよい、汝の主もすぐに滅してやろうとも』
またもや思考を――「納得すること」を放棄する『凍りの白鯨』
力の強弱とは別に、これはこれで一つの負けともいえる。
『千の獣を統べる黒』はもはや怒りもしない。
僕の憤怒は主の敵対者へと向けられるもので、それがまき散らすただの言葉に向けられるものではないからだ。
『滅せよ!』
再び『天雷』を発動させる。
『黒の王』は凌いだが、その僕に凌げる攻撃ではない。
――だが
「させぬ、と言った」
その『黒の王』が、『千の獣を統べる黒』とその千の獣悉くに、先刻と同じ防御魔法陣を展開して『天雷』を消し飛ばす。
『凍りの白鯨』と己の僕の熱いやり取りに、しばらく置いてけぼりをくらっていた『黒の王』だが仕事はキッチリする。
だがいかに膨大な魔力を持ち、『凍りの白鯨』と拮抗状態を生み出せる存在とはいえ、これは悪手としか思えない。
何の戦力にもならぬものを護って魔力を消耗するなど、愚策とも呼べない。
捨てるべきは捨てる冷静さ、あるいは冷酷さも主に必要なもののはず。
「我が主!」
それは『千の獣を統べる黒』もそう思っていたらしく、驚いた表情を主に向けている。
その視線を受けて『黒の王』が応える。
「私の許可なく死ぬことは赦さん。――覚えおけ」
「――御意」
先までの圧は霧散し、巨体を縮こまらせて恐縮する『千の獣を統べる黒』。主から己の死を惜しまれることに心底からの喜びを感じている。
一方、己の僕の苛烈と言っていい在り方の宣言に気圧されていた、などとは口が裂けても言えないが、それが『黒の王』の中の人としての正直なところである。
だがこの世界においておそらくたった一人の異邦人である『黒の王』にとって、僕たちが何者にも代えがたい存在であることもまた、僕たちが『黒の王』を慕う想いに劣らぬ事実なのだ。
僕の矜持を軽んずるつもりはないが、それにしたがって軽々と死んでもらっても困る。
僕たちにとって『黒の王』の言葉が絶対だというなら、必要な釘はさしておく。
『千の獣を統べる黒』のあまりの剣幕に、びっくりした上で少々――いやかなりビビっていたことも確かではある。ゆえに会話にまったく参加できていなかったのだ。
「それに……焦げたぞ、『凍りの白鯨』」
だがそれだけではない。
ゲームとしての神罰執行では発生するはずもなかった『静止した世界』への僕の乱入。
その一連の行動が、『黒の王』が当初考えていたのとは違う、千日手から脱する可能性を示した。
『それがなんだというのだ? 先のような攻撃、何千撃くらおうとまるで痛痒を感じぬ』
では何万撃では?
何億撃では?
何兆撃では?
プレイヤー・アバターからの攻撃を完全に無効化する、という『凍りの白鯨』の特性は、プレイヤー・アバターならざる僕たちには適用されない。
『黒の王』の最上位呪文で傷一つつかなかった『凍りの白鯨』が、『千の獣を統べる黒』の最強技で「焦げる」ということはそういうことだ。
「では覚悟せよ、我が主に敵対するものよ」
主の言わんとすることを理解した『千の獣を統べる黒』が、もはや同情の表情を浮かべて『凍りの白鯨』に告げる。
『効かぬと言っているのだ!』
それはわかっている。
『千の獣を統べる黒』の最強技はそうぽこぽこ撃てる代物ではないし、撃てたとしてもそれこそ何撃入れればいいのか見当もつかない。
その間、『凍りの白鯨』が無抵抗というわけにもいくまいし、千の獣を引っ込めたとしても『千の獣を統べる黒』も守りながらの戦いが長期化すれば分が悪いといっていいだろう。
だが――
「貴様まさか、我が主が統べる『天空城』において、吾輩が序列上位に在るなどとは思っておるまいな? 吾輩程度が動け、かすり傷を負わせることができる貴様など――」
そうだ。
『黒の王』が統べる『天空城』には『千の獣を統べる黒』など足元にも及ばない絶対の兵がいくらでもいる。
そしてその頂点、双璧である二人は幸いにして至近距離に居る。
「吾輩よりも序列上位の方々にとって――――取るに足りぬと知れ」
『――なん、だと?』
『千の獣を統べる黒』が恐怖によってその軛から逃れ得た『静止した世界』
それを奇蹟と呼ぶのか、忠誠の強さと呼ぶのかは知らぬ。
だがその程度の「結界」にいつまでも縛られているはずがないのだ、序列上位者、それも一桁に名を連ねるような連中が。
そして『千の獣を統べる黒』が知る限り、『左府鳳凰エヴァンジェリン・フェネクス』と『右府真祖ベアトリクス・カミラ・ヘクセンドール』が見せる『黒の王』への執着は、己などとは比較にならない。
『黒の王』を滅すると口にしたものを、ただで済ますとはとても思えない。
それが世界の守護者どころか、神や悪魔であっても一切頓着しないだろうと確信できる。
そして『千の獣を統べる黒』が「焦げさせる」ことが可能な相手であるならば――
――彼女らの大技一発で、おそらく塵も残らない。
「シュドくん……ありがと」
「よういうた! それでこそ側付の僕よ!」
二つの美しい声が『静止した世界』に響き――
――断罪の時間が始まる。