番外編 天蓋事件後日譚① 林檎の種 ~butterfly effect paradox~
ウィンダリオン中央王国、王都ウィンダス。
中央暦0457年、夏待月。
後の歴史において『天蓋事件』と呼ばれることになる出来事。
迷宮都市島アーガスにて発生した天空城勢と運営の依り代、その抜け殻である『凍りの白鯨』の邂逅、およびそこへの第三勢力の介入。
この周のラ・ナ大陸、いや世界から岐より来しモノ――プレイヤー率いる異形の集団がはじめて認識された、異形の歴史へと至る嚆矢。
そのとばっちりを喰らうカタチ、正確には黒の王のうっかり発言を原因として九柱天蓋――ウィンダリオン中央王国が誇る最強戦力の象徴――が砕き墜とされた日から数日。
アーガス島からは遠く離れた王都に構えられた、ラ・ナ大陸において五指に数えられる有力ギルド『黄金林檎』の本部では、ある一人の女性が苦悩している。
名はセリナ・ノイウェ。
当年とって17歳。
深い碧色の髪と同色の瞳。
肌はきめ細かいが白でも黒でもない、日本人であればまさにつややかな肌色というべき色をしており、ラ・ナ大陸のヒューマン種の中では珍しい部類に入る。
細身でありながら出るべきところは必要以上に出ており、男であれば思わず目線が合わずに会話してしまいそうなスタイルを誇っている。
本人がそれを誇っているかどうかはおくとして。
職は希少である魔法使いの中でもより希少である、治癒術士。
巨大ギルド黄金林檎の幹部の一人でもあり、『癒しの聖女』という通り名を持つ、17歳にしてすでに熟練と看做されている有力冒険者だ。
とある事件に巻き込まれた幼少時、『黄金林檎』創立メンバーたちに救われると同時にその才を見出され、帰る場所を失ったセリナはそのままギルドの一員となった。
以後今日まで黄金林檎の秘蔵っ娘としてトップメンバーによるレベリングをなされ、現状では人の至れる高み、その頂と看做されているレベル7に歳若くしてすでに至っている。
魔法使いが希少なこの時代においてはほぼ奇跡と同義である『治療』を、最大で9回も連続使用可能な時点で大手ギルド黄金林檎の幹部と言われても誰も疑問を持ちはしない。
一度の使用でほぼすべての魔力を使い切ってしまうとはいえ、傷にとどまらず部分欠損すら治してしまう『治癒』が、冒険者にとってどれほどありがたい魔法かは言うまでもない。
もちろん冒険者ではなくとも、金を腐るほど持っている貴顕の連中にとってもその価値は高い。
政治力も必要となる大手ギルドとしての黄金林檎において、人脈形成という点で『癒しの聖女』がしている貢献は他の追随を許さない域である。
もともと優し気というよりはきつめの美人という顔付をしており、そのわりには人見知りなため親しい人間以外には事務的に対応することから、黄金林檎の大部分のメンバーはもとより、多くの冒険者たちにはクール・ビューティーと看做されている。
本人は絶世の美女と称してもそう反論はないであろう見た目に反して、相当にポンコツよりなのだが、それを知るのはごく一部に限られる。
たとえば『黄金林檎』の創立メンバーの一人にして大幹部でもある『鉄壁』ヴォルフだ。
いやその副官であるサジや、一党メンバーであるカティアやリズとも仲が良く、そのあたりにも今では知られてはいるのだが。
そんな『癒しの聖女』、セリナ・ノイウェが困っているのは自分の正体を知る数少ない一人であり、命の恩人でもあるヴォルフの前でとんでもない格好をさせられているからだ。
「いやまあしかし……育ったもんだなあ……」
そのとんでもない格好――とはいえ素っ裸だとか、下着姿であるとかいうわけでは当然ない――をみて、わりと身もふたもない感想をヴォルフが述べる。
将来どんな成長をするにせよ皆一様につるんでぺたん、子供らしい――理由はそれだけではなかったが――折れそうなくらいに細っこい姿を知っているヴォルフとしては正直な感想ではあるのだろう。
ヴォルフは年の近い娘みたいに思っているセリナに対して、恋心だとか性的な視点を持ち合わせていない。
