番外編 天蓋事件後日譚③ 矛盾 ~butterfly effect paradox~
ウィンダリオン中央王国、王都ウィンダス。
ラ・ナ大陸において三大強国と謳われるなかでも、その筆頭と看做されている大国の中枢。
王城の直上上空には王都を守護する空中要塞、九柱天蓋のひときわ巨大な旗艦が浮かんでいる。
他国に暮らす人々から見れば目を疑うような光景。
初めてこの光景を目にするものは者はみな、例外なく遠近感を狂わされる。
だが王都に暮らす人々にとっては見慣れた日常。
今の技術では再現できない王都外周を覆う巨大な外壁とともに、自分たちの暮らしをあらゆる外敵から護ってくれるという安心を与えてくれる光景なのだ。
少々厳つく、威圧感も相当なものがあるとはいえ、ヒトとは何事にも慣れる生き物であるらしい。
中央暦0457年、夏待月。
アーガス島で発生した『天蓋事件』から数日。
事件の中心地であるアーガス島においては、砕き墜とされた九柱天蓋の残骸回収に、アーガス島の冒険者ギルド総出での正式任務が発令された日に当たる。
機密の塊である元九柱天蓋であったモノを一欠片たりとも他国に奪われないようにするため、国が冒険者ギルドに所属する者たちによる回収を依頼したためだ。
『黄金林檎』のようなトップギルドから昨日今日に冒険者ギルド登録を済ませた新人まで、一人残らずその正式任務には参加している。
まさかこの正式任務に参加した冒険者たちも、冒険者仲間の一人と思っていたヒイロが回収した残骸から九柱天蓋――いや九柱天蓋を基とした、もっととんでもないものを再建というよりも新造してしまうことになるとは、想像の埒外であっただろう。
つまり九柱天蓋を残骸に変えた張本人とも言えるヒイロも、何食わぬ顔をしてしれっと参加している。
もちろんその側付きを許されている鳳凰だの真祖だのも「お手伝い」と称して加わっており、魔法、物理双方ともに人間離れした力を駆使して回収作業に大きく貢献している。
その圧倒的な貢献度以上に任務参加者たちの目を惹いたのは、彼女たちの身に付けている『水着』なるものによって引き出された、圧倒的な女としての色艶であったのだが。
ヒイロの中のヒトが現実で出るまで回した結果、下僕たちの別衣装Verはすべてコンプリート済みの天空城勢である。
水と戯れる機会があるとなれば、いろいろと思惑もあるらしい下僕たちがここぞとばかりにその姿になるのは自然な流れである。
考える前にガチャをガチャガチャ回してもらうために、各担当イラストレーター様渾身の出来に仕上げられた水着姿が現実になっているのだ。
もともとのエヴァやベアは、まさに絵に描いたような魅力を有している。
そんな美女たちが世界のヒトにとってはなじみのない水着姿となったことによる破壊的な色艶が、冒険者たちの目を奪うことは至極当然といえる。
実のところ目どころか魂まで奪われそうになっていたのは、彼女らの主たるヒイロ本人ではあるのだが。
ちなみにヒイロに色仕掛けを敢行させられたことのある某猫好き女性冒険者は、己の行為の無謀さを改めて突き付けられ、膝を抱えるハメになった。
いろいろあって主の理想とする外見を獲得した管制管理意識体は、自らにも水着のような別衣装が必要であることを痛感し、最近天空城配下に加わった白姫――元運営の依り代、凍りの白鯨を巻き込んで現在その作成に着手している。
基本無表情である白姫がやや引き気味に見えるのは、エレアやセヴァスの気のせいではあるまい。
この調子でいけば、そう遠くない未来に管制管理意識体が外見映像と声のみならず、分身体による実体化に踏み切ることになりそうである。
エレアとセヴァスにしてみれば頭の痛い話だが、それを主が喜ぶのであれば止めるわけにもいかないのが厄介なところだろう。
