番外編 天蓋事件後日譚④ 白姫 ~butterfly effect paradox~
ウィンダリオン中央王国、総督府直轄地アーガス島。
中央暦0457年、夏待月。
ラ・ナ大陸中を今もってなお震撼させ続けている『天蓋事件』の発生から、それほど日もたっていないとある夜。
夏待月のこの時節、四方を海に囲まれたアーガス島では上昇していく温度とともに高湿度に覆われ、内地に暮らす人々からすればすでに盛夏を感じさせる気候となっている。
いかにも南国らしい植生がその生命力を全開にし、ギラギラとした昼間の太陽と、日が暮れてもなお消えない熱気にあてられて、人々もどこか開放的になる時期でもある。
南国の夏の夜とは、そういった不思議な熱を孕んでいる。
そしてそういう空気を好む人間は貴賤を問わずかなりの数がいるものだ。
国によっては、国民すべてがそんなノリのところもあるくらいに。
常夏とまではいかなくともラ・ナ大陸南部、ウィンダリオン中央王国領の中では最南端に位置するアーガス島は、迷宮島として発展して以降は主として貴顕、裕福層へのリゾート地としても大陸有数の場所になっている。
冒険者街とは逆方向、外海に面した小島が密集している地域などにはプライベートビーチ完備の豪奢な別荘が立ち並んでおり、毎日のように夜宴が催されている。
市井に生きる者たちのそんな日常を眼下に見下ろす遥かな上空には、ステルス状態を維持した天空城が今日も変わらず静かに浮かんでいる。
主の分身体とその側付きを許されている数体の下僕たちはその眼下、アーガス島の長く賑やかな夜をささやかに楽しんでいる最中である。
つまり現在天空城に主は不在。
とはいえ黒の王の本体は『中の人』がいない状態とはいえ、管制管理意識体管理下の位相空間で眠りについたまま、これ以上ないくらい丁寧なメンテナンスを受けてはいるのだが。
まあそれはこの周に入ってからでは、いつものことともいえる。
ちなみに『丁寧なメンテナンス』とやらは映像による姿と声を得た管制管理意識体が、無表情になり切れずに主に申告したことなので、その詳細は不明である。
基本的に主なき天空城は静かなものだ。
攻略を割り当てられた迷宮、遺跡、領域に魔物が再湧出するのは現実となった今ではまだ時間が必要だし、各国へ派遣される予定の人化形態を持った下僕も含めて今はみな待機中。
与えられている私室や、出入りを許された共有空間でみな思い思いに過ごしている。
基本形態が人外かつ巨躯なものがほとんどのため、私室よりも天空に浮かぶ大地ともいえる天空城内にある、己の属性にあった場所でくつろいでいる下僕のほうが多い。
空を遊弋することが基本な種族たちは、ゆったりと天空城の周囲を守るように周回していることが常態となっている。
この世界のこの時代、現在天空城が位置している高高度に至ることが可能なモノは生物、魔導兵器を含めて基本的には存在しない。
だがもしも天空城の様子を確認できる者がいたとしても、好奇心や功名心だけで攻略を試みようとはとても思うまい。
今宵は天空城配下の大妖の中でも巨躯の双璧である、全竜カインと世界蛇シャ・ネルの真躰の姿はない。
とはいえヒトであれば一目見たらすっ飛んで逃げることすら諦めるような人外たちが、数えきれぬくらいに存在しているのだから。
だが一見して静かでいつもと何も変わらぬ天空城の中枢では、百度にも及ぶやり直し――世界再起動の中ですら、一度も行われなかった行為が行われようとしている。
天蓋事件で天空城が新たに得た超級の希少存在。
凍りの白鯨――運営、つまりは神の依り代の分析である。
◇◆◇◆◇
天空城基部、その最奥。
この周に入るまで、主である黒の王ですらその存在を知らなかった心臓部。
