第114話 帝都の大混乱
ラ・ナ大陸北東部一帯、広大な領域を支配するシーズ帝国。
その帝都『八竜の泉』
早朝。
朝の光が帝都を取り囲む巨大な城壁から、市街地を照らしはじめている。
帝都の市場はまだ開いておらず、各々の働くべき場所へと、業務開始がはやい人々が移動を開始するような時間帯。
まだ人の営みが生み出す喧騒ではなく、緑も多い帝都内を生息圏とする小動物たち、主に小鳥たちの囀りが帝都を支配している。
ベッドで微睡む恋人たちの目覚めにふさわしい状況と言っていいだろう。
そんな時間帯。
その帝都の支配者である、皇帝の朝ははやい。
『大魔導時代』の嚆矢揺籃とも言える現代であってなお、他国とは一線を画する機能が満載された皇城『竜の心臓』のみならず、帝都『八竜の泉』の全機能を制御することが可能な皇帝執務室。
その時代錯誤遺物としか表現できない力を帝都に与えたのが『天空城』であることを知る者は、この時代にはもうかなり少なくなっている。
野に湧く魔物はもちろんのこと、80年前とは比べ物にならぬほどに強くなった兵たちが、迷宮から得た魔法武具に身を固め陣を敷き、万の列をなしても薙ぎ払えるだけの絶対的防御機構。
隔絶した力。
それをどう扱うかを知る者はそれなりに居ても、仕組みも理解できなければ修理などとてもできない現状を、憂いる者は皆無である。
超越者に与えられた力に疑問を持つ者など存在せず、この80年間の実績を以って帝都の安全は無謬であることを、誰もがみな呑気に心の底から信じきっているのだ。
確かにそれらの時代錯誤遺物は、故障などしない。
この世界の最先端時間軸まで、誤作動一つ起こすことなどなく稼働し続ける。
だがそれを本当に支配する者が誰なのかなど、皆忘れ去っていた。
そしてそれは、帝都の中枢に位置する者たちも本質的には変わらない。
帝都に暮らすすべての人々が、今からそれを思い出させられるコトになるなど、現時点では誰も予想できようはずはない。
補佐官をはじめ、複数の官僚も皇帝執務室にはすでに揃っている。
爽やかな小鳥たちの声を背景音として、今日も忙しい執務の開始というわけだ。
とはいえ現在のところ、己が治めるシーズ帝国はおおむね平和。
今なお三大強国のひとつに数えられ、『支配者の子供達』諸国の中でもトップクラスと見做されている「大国」であるシーズ帝国。
そのいわば巨大なバケモノを、どうにかこうにか御していると自分でもなんとか思えている現シーズ帝国皇帝である。
名をヴィルヘルム七世。
全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・グラン・シーズ。
偉大な両親にはアルベルト、略してアルと呼ばれていた。
今年で齢71を数え、即位してからでも50年以上経過している老帝。
近年ではウィンダリオン中央王国を今なお治める異母兄弟と合わせて「老双賢」などと呼ばれてはいるものの、正直なところ自分ではこの50年間、常にいっぱいいっぱいであった。
そしてそれは、今とて何も変わらない。
もちろん周囲にそれを悟られるような愚はおかしてはいない。
いないはずだ。そうであってくれ。
古参の側近にはばれていたであろうが。
最近は偉大な父の血を引いたせいか老いてなお壮健な自分とは違い、古参はみな楽隠居したので皇帝たる自分の周りは若手ばかりだ。
そこには己の実の息子も含まれている。
それでも先帝の威光を汚すことなく、正しく次代へ引き継がねばという重圧は相当のものなのだ。
自分が帝位に就いてからも人口は右肩上がりで増え、経済も活況。
肥沃な土地に恵まれたラ・ナ大陸南部に位置するウィンダリオン中央王国、凍らない港をいくつも持つ西部沿岸部に位置するヴァリス都市連盟に比べ、シーズ帝国は雪深く、氷に覆われた不毛の土地が占める割合が多い。
当時はそれで「田舎の大国」、「デカいだけの老体」、「寝たきりの大竜」などと揶揄されていたものだが、『大魔導時代』の幕が開いてからはその評価を一変させている。
広大な土地は、寒さなどものともしない魔物領域を多く内包し、当時4つを数えるだけだった迷宮も、今ではシーズ帝国が領土内に持つ数が他国を大きく凌駕している。
さすがに、冒険者ギルドの本部が存在する『世界の中心』アーガス島を領内に持ち、『冒険者王』の常座であったウィンダリオン中央王国には今一歩及ばない。
だがそれでも、歴とした大陸ナンバー2の超大国。
寝たきりと言われた大竜、その眠っていた潜在能力が起きた結果である。
叩き起こしたとされているのは先帝、カール大帝。
現皇帝ヴィルヘルム七世――アルの母親であるユオ・グラン・シーズの実弟、クルス・グラン・シーズが帝位に就いてからの名がそれである。