あんまりアホ化してもらっても困るのだが、主の役に立つことこそを至上の喜びとする下僕たちがそこを過つことはないだろうという、同じ下僕としての信頼もある。
主が振りで困っている程度であれば、言葉にしない、あるいはできない本心を忖度してフォローするのもまた、忠実なる下僕としての責務であろう。
そう自分を無理やり納得させつつ、さすがにため息のひとつもつかなければやっていられないというのも男性陣の本音ではある。
たった今もラ・ナ大陸を駆け巡り、世界を統べる――少なくとも本人たちはそう思っている立場の者たちを騒然とさせている情報の爆心地は、そんなどこか気の抜けたような状況になっている。
だが当然アーガス島からのあらゆる情報を受け取る側は、そんなのほほんとした空気を共有できるわけもない。
王都ウィンダスの王城近く、一等地に立つ某貴族の屋敷もそれは同じである。
◇◆◇◆◇
「失礼いたします」
許可を得て部屋に入ると同時、落ち着いた声で頭を下げるのはフィッツロイ公爵家、筆頭家令である老紳士。
若き頃は冒険者として名を馳せた、古兵の間では今でも『絶拳』の通り名が通用するほどの元強者でもある。
どうして彼がウィンダリオン中央王国における三大貴族の筆頭と看做されているフィッツロイ公爵家に、家令として仕えることになったのかを知る者は多くない。
だが今の彼は、どこからどう見ても上品な老紳士である。
ヒトの域を超えることのできなかった身では、若き頃に誇った戦闘力も年とともに順当に衰え、今では多少同世代よりは健康だという程度に過ぎなくなっている。
どれだけの才能に恵まれてはいてもある一線を越えることができなければ、ヒトは老いを凌駕して強くなり続けることなどできはしない。
『連鎖逸失』に囚われ、レベル7以上の成長を望めない現代に生きるヒトには、神話や伝説に登場する老英雄の如く「老いては益々壮んなるべし」とはいかないのだ。
そのある意味当然であり、才能に恵まれた者にとっては残酷な現実。
それをヒトに強いる『連鎖逸失』という現象に真正面から抗おうとする、とある少年の存在を知ったが故にこの老紳士――かつての強者は、フィッツロイ公爵家に家令として仕えることを決めたのだ。
肉体は老いても死ぬまで忘れることなどありえない、迷宮での経験を以てその少年をかつての自分を凌駕する冒険者へと育て上げるために。
そしてそれは現在のところ、これ以上ないくらいに成功していると言える。
「お疲れ様、爺や。なにか良い情報でも……って、その表情からすると双方を内包した情報が新たに入ったってところかな?」
豪奢な机で書類におとしていた目を上げて老家令に応えたのは、その元少年。
今は立派な青年に成長した、アルフレッド・ユースティン・フィッツロイ。
もともと希少な魔法使い、その中でも唯一魔法である『絶対障壁』を使いこなす天才として名を馳せる、フィッツロイ公爵家の長男である。
すでに通り名持ちであり、『触れ得ぬ者』の名で知られている。
その通り名は彼の持つ唯一魔法『絶対障壁』が何者の攻撃であっても通さない事実から、偽りない畏怖を以てつけられている。
何者――たとえそれが『連鎖逸失』の向こう側に湧出する、ヒトには本来どうすることもできない魔物が相手であってもだ。
もっとも冒険者界隈では変わり者でありながらも稀代の強者として尊敬を集めてはいるが、貴族社会においてはフィッツロイ公爵家という名家に生まれながら、高貴なる者の義務を放り出して冒険者などをやっている愚か者として、わりとあからさまに嘲笑の対象となっている。
本人はそんなことに一切頓着していないが、父や弟、妹はともかく優しい母に本来であれば要らぬ心労を強いていることだけは申し訳なく思っているようだ。
アルフレッドは己が高貴かどうかなどを気にすることはない。
だが一人の強者としての義務があるのであれば、それはいつ訪れてもおかしくないヒトの滅びから、強者ならざる者たちを護ることだと思うのだ。