分身体が生まれた場所でもあるそこには今、凍りの白鯨が運び入れられている。
「不思議なものだ。水中であるにも拘らず呼吸も可能だし話せもする」
分身体が生まれた球体とは違い、透明度が高い円柱形をした結晶体。
その中に魔力を帯びた水――魔導流体が満たされ、人型形態となった『凍りの白鯨』が沈んでいる。
円柱の下部には各種コードが接続され、上部は高い天井と一体化して、脈動のように天空城の機関中枢から魔力を供給されている。
透明な部分には無数の表示枠が浮かび、分析対象である『凍りの白鯨』のありとあらゆる情報の数値化・文言化を進めている真っ最中であるらしい。
その凍りの白鯨――後日、黒の王直々に『白姫』の名を与えられることになる元運営の依り代は、魔導流体の中で一糸纏わぬ姿である。
だが白姫の美しい顔に浮かぶ表情はなく、羞恥の類は一切感じられない。
自身の身長よりも長い、白に限りなく近い美しい金髪が広がり、無重力状態にあるようにも見える。
透き通るような白い肌と、髪と同じ白に近い金色の瞳。
ベアトリクスの茨冠でつけられたはずの痛ましい傷は、すでにその痕跡を見出すこともできないほど、すべらかな肌に戻っている。
首筋に残る吸血痕だけは消えていないが。
脈動の如く供給される魔力に合わせて、真紅の魔力線がその表面を走査する艶めかしい肢体は、男であれば目を奪われずにはいられない曲線を描いている。
だが白姫の美しい顔に朱が差してでもいれば淫靡を漂わすこともできようが、あまりにも整った容姿と完璧な無表情ゆえに、彫刻めいた美しさしか感じることができない。
もっとも今その姿を認識できているのは管制管理意識体のみなので、女性同士でも存在するはずの羞恥すら発生する余地はないのだが。
もしも今分身体がこの場にいれば、さぞや目が泳ぐ羽目になったであろうことは疑いえない。
黒の王の本体であれば伸びる鼻の下もごまかせたかもしれないが、それは今管制管理意識体の管理する位相空間の中でメンテナンス中である。
『真躰が『凍りの白鯨』である貴女が言いますか』
並立処理で黒の王本体のメンテナンスを行いつつ、白姫の分析も統括しているユビエが表示枠を出し、少し呆れたような表情で先の言葉に答える。
真躰。
必ずしもその下僕の真の姿というわけでもなく、戦闘形態と理解したほうがしっくりくるかもしれない。
その下僕がすべての制限を解除し、全力で戦闘を行う際に取る形態。
序列上位者には真躰を持つ者が多いが、中位から下位には持たない者も少なからず存在する。
人化と並んで好みが分かれる設定ではあるが、喜んでいただきつつ大量の課金を見込みたい運営としては、極力仕込みたいものではあっただろう。
黒の王の中のヒトはかなり真躰形態が好きなので、持たない下僕たちは枕を涙で濡らしたりしているらしい。
某側付きのにゃんこなどは「一応持っているとはいえ吾輩、大きくなるだけですからな……」などと壁に爪を立てていることもあると聞く。
エヴァンジェリンであれば八段階に変化する『鳳凰顕現』が、ベアトリクスであれば自身の魔力と血でその躰を鎧う、ヒイロの魔神形態に酷似した『真祖流誕』がそれにあたる。
巨大なものといえばそれこそ管制管理意識体の制御する『天空城』そのものであろうが、それすら凌駕する巨躯を誇る下僕も数体存在する。
その真躰が水中で生きる生物、『鯨』である白姫の先の発言は確かに管制管理意識体の言うとおり「なにを言っているんだお前は」となるのも当然ではある。
「言われてみればそのとおりだが、我は水に潜ったことがない。確かに妙ではあるな」
とはいえ白姫にしてみれば水中に顕現した経験などない。
ないはずだ。