だがその後継者となったヴィルヘルム七世だけではなく、本当に叩き起こしたのが『大帝』の姉であるユオの伴侶――『冒険者王』、ヒイロ・シィ・以下クッソ長い名家の羅列、つまりアルの父親であることは、この時代に生きる誰もが常識として知っている。
ゆえにその実子であるアルが、若輩二十歳でヴィルヘルム七世として大国の帝位を継いでも誰も文句など言わなかったのだ。
だからこそ重圧はきつかった。
ヴィルヘルム七世と時を同じくして、ウィンダリオン中央王国の王位を異母兄が引き継いだタイミングで、偉大な父は『神座王』などと称して公的な場から一切身を引いた。
それ以前から表だって世界に関わることを控えていた『天空城』勢とともに、歴史の表舞台から姿を消すことを選んだのだ。
とはいえその圧倒的な背景をうっかり忘れる愚か者などは存在せず、自分がこの上なく恵まれた状況で治世を行えてきたことくらいは理解できている。
「先代の名を汚さぬように」という重圧を、自分が勝手に抱え込んでいるというだけだ。
それをわかってはいても、重圧から解放されるわけではないのがたちの悪い所なのだが。
いや自分はまだましな方なのだ、という自覚はある。
先帝は叔父であり、自分より大きかったであろう重圧を共有することもできた。
今なおウィンダリオン中央王国を治める肚違いの兄上など、先王が実の母である『幼女王スフィア』であり、その王配となった『冒険者王』が常座とした王都ウィンダスを継いだのだ。
自分なら胃に穴が開くと思うヴィルヘルム七世である。
実際この兄弟は生涯において、その強靭な肉体にもかかわらず幾度も胃に穴をあけているわけだが。
皇帝としては若すぎる歳でこの重責を継いだとき、叔父が心の底から「解放された喜び」を爆発させていたのを今ではよく理解できる。
そのあと父の世代の連中がつるんで、人知れず世界の危機に対処していたらしいのは羨ましい限りでもあった。
『十三愚人戦役』など、今では伝説だのお伽噺などになっているが、リアルタイム世代の自分たちとしては今なお記憶に生々しい。
よくもまあ今もまだ、さも当たり前のようにこの世界が平和に続いているものだとも思う。
だからこそ、世俗を統べる自分たちがしっかりしなければなあ、という重圧になるのだ。
本当ならば終わっていたはずの世界を、父親たちの世代が命がけで繋いでくれたのだから、と。
せっかく救ってもらった世界が自分たちの代でも、くだらない、醜悪なままであっては父親世代に顔向けできない。
世界を救うことはできなかった自分たちでも、せめて少しでもマシな世界にすることを望み、できることを信じて生きてきたのだ。
いや、現世において『支配者の子供達』と呼ばれる大国の指導者たちはみな、ただ自分の親に褒められたくて、己の全力をぶん回し続けているのが本音と言っても過言ではないのかもしれない。
だがそのやりがいもある重圧から、そろそろ解放される目処もついてきた昨今である。
血が薄まったせいか、知能や適性はともかく大きく力を落とした自分たちの子供世代は、親が元気である間は補佐に徹することを望んだ。
平和で豊かな時代といえど、いやそうであるからこそ「統治者」はわかりやすく「絶対の力」を以って君臨することが必要なのだと言われれば、確かにそうだとも思った。
父や『天空城』勢が表に出ないことを望むのであれば、なおのことであったのだ。
だが己の孫の世代は先祖がえりなのか、未だ年若く未熟であれど、潜在能力においては自分たちを凌駕し得る者たちが現れ始めた。
中でもシーズ皇家、つまりヴィルヘルム七世の息子と、下野した当時のヴァリス都市連盟総統の娘――アンジェリーナ・ヴォルツの孫娘が恋に落ちて生まれた娘。
ヴィルヘルム七世の孫娘である、クリスタ・グラン・シーズ。
その潜在能力を幼少時に見いだされたクリスタは、その当時まだ存命であったスフィア・ラ・ウィンダリオンから『支配者の叡智』をも授けられ、次代の『支配者の子供達』の筆頭として期待されているのだ。
もっとも本人は誰に似たのだか、それに必要以上の重圧を受けることもなく、あっけらかんと修行に勤しんでいる。
息子や、自身、果ては母であるユオですらなく、あれは御父上に似たんだろうなあと内心思っているヴィルヘルム七世ことアルであるが、それを口にしたことは無い。
クリスタは祖父である自分にひどく懐いているが、物心ついて以降は逢うことも叶わぬまま亡くなった伝説の曽祖父、『冒険者王』に心酔しているのは見ていてわかりやすいほどだ。
似ているなどと言えば飛び上がって喜ぶだろうが、調子に乗りかねない。