まあそんなほとんどの人に理解してもらえないことにかまけていられるのも、理解ある父と大貴族の後継としての義務遂行を完璧に行ってくれている弟のおかげということも理解している。
よって兄と同じ冒険者稼業をやっている妹ともども、家族には頭が上がらないアルフレッドではある。
「ご明察ですな」
己の仕える主人が発した正鵠を射抜く言葉に、老家令はにやりとした笑いを浮かべる。
常に家令として完璧な彼がそんな表情を見せるのは、主人であるアルフレッドと彼が信頼する一党党員に対してだけだ。
だがいつもであれば常に余裕を感じさせるその笑いが、隠しようのない緊張ともいえるもので強張っていることをアルフレッドは気付いている。
だからこその先の発言だ。
主としてこの老家令が集めたここ数日のとんでもない情報はすでに纏め上げられ、主人であるアルフレッドに提出済みである。
まさにたった今まで、アルフレッドが目を通していた書類とはこの老家令が取りまとめたもの。
つまりは数日前にアーガス島で発生した大事件。
『天蓋事件』についての報告書である。
「これは……」
信頼する師匠でもある老家令から追加の書類を受け取り、素早くそれに目を通したアルフレッドは思わず絶句する。
集められた情報から推測される、老家令なりの分析も添えられたその書類はそれだけの情報が記載されていたのだ。
大好きな兄さまの執務室で同じ時間を過ごしていた妹――アンヌ・フローラ・フィッツロイが、どれどれとばかりに兄が読み終えた書類に自分も目を通す。
強く聡明であり、良く言えば頭の回転が速い、悪く言えばああ言えばこう言う、飄々としたという表現がぴったりな兄が絶句するなどそうそうあることではない。
だからこそアンヌも、兄をそうさせた報告書に興味を持ったのだ。
どんなとんでもないことが書かれているのかと。
そもそも元の『天蓋事件』の報告書からしてとんでもない代物なのだ。
ここ数十年、いや百年単位でみても飛びぬけているといっても過言ではあるまい。
ウィンダリオン中央王国を三大強国の筆頭足らしめている、逸失技術による魔導武装兵器最強と看做されている九柱天蓋、その一柱が墜ちたのだ。
それも事故や数少ない同格存在との戦闘の果てにではなく、魔物の群れと目される集団、そこからの一撃を以て、まさに鎧袖一触で砕かれたのだ。
そんなことが可能な戦力など、今のヒトの世界には存在しない。
つまりあの日アーガス島上空に現れた何者かが世界に牙を剥けば、その日がヒトの世界の終わりと同義となる。
だからこそ今、『天蓋事件』のあらゆる情報が世界中を駆け抜け、支配者階級を自認する者たちすべてが深く静かに狂乱状態に陥っているのだから。
まさか前周まではそのとおりの阿鼻叫喚がラ・ナ大陸を襲っていたことなど、『世界再起動』前の記憶を持たない世界の中に生きる者たちが知るはずもない。
だがアーガス島上空に現れたというそれが――黒の王率いる天空城が世界を滅ぼすことなど造作もないことを、本能が即座に理解して怯えているのだ。
そんな情報にすら取り乱さなかったアルフレッドが絶句したのだ。
『天蓋事件』の情報だけで充分肝を冷やしていたアンヌが、怖いながらも興味を持つのも当然である。
迷宮攻略をしていない昨日今日、アンヌが兄の執務室に入り浸っていたのは、自身も戦える力を持った一人として、それでもどうしようもない理不尽な「終わり」を感じて怖かったからである。
知ったうえでなお動じない――動じないように見える兄さまの傍にいれば、アンヌはなんとなく安心できるのだ。
「すごいね。『黄金林檎』の『鉄壁』ヴォルフ殿や『疾風』サジ殿の名前がなければ、ちょっと信じることが難しいほどだね」
絶句から何とか脱し、アルフレッドが珍しく絞り出すような声でつぶやく。
