番外編 天蓋事件後日譚⑨ 混沌 ~butterfly effect paradox~
ラ・ナ大陸の南方海上にあるアーガス島、その遥か上空に浮かぶ天空城。
その岩塊が剥き出しになっている基部の最奥。
『分身体』が生み出され、現在は『凍りの白鯨』の真躰の解析が進められている広大な空間のほぼ真下。
そこは天空城の主である黒の王ブレドと管制管理意識体しか存在を知らず、また入ることも許されぬ秘奥中の秘奥の場所。
だがそれは黒の王がその絶対的支配権を以て、情報を封じているわけでも入室を禁じているわけでもない。
外なる者である黒の王と、世界を繋ぐ者である管制管理意識体でなければ認識さえできず、たとえ黒の王が下僕たちをともなって入室したところでそれぞれの自室へと無条件に転送され、その場に主と共に来た記憶さえ消去されるのだ。
入室が可能なのは外なる者である黒の王のみ。
管制管理意識体ですらも、その空間に立ち入ることまではできない。
天空城の最奥に確かに存在しながら、天空城そのものである管制管理意識体の制御が及ばぬ掌握領域外空間。
『混沌の間』
禍々しくも見えるその扉の前に今、黒の王はその玉体を運んでいる。
『……お気をつけて』
「うむ」
いついかなる時でも黒の王を捕捉し、その安全に対して万全を期している管制管理意識体であっても、『混沌の間』に足を踏み入れている間は完全に見失う。
見失うだけではなく、ほんの僅かですら干渉することすらもできない。
己が体内でありながら如何ともしがたいその現実に、一番苛立ちを覚えているのは管制管理意識だろう。
他の下僕たちに至っては認識すらできないので、苛立つことすらもできない。
よって主を気遣うその声には、隠し切れない恐怖が滲んでいる。
『混沌の間』に入った黒の王がそのまま二度とそこから出てこなければ、管制管理意識体は己が仕えるべき主を失うのだ。
そしてそのまま、帰ってきてくれるかどうかすら判らぬままに、永遠を持ち続けるしかなくなる。
それを恐怖するなという方が無理だろう。
まだこの周に入るまでであれば、管制管理意識体だけではなく、序列一桁を含む下僕たちも「そういうもの」として待ち続けることもできた。
だがもう無理だ。
意思の疎通が可能となり、前周までとは違い己の一喜一憂を共有してくれる主を知った以上、もうその不在に耐えることなどできはしない。
前周まででは稀にあった、主の完全な反応消失はこの周に入ってからは一度も発生していない。
映像だけとはいえ仮想化身と声を得た今の管制管理意識体にとって、もはやそれは考えることすらも忌むべき事態となっている。
前周までの自分が、どうやってそれを平然と耐えていたのかを思い出せないほどに。
黒の王の中の人にとっては、ゲームが現実化したのだから当然のことだ。
どれだけハマっているとはいえ、あくまでもゲームである以上は現実の事情によりログボすら受け取れない日だってどうしてもある。
仕事がクソ忙しい繁忙期などでは、週末を除くウィーク・デイすべてログインできなかった時もある。
飽きた、あるいは醒めたプレイヤーがそのまま二度と再びログインせぬまま、そのゲームが捨て置かれるようになることも決してそう珍しいことでもない。
どれだけ長い時間とかなりの額のお金をかけてハマっていたゲームであっても、素になる時はいつだって一瞬なのだから。
だが今、こうして常に冷静である管制管理意識体らしからぬ、捨てられることを自覚した子犬の如き縋るような視線と気配を向けられては、それがどれだけ残酷なことかを考えさせられる。
いやあくまでゲームなのだ、どれだけプレイヤーが愛着を以て関わっていた世界であれ、育てたキャラクターたちであれ、ログインしなければそのままの状態で固定され続けているただのデータだということはわかっている。
だがこうして『T.o.T』が現実化した状況に身を置けば、過去自分が「素になって止めた」ゲームたちもあるいはこうだったのかという想像はどうしてもしてしまう。
明日も変わらず主人が、あるいは己を動かす情動が戻ってくることを信じたまま、ずっと静止したままだと考えるとかなり切ない。
ネット系ゲームであれば、そのままサービスが終了したり、プレイヤーデータの保管期間を超過したりして完全に消滅しているモノもあるのだから。
過去己が「一生続けるわ」と嘯いていた、もうその存在すら思い出すことが少なくなった数々のゲームが頭をよぎる黒の王の中の人である。
だから怯えるような管制管理意識体を安心させるように、「うむ」の後にも言葉を重ねる。
「そう心配するな、すぐに戻る。お前たちの前から姿を消すようなことはしない」
『……お待ちしております』
内心を見透かされた管制管理意識体が、それこそらしくなく赤面する。
その様子を見て、黒の王がこちらもまたらしくなく屈託なく笑う。
「もどったら今夜は月でも見よう……準備は任せる」
『承知いたしました!!』
こういう時は具体的な約束と、仕事を与えるのが効果的なのだ。