嘘ではない。
ヴォルフは今はもう叶いようもない想いを、今でもまだ忘れられずにいるからだ。
いや持ってはいないのだが男である以上、一定以上の破壊力を伴った美貌と肢体を前にすれば少々間の抜けた、よりはっきりと言えば少々下衆い表情になってしまうのは仕方のないことと言えるかもしれない。
その上、今のような恰好をしているとなればなおのことである。
「ヴォルフ様、せ、セクハラですよそれ!?」
付き合いの薄い人間に見せるキリリとした常の態度とは違い、セリナがヴォルフに対してとる態度は普通に年齢相応の女の子のものだ。
ヴォルフにすれば普通でも、常のセリナを知る多くの人間にとっては意外なものだろう。
ギャップ好きには刺さるかもしれない。
そのセリナは自身のえらく育った胸のあたりを細い両腕で抱くようにして隠し、涙目でヴォルフの発言に遺憾の意を表明している。
さもありなん。
肌の露出こそほとんどないとはいえ、限りなく薄い生地で仕立てられたその衣服は、ヴォルフ曰く「育った」肢体にぴったりとした仕上げになっており、その魅力的な曲線をほぼそのまま見る者に伝えるデザインだからだ。
袖やスカートの裾の仕上げは繊細で手の込んだものであるとはいえ、着ている本人にしてみれば太ももから上は躰に黒色を塗っただけとそう変わらないともいえる。
現在はギルド本部の豪奢な一室にヴォルフと二人でいるわけだが、このままこの格好で王都の大通りを歩けと言われればセリナも涙目程度では済まないだろう。
「せくはら?」
「な、なんでもありません」
前線で迷宮攻略に明け暮れるヴォルフには聞きなれない言葉に疑問の表情を浮かべるが、顔を真っ赤にしたセリナに流されてしまう。
「いやすまん。しかしいつものように堂々としていればいいじゃないか。似合うんだし」
なるほど、年頃の女の子にああいったことを言うのは「せくはら」と呼ばれるのか、などと要らん知識を得ながらヴォルフが謝罪とフォローを入れる。
事実、いつもの毅然とした態度であればたしかに大胆な衣装とはいえ似合いはするし、下卑た野次などは飛ばないだろう。
「いくらなんでもさすがにこんな格好は過去に例がないと思うんですけど……それに超がつく高級品じゃないですか? これ」
だがそういうことではない。
似合おうが似合うまいが、スタイルがよかろうが悪かろうが、なんの補正もされていない、それこそ風呂場でしか晒さないようなシルエットで人前に出ることは年頃の乙女としてはそりゃNOってなものなのだ。
とはいえセリナにも今自身が身に付けている服がとんでもない高級品だということくらいは理解できる。
胸周辺の正確巧緻な立体縫製は相当な腕を持った職人でなければ不可能だろう。つまり高くつく。
だれがその正確な寸法を提供したのかはこの際考えないことにしておく。
要は冗談で仕立ててみました、程度では済まない金がかけられているということだ、この漆黒の薄くて体にぴったりとフィットし、太腿半ばからスカート状になっているこの名称不明の衣装には。
柔らかな光沢をもった生地からして、そうそうお目にかかれる代物とも思えない。
「それだけ黄金林檎も本気だってことだな。それにそれ一着だけではなく次々納品されてくるらしいぞ、それ級のが」
「これ級ですか……」
どうやら仕事モードのスイッチが入ったヴォルフに対していつまでもきゃあきゃあ言っていても仕方がないので、セリナも黄金林檎の幹部としての思考に切り替える。
だからと言ってすべての羞恥が消え去るわけではないのだが。
これ級とやらが、価格と煽情性、その双方であることにも予想がつくが故にため息の一つも出ようというモノだ。
「ホントにその……色仕掛けとかするんですか? 私ですよ?」
それがギルドの一員としての仕事であるというのであれば否やはない。
だがそういうことができそうな対外的なセリナではなく、正体を知っている中枢部、それもヴォルフが関わっていることに疑問はある。
――私にできると本気で思われてるのかしら?