冒険者であれば知らぬ者などいないトップギルドの一つである『黄金林檎』。
そこの最高幹部の一人であり、その右腕として名を馳せる二人の通り名持ちの強者。
それらが情報源であり、信頼する師匠格がまとめた情報であっても俄かには信じ難いとまでアルフレッドが口にするもの。
それはアーガス島冒険者ギルドにふらりと現れた、とある新人冒険者に関するものだ。
「左様ですな。ちなみに坊ちゃまはどちらがより脅威とお考えですかな?」
「坊ちゃまはよしてくれと、いつもお願いしているだろう?」
「失礼いたしました、アルフレッド様」
「しかし難しいことをきくね、爺やは……」
いつものお約束を繰り返しながら、アルフレッドの紫苑の瞳が真剣な光を宿す。
自分も目を通し終えたアンヌには、今の二人の会話がいまいちピンとこない。
確かに自分も目を通した新しい報告書には、とんでもない新人の情報が可能な限り詳しく記載されていた。
兄と同じく唯一魔法である『防御貫通』を使いこなし、『貫く者』の通り名を得ているアンヌからみても、破格といっていい新人なのは確かだ。
可能なのであれば報告書にあるヴォルフと同じように、自分たちの『矛盾』――兄と妹の駆使する唯一魔法に因んで周りからそう呼ばれているうちに、自分たちでもいつの間にか定着した一党名――に勧誘したいくらいだし、それが無理ならせめて友好同盟くらいは結びたいとは思う。
だが世界の滅びに直結するかもしれない『天蓋事件』と並べて、どちらがより脅威かを問われるようなものではないとアンヌは思うのだ。
――女の子と見まがうような美少年って、どんなだろ?
などと、報告書の情報から要らん妄想をしているせいでは断じてないのだが。
いかな天才魔法使いであっても、同じヒトであれば心強い味方ではないのかな、と思ってしまう自分は甘いのだろうか、などと自省してみるアンヌである。
「うん。私は『黄金林檎』のヴォルフ殿をして『その冒険者、取り扱い注意』と言わしめるヒイロ君――稀代の大魔法使い殿のほうかな」
「そうなのですか? お兄様」
だが誰よりも信頼し、敬愛する兄さまが出した答えはアンヌにとっては意外であり、よって素直に疑問を口にする。
兄さまは勘などという曖昧なもので判断するような人ではない。
であればその判断には明確な根拠があるはずなのだ。
そしてそれを問うて、もったいぶるような人でもない。
「そうなのだよ、我が愛する愚妹」
「理由をお聞きしても?」
いつもどおり、わざとおどけた態度で自分に接する兄に笑いながら重ねてアンヌが問う。
「彼が天才……いやそんな域ではないね。バケモノだからだよ」
「九柱天蓋の一艦を鎧袖一触で墜とす存在よりもですか!?」
さすがに驚きを隠せないままに、そこまでなのかを三度重ねて問う。
アンヌのお兄さまは好んで他人を悪く言う人ではないが、不必要に褒めたり持ち上げたりする人でもない。
貴族社会にありがちな「褒め殺し」を、わりと本気で嫌っていることをアンヌは知っている。
だからこそ、先刻から報告書にある魔法使いの少年ヒイロ・シィ――トップギルド『黄金林檎』の最高幹部の一人をして「その冒険者、取り扱い注意」と言わしめた人物に対する評価は本気なのだろう。
稀代、天才、化け物――それらの言葉はアルフレッドが、時にアンヌも言われてきた、ある意味聞きなれた言葉とも言えるものだ。
だがお兄さまが他者にその言葉を使ったのを聞いたのは、少なくともアンヌが記憶する限り初めてのことだった。
そしてその言葉の調子には、明らかに自分よりも格上だと確信している響きがある。
自覚なきお兄様信者であるアンヌには、そこがなんとなく気に入らない。
なので問う声に不満げな響きが含まれてしまったことは容赦願いたいものである。
なんでコイツちょっと不機嫌なの? という表情をされるのもまた不本意なのだが。