あるはずのない朧げな記憶のなかでも、水中で神罰執行をしている酔狂なものを探し出すことはできなかった。
だったらなんの理由があって自身の真躰を鯨にしたのかを、今は不在の神に問いたくなる白姫である。
まさか「天空に浮かぶ巨大な鯨って、なんかカッコよくね?」がその理由とは、さすがに思いもよるまい。
『次の機会には私たちも水遊びに参加できるでしょう』
大真面目にそんなことを言っている白姫も白姫だが、それに答えたユビエの言葉の方がより斜め上、あるいは下のものである。
本日、アーガス島で暮らしている分身体が参加した九柱天蓋の残骸回収の正式任務。
その際にエヴァンジェリンとベアトリクスが水着をその身に纏って、ヒイロにじゃれついていた件を言っているのだ。
「……冗談かと思っていたのだが、どうやら本気なのだな汝らは」
常の無表情を僅かとはいえ崩されつつ、白姫が呆れたような、感心したような口調で本音のところを口にする。
ここ数日ほぼ休憩なしで進められている白姫の分析だが、その途中で分身体の正式任務参加とそこでの顛末を知ったユビエは、一旦すべての作業を中止したのだ。
ぼそりと「ずるい」とつぶやいたのち、やたらと高速で――ユビエの全性能を短期間とはいえ全力稼働させ、すべての手配をやってのけてみせた。
白姫はユビエが具体的に何をやっていたのかまでは知らない。
全裸のまま、高速で現れては消える無数の表示枠を眺めながら「この序列筆頭、この上なく本気だな」と思っていたくらいだ。
時間の経過に伴って、自身が入れられているのと同じような円筒の中になにやら人型が形成され始めていたり、小型の球体の中に水着とおぼしきものが創り出されたりしていることについては、見て見ぬふりをいまのところ続けている。
女性形態を持たされているゆえなのか、要らん知識は白姫の中にもあるようだ。
出来上がりゆく水着を横目で見ながら「なるほど、露出が多ければそれでいいというものでもないらしい」などという、自分自身が思い浮かべた感想に我ながら驚いたものである。
だが世界を滅ぼすだけの力を持ったこの集団が、冗談ではなく主を楽しませるためにその全力を行使することに対して、一切の躊躇はないのだと理解できた。
『私たちはいつ何時たりとも本気ですよ』
ユビエの今の言葉が嘘ではないと今では理解できる。
彼女は――天空城に属する一騎当千の大妖そのことごとくは、本当に主が喜ぶのであればなんだってやるのだ。
水着を身に付けてじゃれつくことも、無慈悲に世界を滅ぼすことも、彼らにとっては唯一無二の価値観の前では等価でしかない。
白姫は冷静に思う。
黒の王が自分をこの天空城へ誘った際の言葉は真実なのだと。
黒の王と白姫の『都合のいいこと』を一致させる。
それはこの世界の調停者たる自分さえまるで及ばなかった絶対戦力が、白姫の望みのためにその全力を行使するということに他ならないのだから。
そして下僕たちはみな、「競う」ことを当然としている。
主の寵を得るために己の全てをかけて競い合い、その結果主からつけられる序列を己そのもの、矜持として誰に憚ることなく誇っている。
筆頭から序列最終まで、それはまったく変わらない。
下位の者は精進してより上を目指すというだけだ。
そこに卑下が欠片たりとも存在しないのは、彼らが本当に主と己の在り方を絶対としているからだろう。
そこに残念や悔しさはあっても、妬みはないのだ。
それに白姫と相対した際、千の獣を統べる黒と呼ばれていた下僕の一体が発した言葉。
己の生き様、死に様についての叫びにも感銘を受けはしたが、それ以上に「羨ましい」と思わず感じてしまった彼の者の在り方。
――序列上位の方々にとって、貴様など取るに足りぬと知れ!