というのが正直なところだ。
そういうことをギルドメンバーにさせようというあたりも、黄金林檎という大手のくせに理想より、もっとはっきり言えば青臭い思想が優先されがちな組織としては奇異も感じる。
「いやまあ、ギルドマスターが言うほど本気でやらなくてもいいよ、というよりもやらない方がいい。そういう格好で彼の目につく距離にいてくれればいい。あくまでも主たる任務は俺たちのアーガス島迷宮攻略パーティーに参加することだ。そういう格好はまあ……可能性を少しでも上げるための涙ぐましい努力ってやつだな」
ヴォルフはもちろんセリナを気遣う思いもあるがそれだけではない。
彼――ヒイロが自ら気に入るのであれば願ったりだが、藪をつつくかの如き過ぎたアプローチは思わぬ大蛇が飛び出してきかねない。
そしてその蛇に対処する力を、おそらくこの世界の誰も持ち得ていないのだ。
ヒイロがただ者ではない――魔法使いとしても稀有な才能を持った新人という以上の意味で――以上、その周りにいる存在たちも当然ただ者ではないだろう。
少なくともヒイロがいつも連れている小動物と、ヴォルフに例の盾を渡してくれた老執事がそうであることを、おそらくヴォルフたちだけが知り得ている。
であれば白銀亭でヒイロが迷宮から帰還するのを素直に待っている絶世の美女二人もそうであると考えて間違いない。
彼らの真実の一端に触れながら、始末されずに済んでいるのだ。
自ら火に油を注ぐ真似は避けたい、とはいえ打てる手は打っておきたい。
そういう意味でのヴォルフの発言である。
「私の意志は無視ですか、そうですか」
苦笑いしながら答えてくれるヴォルフに、内心の安心を隠すようにしてセリナは拗ねた表情を浮かべる。
大幹部であり、アーガス島での『黄金林檎』の活動を統括するヴォルフがそう言ってくれるのであれば、自分は積極的に彼とやらにアプローチをかける必要は本当にないのだろう。
正直なところ一安心である。
だが。
「……12歳前後」
「!」
拗ねた表情くらいではごまかせないヴォルフが、安心したセリナに爆弾を投下する。
爆弾とはいえ、だただた彼――ヒイロのことをそのまま伝え始めただけではあるが。
「白に限りなく近いサラサラの金髪、深い碧の瞳。細身だが鍛えこまれた躰。超級の魔法使いとはとても思えない、どこぞの王族ですと言われても信じられるくらい整っていて優し気な顔」
「!!!」
だがヴォルフの一言ごとに、あからさまにセリナの様子が変化する。
それを知っているが故に、ヴォルフも独り言めいた言葉を続けているのだ。
今まで一定以上の立場の者たちがセリナにアプローチをしても悉く撃墜されてきたその理由。
それはセリナがお高いわけでも、彼ら程度の地位、財力、あるいは戦闘力では満足できなかったゆえではないのだ。
そもそものストライクゾーンから大外れであったが故に、見向きもされずに切って捨てられてきたのである。
「落ち着いて澄んだ、声変わり前の声とどこか幼い仕草。そしておそらくは今のところ弱者に対してやさしい。なによりも彼が相手であればうまくいくことを喜びこそすれ、異を唱える者は黄金林檎の中に誰一人としていない」
「……頑張ります」
黄金林檎ほどのギルドが色仕掛けも辞さない冒険者なのだ、詳細をこの場で知らされることになっていたセリナにしてみれば壮年、よくても青年であることを想像していた。
だがヒイロは間違いなく少年である。
であるならばセリナのやる気も変わろうというモノである。
大体総じてお父さん気分の幹部たちがいる以上、セリナが誰かと恋に落ちたとしてもそう簡単に事が進むとは思えない。あーでもないこーでもないとダメ出しを積み上げられることは想像に難くない。
それこそそんな雑音など気にも留める必要がない強者が相手でもない限り。