「そっちもそっちで大概の化け物だけどね。でもそれは少なくとも我々にとっては今までの日常の延長に過ぎないとも言えるんだ」
苦笑いでアンヌに応えるアルフレッドは、『天蓋事件』を不当に軽く見ているわけではない。
だがなにをいまさら、と思ってしまうのもまた一方の事実でもある。
「お兄様みたいに考えられる人はそんなに多くないと思うな、私」
その気持ちを共有できるアンヌではあるが、わかってくれる人がそんなに多くないこともよく知っている。
だからこそアルフレッド率いる一党『矛盾』は強者としての尊敬はされながらも、意味の分からないコト――不可能に決まっている『連鎖逸失』を突破することに固執している、酔狂者の集団だと看做されているのだから。
「それこそ我らが暮らすこの世界最大の病理だね。明日、いやたった今でも連鎖逸失の向こう側から魔物が溢れ出てきたら、私たちヒトの世界は間違いなく滅ぶのだ」
アルフレッドの考えでは、だからこそ戦える力を持った者は協力し、その総力を挙げて『連載逸失』を解決することに挑むべきなのだ。
「それを知りつつ、昨日も大丈夫だったから今日も、今日も大丈夫だったから明日も大丈夫なはずだと根拠もなく信じて私たちは日々を暮らしている」
この世に勝てない魔物がいることは知っています。
でもどうにもならないので、今までどおりヒトの世界に出てこないことを祈ります。
そんなのは知恵ある者のすることではない。
護りたい、大切な相手を持っている者がするべき思考でもない。
今日勝てないなら明日。明日勝てないなら明後日。
果てなき未来までかかるかもしれないが、いつか勝つために今の努力を積み上げることこそが最も肝要だと確信している。
なにも精神論で特攻して、無駄死にしろというわけではない。
勝てないまでも負けないだけの情報を可能な限り得て、自分たちの代の力で勝つことが無理ならば、次の世代にそれを託すべきなのだ。
そうしていたところで、ある日突然終わりが来るかもしれないのだから。
人事を尽くしたうえで天命を待つのはいい。いいというか、それ以上はどうしようもない。
だが人事を尽くさず天に祈るような真似は嫌なのだ、アルフレッドという一人の男は。
「アーガス島の出来事……『天蓋事件』とか言われだしているみたいだね。その脅威を語るのは私にしてみれば今更、という話なのだよ。まあ確かに凄すぎる存在が現れてくれたものだと思いはするけどね」
「なのに、それよりも脅威なのですか? そのヒイロ君という魔法使いさんが?」
アンヌの疑問はもっともだとアルフレッドは思う。
この聡明だが少々素直すぎる愛すべき妹は、ヒイロ・シィという桁外れの魔法使いの能力を理解はしても、同じヒトとして本質的に味方だと捉えているのだ。
ある意味においては同族であるはずのヒトこそが最も恐ろしく、悍ましい存在になり得るのだということを幸せな妹は知らないのだ。
アルフレッドとて、恵まれた生まれゆえに知識としてしか理解していないことは自覚しているが。
だからこそ、信じがたいことに死者の一人すら出なかったとはいえ、九柱天蓋を砕き墜とすという明確な敵対行動を取った相手よりも脅威と看做すことが難しいのだろう。
「私たちの識る大前提を覆す存在だからね、彼は」
だがそうではない。
アルフレッドは自身も頭抜けた才能を持つ魔法使いであるからこそ、ヒイロ・シィと名乗っている、見た目は少年冒険者がいかに化け物なのかを痛感している。
「もしも彼と同じ力を私や愚妹、君が身に付けることができると仮定した場合」
ここでアルフレッドが言う力とは、ヒイロが常用しているという魔法『ファイア』のことではもちろんない。
詠唱も必要とせず一瞥しただけで魔法が発動しているという、俄かには信じがたい、魔法という力の在り方を根幹から覆す特殊技能とでも言うべきものですらない。