自分の力では手も足も出なかった凍りの白鯨を一切恐れず。
避け得ぬ死を前に一切動揺せず。
己の主が己より上と認めた序列上位者の力を絶対として信頼し、自身は自身の在り方を果たしてさえいれば、その結果の死などには一切頓着しない。
そのくせ、勝手に死ぬことを主に咎められた際には嬉しそうにしていた。
正直に言えば、己もそうありたいとあの時思ったのだ。
どうやら自分は誰かに絶対的に仕えたいという性らしい。
それを奴隷根性だと、笑いたいものは笑えばよい。
だが己が在りたいように在る者の矜持は、あの黒猫を介してすでに知っている。
大事なのはどう在るかそのものではない、それを自分で決めたかどうかだ。
自分で決めてさえいれば、自身を下僕と任じても矜持を失うことなどない。
己よりも強き者よりも、己よりずっと弱き者の在り方にそれを教えられた気がしている白姫である。
自分も本気になりたいのだ。
仕えたいのは『世界の天秤を保つ』などというただの言葉ではなく、己の定めた誰か――主にだ。
そうであってこそ、それが己の『存在理由』だと胸を張って言えるのだと今ではわかる。
主はもう定まっている。
白姫はもう、我が主――黒の王の下僕の一体なのだから。
であればやることは単純だ。
今目の前で水着の着付けに悩んでいるらしい現序列筆頭や、その他の下僕たちと同じように、己の全身全霊を以て我が主に仕え、序列を一つでも上にあげてゆくのみだ。
そのついでに、己が縋っていた以前の存在理由も万全にこなしてみせればいいだけのことだ。
そして白姫は他の下僕たちに対する、絶対的な優位点を持っている。
黒の王が最初に言った、今起こっている異常事態。
その情報共有。
自分は、自分の躰は、今は存在しない運営――神への扉となりうる。
その可能性を探るがため、今白姫は一糸纏わぬ姿で、天空城を制御する管制管理意識体による分析に身を委ねているのだから。
それが成った際の、己の天空城における立ち位置、その重要性は言うまでもない。
少なくとも序列一桁の者たちと同列以上の扱いにはなるはずだ。
正直ぞくぞくする。
戦えば瞬殺されることが確実な相手と同格かそれ以上に、主の役に立つという絶対にして共通価値の一点突破で並びうるのだ。
「……見習って、我も常に本気になるとしよう」
憧れるのであれば、そうあればよい。
まずは形だけでも。
そうあることが許される場に、今自分は属しているのだから。
『良いことです。――ということであれば貴女用の水着も用意しましょう。そうしましょう。相手ペアは強大です、こちらも単独では不利だと分析していたことですし、これは好機です。好みはありますか? 我が主の好みであればこちらのデータを参照すればだいたいはわかるでしょう』
「え? いや、そっちは…………いや、用意してもらえるか」
全身全霊というのであれば、人型形態、それも女性体を持つ自分を使うこともそのうちではあろう。
何しろ主は男性体なのだから。
序列0003位と序列0004位は言うに及ばず、比較的まともかと思っていた序列筆頭までこうなのだ。
序列一桁にもまだ二体ほど女性体がいるらしいし、美しいという点においては男性体の下僕たちも、女性体になんら劣るところなどないモノも多くいる。
本気で競うのであれば、そういうことも必要だというのは理解できる。
そう理解すると同時、なぜか今自分が素っ裸で浮かんでいることが急に恥ずかしくなってきた。
無表情をなんとか崩すことなく、だが頬に朱が差すことは抑えきれない白姫である。
『よい仕事です』
やめてほしい。
ユビエと白姫のペアはこうして成立した。
のちに鳳凰真祖組、九尾世界蛇組と鎬を削る、天空城美女コンビの誕生である。
冒険者王ヒイロの大後宮がその規模の割に仲良く平和であったと伝えられているのは、文字通り天上で繰り広げられた、彼女らが主の寵を競う様を目の当たりにしていたからかもしれない。