あからさまにやる気を出し、鼻息を荒くする可愛い管制管理意識体を背において、黒の王は『混沌の間』へと足を踏み入れる。
そこはあらゆる世界から切り離された空間。
天空城勢がその総勢でかかっても苦も無く勝利する黒の王のレベル、装備、能力を以てしても、この広大な空間以外の一切を掌握できないのだ。
そしてこの空間において、プレイヤーとしてのあらゆる攻撃手段、防御手段も起動不可能となっている。
今の黒の王はその異形を除けば、ただの人となんら変わることのない存在に過ぎない。
もちろん黒の王が『T.o.T』の世界からログアウトしたわけではない。
そんなことが可能ならとっくに何度も実験しているだろうし、この周に入ってから――『T.o.T』が現実化してからそれは一度も成功していないばかりか、どうやったらそれが可能なのかの糸口すらつかめてはいないのだ。
『混沌の間』とは、ある特殊なN.P.Cたちが格納されている空間。
『T.o.T』が現実化して以降その姿を完全に消し、それを下僕たちはもちろん、世界を繋ぐ者である管制管理意識体にすら疑問を持たれず、認識さえされていない、だが確かにゲームの時には存在した者たち。
彼ら、彼女らは、外なる者の下僕ではない。
言うなればイレギュラーな事態に巻き込まれ、『T.o.T』の世界においては外なる者と協力してその事態の解決をはからんとする、盟友とでも呼ぶべき立ち位置に在る者たち。
つまりは共同企画キャラクターたちである。
『T.o.T』はゲームなのだ。
それもかなりの人気を誇り、長年にわたってサービス継続をしているこのジャンルにおいては大御所と言ってもいいタイトルだ。
であれば定期的に共同企画は開催され、サービス提供期間の長さに応じてそのタイトル数もかなりの数に達している。
誰もが知る有名アニメやゲームだけではなく、わりとニッチなものやサービス開始に伴ってビックタイトルである『T.o.T』との共同企画で名を売ろうとした新規ゲーム。
過去の大作と呼ばれた漫画や映画などもあり、その種類は多岐にわたっている。
そして共同企画の目玉と言えば、その作品の主役級N.P.Cたちを、一定の条件を満たせば仲間にできるというものである。
当然黒の王の中の人は、そういう共同企画を外すようなプレイヤーではない。
必要とあれば有休を取得してでも、漏らすことなくコンプリートしていることは言うまでもない。
運営の本気度及び遊び心はかなりのもので、共同企画対象はそれこそあらゆる名作、迷作を網羅している。
ゲームだけでもアクション、PRG、格闘、シミュレーション、ギャルゲに乙女ゲー。
コンシューマーに限らずソシャゲやPCゲーム、近年増加傾向である「サードアイ・コネクタ」対応ゲームまでほぼすべて。
古典の物語から有名な映画、アニメ、漫画ともほぼやっている。
それらの主役級たちが『T.o.T』仕様にカスタマイズされているとはいえ、仲間――戦力として参加しているのだ。
中には今天空城が置かれているような状況を前提とした物語からのキャラクターたちも多くいる。
それこそ基ネタとすら言える、超大作の者たちも。
「やはり誰一人として目覚めてはいないか……」
だが黒の王は発した声は落胆を含んだものだ。
『混沌の間』のことを思い出して以降、何度か足を運んではいるが、すべての共同企画キャラクターたちは眠ったままだ。
円筒形の装置に満たされた魔導流体の中に浮かび、意識を宿している者はただの一体も存在しない。
黒の王としては、この状況で知恵を借りたい相手はいくらでもいる。
近年の創作物に限らず、諸外国の古典作品、それこそとんでもない特殊能力や魔導武装の元ネタとなったであろう物語のキャラクターたちも多くいるのだ。
現実化した状況で、そのキャラクターたちの意志や知識、記憶がどうなっているかを知る術はないが、宝貝『傾世元禳』を使いこなす妲己などとは一度是非会話してみたいものだ。
それはこの世界に対する対策としてのみならず、黒の王の中の人がハマったあらゆる創作物の主役級たちと直接会話ができるかもしれないという、まさに夢のような状況なのだ。
アニメ化、ゲーム化されている作品であれば、中の人の声も同じであろうし。
定期的に様子を見に来るなという方が無理な話なのだ。
都度心配してくれる管制管理意識体には申し訳ないとは思っている。
なんとなればこの空間限定で会話できるだけでも充分なのだ、黒の王の中の人にとっては。
だが今回もそれはまだ叶わぬらしい。
いや叶うことなどないのかもしれない。
だが触れることすらできはしないが、円筒形の装置の中で眠るすべてのキャラクターは、まさに現実化してそこに在る。
それを眺めるだけでも、得難い経験ではある。
「どうにかして目覚めてはくれぬモノかなあ……」
今天空城が置かれている状況と酷似した設定の物語、そのキャラクターたちが眠っている装置の前で黒の王は独り言ちる。
だがそのキャラクターたちが答えてくれることはない。
今はまだ。