「私たちは苦も無く『連鎖逸失』の軛から解き放たれる」
「!」
アルフレッドの言う力とは、報告書が真実を語っているとするのであれば無限としか思えないヒイロの魔力総量と回復速度。
おそらくは総量もさることながら、その回復速度が常人――魔法使いというだけですでに常人からかけ離れた存在だというのは置くにして――とは桁外れなのだろう。
そうでなければ休養を一日も取らないまま、来る日も来る日もスライムを焼き続けるなどという真似をできるはずもない。
アルフレッドやアンヌほどの魔法使いであっても、いやそれだけ成長を遂げた魔法使いであるからこそ、一度魔力を使い切れば最短でも1日。正確に魔力残量を把握する術を持たない以上、安全を見て2、3日の休養を取ることは必須というのもばかばかしい、魔物に魔法や武技で挑む者の常識なのだから。
だがアルフレッドの『絶対防御』と、アンヌの『防御貫通』
これを件のヒイロ・シィと同じようにいくらでも使えるようになればどうなるか。
膨大な魔力を消費し、一度の迷宮攻略で一桁の数しか使えないからこそ、稀有な唯一魔法を以てしてもなお『連鎖逸失』の突破を成し得ないのだ。
その制限を解かれれば、アルフレッドとアンヌの魔法は、魔物との格差を事実上無効にできる潜在能力を有している。
そのことを遣い手であるアルフレッドが、一番よく理解している。
この唯一魔法を持って生まれてきたからこそ、自分は『連鎖逸失』に挑むという思考持つに至れたのだとも思っている。
もともと頭のいい妹は、今のアルフレッドの言葉でこのヒイロ・シィという魔法使いがどれだけ重要かは理解できているようだ。
感心したような表情を浮かべ、もしも自分が『防御貫通』を好きなだけ撃てるようになった場合のことを想定して、ちょっと興奮状態になっている。
――素直なことだ。
我が妹の可愛らしさに、内心張りつめているアルフレッドも一瞬笑顔を浮かべる。
悲願達成が成るかもしれないという驚きのあまり、なにゆえに彼を脅威と看做すのかという疑問がすっ飛んでしまっている。
「そんな化け物であるにも拘らず、ヒイロ君は普通のヒトにしか見えないらしい。いやとんでもない美少年を普通のヒトだと言うのは少々無理があるけれどね」
アルフレッドがヒイロという新人冒険者を、『天蓋事件』を引き起こした魔物の群れよりも脅威と看做す理由。
それは今回の一連の事の中心が、間違いなくヒイロであると確信しているからだ。
『天蓋事件』発生時その現場におり、秘匿としている『黄金林檎』が持つ情報――ヴォルフが与えられた口止め料や、カティアが遠見の技で見た千の獣を統べる黒の真の姿、リズが気付いた執事長の声。
それらが欠けた報告書からでも、『天蓋事件』の情報と突き合わせれば、導き出せない推論では決してない。
九柱天蓋を砕き墜としておきながらその中にいた膨大な人員、その誰一人として死んではいない。
九柱天蓋が崩落し海に墜ちる際に発生した津波はすべて、不可視の障壁で島に被害を与えることを阻まれている。
なによりもそれだけのことが起きている最中、恐慌に陥るどころかアーガス島にいたすべての人間が跪き、ことが終わるまでそのままじっとしていたという在り得べからざる奇跡、あるいは狂気。
それらの全てが、今のアーガス島を守護する桁外れの存在を示唆している。
そうでなければ、巨大な空中魔導要塞が墜ちて死者無しなど、御伽噺や神話でもあるまいし在り得ていいことではないのだ。
なんとなれば、九柱天蓋を墜とした魔物の群れですら、その存在の支配下であることさえもあり得るとアルフレッドは見ている。
結局その強力な魔物の群れは九柱天蓋を砕いた以外、アーガス島になんら被害を及ぼすことなくその姿を消しているのだから。
なにゆえに突然アーガス島上空に現れたのか、その理由まではさすがに想像もつかないが。