それに持って生まれた性癖もあるのではあろうが、幼少期に体験したことによりセリナにとっての男性とは少年でなくてはならないという心的外傷も関わっている。
それを知るヴォルフにとっては、万が一でもうまくいってくれればなあという思いはギルドにとっての利益だけではなく、セリナのことを思っての部分もあるのだ。
いや色っぽいお姉さんが初心な美少年をからかう図式が好みですとか力説されても困るのではあるが。
そもそも色っぽいお姉さんなのは見た目だけで、その実『戦闘証明済み』すら持たないなんちゃって百戦錬磨でヒイロに通用するとは思えないヴォルフではある。
「まあ敵は信じられないくらい強大だがな。ちなみにカティアの色仕掛けは相手の装甲に小傷一つつけること能わず粉砕された」
争うとすれば、確かに敵は強大なのだ。
戦闘能力や人外である可能性ではなく、ただ純粋に魅力的な女性としても。
ヴォルフはセリナに匹敵するほどの魅力を持った女性にはめったにお目にかかったことはないが、それでもヒイロの周りに侍るあの二人はやはり次元が違うと言わざるを得ない。
事実カティアの色仕掛けが稚拙だったとはいえ、ヒイロはなんの反応もしなかった。
あんな二人に常に傅かれているのであれば、さもありなんというモノではあるが。
「カティアさんが……で、でもリズ姉さまもおられますよね?」
カティアの名誉のために言っておくが、黄金林檎内にも彼女に惚れているメンバーは結構いるし、十分に美女で通じるのだ。本来であれば。
そのカティアの色仕掛けとやらがまるで通用しなかった事実に軽く戦慄を覚えながら、セリナにしてみれば色気の面でははるかに自分の上だと思っている踊り子――リズはどうなのかと確認する。
「リズでも無理だろうな、あの露出度と美貌でもヒイロ君はチラ見すらしない。それに……」
「それに?」
「いや、なんでもない。まあセリナのお色気大作戦については、本気ではあるがそれはダメもとの努力程度だと思っていてくれればいい」
わりとナチュラルにひどいことを言われているような気もするが、リズが常にしているあの肌色成分多め、というかほとんど肌色の格好に反応しないとなれば、今自分が身に付けている衣装程度は必要か、などと愚考するセリナである。
何か続けて言おうとしたヴォルフに先を促してみるが、有耶無耶にされた。
まさかヴォルフとしてもリズがそのヒイロの従者、執事としか見えない老紳士に今メロメロであるとは言いにくい。
その執事が、アーガス島で生きるすべてのヒトの行動を掌握可能な化け物であるという事実も含めて。
まあ巨大な小動物らしい化け猫に、半ば本気で恋しているカティアの方がある意味においては深刻かもしれないが。
その辺は本人たちに隠すつもりがあるわけでもなし、これから攻略を共にする暮らしの中で本人たちから聞いてもらえばいいと判断したのだ。
「ですけどダメもとでこの力の入れようって、ちょっと普通じゃないですよね」
「それだけの相手ってことだよ」
セリナの言う通り、ヴォルフは、いやギルド黄金林檎は本当にダメもとでこれだけの札を切っているのだ。
自画自賛というわけではないが、セリナが秘蔵っ娘とされているのは故なきことではない。
それすら惜しむことなく、ある意味頭の悪い「色仕掛け」という作戦に組み込むのだから相当なものといっていいだろう。
本来その手の搦手を嫌うヴォルフをして、できることはすべてやろうという態なのだ。
そのヒイロという新人冒険者にどれだけの価値を見出しているのか、今のセリナにはちょっと想像がつかない。
「もっと大人のヒトだと思ってました」
「……正体はそうかもしれん」
「え?」
ヒイロが『天蓋事件』の中心人物と関りがあることはまず間違いがない。