「アンヌ。ブリジット、シエル、フィアナ、ジゼルの四人を呼んでくれないか。我々『矛盾』は可及的速やかにアーガス島冒険者ギルドへ移籍する」
滅多に見ない、真剣極まりないアルフレッドの表情と口調に、アンヌは無言で頷いて即行動に移る。
どうあれアルフレッドはもう、そのヒイロという化け物に接触することをもう決めている。
よって自身が最も信頼し、生死を共にしているといっても過言ではない一党全員とともにアーガス島へ一刻も早く赴くことにしくはない。
アルフレッド以外にも、同じような推論をするものはいくらでもいるだろう。
情報が増えれば増えるほど、荒唐無稽に見えてもその可能性を無視できなくなってゆくことは疑いえない。
いやそれも少し違う。
アルフレッドが本当に恐ろしいのは、『黄金林檎』による「その冒険者、取り扱い注意」との通達文が発されて以降、ぴたりとヒイロ・シィに関する新たな情報が途絶えているという事実だ。
もちろん友好提携を結んだ『黄金林檎』をはじめ、トップギルドの忠告に素直に従ったギルドが多いことも、情報が途絶えた理由の一面ではあるだろう。
だがこれだけの規格外の情報が、それだけでぴたりと止まるなどありえない。
本来であれば、『黄金林檎』こそがより詳しくその情報を探らんとするだろう。
――ヒイロの正体を推察することができなければ。
つまりこれは「通告はした。それに従わぬ者には容赦しない」ということだ。
通達以降も探ろうとした愚か者は、ヒイロ自身か、もしくはそれを守護する存在によって間違いなく消されている。
思えばそうなることを理解していたが故に、余計なことを言わぬままに忠告だけはするという、どこか冗談めいた『黄金林檎』の通達文が出来上がったのだろう。
「爺や。父上と弟には私から連絡を入れておくので、実家の名前を使ってくれてかまわない。一刻でもはやく、我々はアーガス島へ赴く必要があるからね」
この際、使えるものはなんでも使う。
大貴族としての名前でも、コネでも、金でも、力でも。
ああだこうだ言っている場合ではない。
もしもヒイロという少年が「もう冒険者の真似事も飽きた」とでも言えば、その瞬間から世界は滅びの道を辿るかもしれないのだから。
「畏まりました」
恭しく頭を下げる老家令を見ながら、自分は運がいいのかどうかを思わずまじめに考えるアルフレッドである。
虎穴に入らずんば虎子を得ずとは言うものの、自分の言動一つがあるいは世界の滅びを導くかもしれないと思うと正直胃が痛くもなる。
だが今でもヒイロという少年は冒険者ギルドのポルッカ氏や『黄金林檎』の面々と誼を通じ、冒険者として活動しているらしい。
最後の情報によるとだが、たった数日でそんなに大きく変化してはいないだろう。
だったら自分も、ヒイロという少年の姿をした化け物に、この世界は、ヒトは捨てたものではないと思わせる一助になる必要はあるだろう。
それに自分が物心ついてからずっと夢見てきた、『連鎖逸失』の突破もうまくすれば叶うかもしれない。
慎重に慎重を重ね、それでも遅々として進まなかった『連鎖逸失』発生階層の攻略よりは、よほどやりがいも見返りもある仕事とも言える。
――なあに、失敗すれば世界が滅ぶのは今に始まったことではないさ。
自分を鼓舞するために内心独りごちたアルフレッドの台詞は、期せずして正鵠を射ている。
実際に前周までは、そのヒイロの中のヒトの指示によって、既にこの時間軸では世界の蹂躙が開始されていたのだから。
とりあえず父親と弟に連絡する際は、これ以降ヒイロ・シィという存在に対して要らん調査を仕掛けることを厳に止めておかなければならないことをアルフレッドは思いだす。
もしかしたら自分が想像したことすらなかった世界を見ることができる可能性も出てきた中、すすんで虎の尻尾を踏んで、世界ごと滅ぼされるような愚をおかしたくなどないのだから。