いやヒイロにそばにいる者たちの態度を見れば、彼こそが首魁である可能性が最も高い。
であれば年齢が見た目通りということはないだろう。
それこそ人の域では不可能な、悠久の時を生きる存在であっても不思議ではない。
色っぽい大人の女の中身がそうではないように、ヒイロの中身は可愛らしく才能に溢れた少年魔法使い程度ではないはずなのだ。
「いや、まずは冒険者としての本業優先だな」
だが迷路に陥りかける思考を、ヴォルフは一旦リセットする。
今考えても詮無きことは考えず、できる手を打つべく行動するのが現場を任された責任者のするべき正しいことだろう。
「それは望むところです! 久しぶりに迷宮攻略暮らしです!」
「頼む。アーガス島迷宮には第六階層でも連鎖逸失は発生していない。であれば我々も今以上に強くなれる可能性が開かれているということだ。どこよりもはやく、ただし万全を期して攻略を進めたい。そのために『癒しの聖女』様の攻略パーティー参加はありがたい」
「頑張ります!」
秘蔵っ娘としてある意味深窓の令嬢のごとく扱われ、成長限界に至ったとみなされてからは迷宮攻略もごく一部の例外を除いて禁じられてきたセリナにとって、未知の迷宮階層攻略に参加できることは素直に嬉しい。
どうやら好みっぽい少年を攻略することよりも、はるかに。
それはまだ十七歳の少女でありながら、己が力を持つことを是とするほどの体験を経てきたからこそだ。
次にあの日と同じことが起こった時、同じように運よく強者が救ってくれるとは限らない。
なにより。
もしも自分が同じ状況に居合わせた時、自身に力がなければ過去の自分と同じ存在を救い上げることもできはしない。
だからこそ救われた少女は教会や国からの誘いを断り、強くなるために一番効率的だと判断した強力な冒険者ギルドである『黄金林檎』の一員であることを選んだ。
より強くなれるチャンス――連鎖逸失に支配されていない迷宮を前にして、足踏みしている時間などありはしないのだ。
そしてそういう意味においてはセリナをもしのぐ、強さを得ることへの渇望に支配されているのが『鉄壁』ヴォルフである。
「今よりも強くなれれば……コイツを装備可能になるらしいしな」
「すごいですよね、その盾」
今はまだ装備できない――ただの高硬度金属の盾としてしか使えず、魔導武装としての能力のいっさいを発揮できていない――ヒイロからもらった盾を、ヴォルフはあれ以来ずっと己の主盾としている。
アーガス島の迷宮を攻略中に、装備できるようになるはずだというヒイロの言葉を愚直に信じているのだ。
もとよりそこまで圧倒的な魔導武装を持ち得る者などほとんどいないのが現代だ。
その状況でなんの金属かすらわからない、だが少なくともヴォルフたちが攻略する階層の魔物の攻撃であればありとあらゆるを通さないその盾は、盾を扱いなれたヴォルフにとっては今までの軽い祝福を受けた程度の魔導盾よりもはるかに勝る。
それが装備可能――本来の力を発揮するようになればどれだけ自分が強化されるのか、純粋な興味と期待がある。
なによりもあのヒイロがわざわざよこした魔導武装なのだ。
そこらの魔導武装程度ではない可能性は十分に高い。
「ああ。これを使いこなせれば間違いなく今よりも強くなれる。そして連鎖逸失がないアーガス島迷宮で鍛え上げれば……」
その先の言葉をヴォルフは口にしない。
だがそれをするためだけに、ヴォルフは今も迷宮攻略の最前線に立ち続けているのだ。
今も周囲からは呼ばれ続けている通り名、『鉄壁』の矜持をへし折り、失うことなど考えたこともなかった創立メンバーを奪った連鎖逸失に支配されたとある迷宮。
それを最下層まで完全攻略してみせてこそ、自身の通り名を受け入れることはもとより、もう二度と取り戻せない失った仲間たちに「どうだやってやったぜ!」と、あの世で再会した際に胸を張ることができる。
そのためならばどんなことでもしてみせる。
それが『鉄壁』でも『黄金林檎の大幹部』でもない、ただ一人の冒険者としてのヴォルフ・ミュラーの本質、軸足。
だからこそ今うてる、打つべき手はすべてうつ。
出し惜しみなどはしない。
「……その時は私もパーティーに加えてくださいね?」
ふと恐い顔――けしてセリナはその顔を嫌いではないが――を浮かべてしまうヴォルフに、いたずらっぽくセリナは声をかける。
だがそれはセリナにしても簡単に口にしている言葉ではない。
「それは……」
今よりも強くなれたとしても、連鎖逸失に支配された迷宮へ挑むのは命の危険が常に伴う。
『矛盾』という、ある意味においては超有名な一党がいる。
『絶対障壁』を使う『触れ得ぬ者』と『防御貫通』を使う『貫く者』
唯一魔法を使いこなす二人を擁するその一党が、愚か者と揶揄されながらもその実、高位にある冒険者たちから尊敬を集めているのは、その不可能ごとに挑み続けているが故だ。
生半可な気持ちで挑めるものでもないし、その程度では必ず命を落とす。
だからこそヴォルフもおいそれと簡単に「応」とは言えない。
だが。
「ね?」
笑顔のまま、語尾だけを繰り返す。
セリナとて『癒しの聖女』、『黄金林檎の幹部の一人』として、そんなことは重々承知している。
それでも引くつもりなどサラサラありはしない。
「……わかった。癒しの聖女様は頼りになるからな」
「そうですよ。こう見えて私はすごいんです」
そう言って自身の豊かな胸を張る。
今自分がどういう格好であるのかは、一連の会話で飛んでしまっているらしい。
冗談めかして笑うセリナに、女はやはり強くて怖いなとヴォルフは思う。
ヴォルフは失った大切な仲間――先輩と唯一愛した女性に顔向けできる自分であるために、あの日から今日まで不可能ごとに挑み続けてきた。
だがセリナとて、子供の自分を救ってくれた恩人二人を奪った迷宮に思うところがないわけもないのだ。
だから強くなる。
その理由を生み出した連鎖逸失に支配されてはいない、冒険者にとって強さへの最前線たるアーガス島の地で。
これは本来はあり得なかった物語。
正史ではセリナはアーガス島へ赴くことはなく、ヒイロと出逢うこともなかった。
天空城が降臨して以降、未来に無限の世界線を持つに至ったラ・ナ大陸を含むこのT.O.Tを基とした世界は、その表舞台にたった一人の少女が加わることによってさらに大きな変化を得ることになる。
とはいえ市井で暮らす人々にはちょっと引かれそうな衣装に身を包んだセリナ本人は、自分がそんな大それた引き金になることなど今は知る由もない。
それ以前に自分が競うことになる相手が世界の三大美姫と呼ばれる貴顕の姫君たちや、彼女らをすら軽く凌駕する文字通り絶世の美女たちとはそれこそ想像もできてはいない。
だがそんなことにはへこたれない彼女だからこそ、至る結末を変えることができるのかもしれない。
コミカライズ版コミックス1巻発売記念の番外編を投稿しました。
時系列は一章から二章の間あたりとなります。
コミカライズ版、素晴らしい出来なのでよろしければ是非。
3/27本日1巻発売、自分でもすごく楽しみです。
小説家になろう版も更新したいのですが、本業の部署がらコロナウィルスと中国の影響がえげつなくてなかなか思うようにいかない状況です。
コミカライズ版は満月シオン先生が素晴らしい仕上がりを見せてくれているので、何とか本編も再稼働していきたいところです。まだ先ですがおかげさまで何とか二巻も出していただけるようです。
可能な限り早く本編の再開を目指しますので、今後もよろしくお願いします。