曽祖父には遠く及ばぬとはいえ、将来的には確実に祖父を凌駕するであろう力をクリスタは持っているのだ。
『支配者の叡智』による制御が利いているとはいえ、暴走の可能性が無いとも言い切れない。
力を持つがゆえに、それに振り回されることが如何に恐ろしいことかをヴィルヘルム七世は知悉している。
自分たちの時は父やその仲間、比べるのもバカバカしくなるほどの力を持った美しい父の下僕たちがいたからよかったが、クリスタたちの世代には自分たちがその役をするしかないのだ。
ちなみにアルの初恋は、父の下僕であった白くて怖くてきれいな化生。
異母兄であるカインの初恋は、同じく父の下僕であった黒くて怖くてきれいな化生であることは、墓場まで持っていく兄弟二人の秘密である。
振られるどころか、まるで相手にもされていなかったのが軽いトラウマなのだが、そんな過去を正室や側室たちに知られるわけにはいかないのだ。
ともかく。
そのような状況で今朝はやくから執務室に詰めているのは、そのクリスタが今日帝都に帰還するからである。
先日妙な信号が『支配者の叡智』から発され、その説明をすることをヴィルヘルム七世自身がクリスタに命じたのだ。
もう間もなく迷宮都市アルク・ヴィラの公共転移陣の営業開始を待って、ここ帝都『八竜の泉』へ転移してくるはずである。
それを皇帝以下一同が待っているというわけだ。
「皇帝陛下。たった今帝都の魔力感知網にクリスタ様の魔力が検出されました。さすがに圧倒的な魔力をお持ちですな、瞬時に……」
補佐官が耳につけている魔法道具からの報告を受け、それをヴィルヘルム七世に伝える。
管制管理意識体が表舞台に姿を見せなくなって以降、『表示枠』は一般では運用不可能になっている。
今それを小規模ながらも運用可能なのは、『冒険者王』の血を引く者たちの膨大な魔力に頼った、ごく一部だけである。
よって『表示枠』を代替する下位互換、通話距離もかなり制限されているとはいえ音声通信を可能とする魔法道具が上流階級には普及しているのが現状。
市井に暮らす人々は、未だ日常的な通信手段を持ち合わせてはいない。
それを使用していた補佐官が、己の言の後半でめったに見ない妙な表情となり、口を噤んだ。
そして見る見るうちに顔色が失われてゆく。
ヴィルヘルム七世や、周りの人間が何があったのかを問う前に、帝都中に警報が響き渡り、何処にいても必ず聞こえる音声が帝都に存在する全ての人の脳内に届けられる。
『現時点より、帝都『八竜の泉』は完全防衛態勢へ移行します』
そのメッセージが、警告音と共に一定間隔で繰り返される。
それと同時に帝都を囲む城壁そのすべてが莫大量の魔力を噴き上げ、立体的な球状の、幾重にも及ぶ防御魔法陣を構築してゆく。
帝都の上空、東西南北の四方に巨大な転移門が開き、そこから遥か南西の彼方、ウィンダリオン中央王国の要所を守護しているはずの『九柱天蓋』の巨影が四つ、帝都上空に現出した。
――ああ、遠い昔に叔母様が見えられた時とまるで同じだなあ、これ。
慌てふためく補佐官をはじめとした若手官僚たちとは違い、それを己の力で感知し得るヴィルヘルム七世は深い深いため息をつく。
たったいま、この世界最大規模の要塞都市、帝都『八竜の泉』の全機能は、ある存在の膝下に完全に屈した。
いや、というよりは本来の主の来訪に、歓喜を上げて可能な限りの安全を優先したのだ。
――朝もはやくから、帝都の全臣民たちは度肝を抜かれておろうなあ……
もはやヴィルヘルム七世にはため息をつくことしかできない。
あるいは平和な今の世で、長生きをしている幾人かは懐かしさに胸を震わせ、とび起きているかもしれないな、と思うとため息と共に笑いが漏れる現皇帝である。
だがこうなれば、なにも心配することはない。
『大魔導時代』などと偉そうに嘯いたところで、人たる身にはその一端すら理解できぬ絶対の時代錯誤遺物が、その全能力を発揮しているのだ。
それがまかり間違っても、心臓麻痺や慌てた結果の怪我などを臣民に負わせることで、主の来訪にケチをつけるような愚を犯すはずもない。
それどころか、サービスで今帝都に住むすべての臣民の躰をベスト・コンディションにしていてもそう不思議ではない。
冗談のようだが、当時『冒険者王』の行幸とはそれだけの一大イベントだったのだ。
人知れぬ裏ではお気楽にあっちこっち行っていたことを、子であるヴィルヘルム七世はよく知ってはいるが、公的にとなればこの程度ですらなかったような記憶も確かにある。
今自律的に全力稼働を始めたモノたちは、すべて『天空城』に連なるモノ。
つまりは孫娘である可愛いクリスタの隣に、あの方がおられるということだ。
尊敬し、懐き、憧れ――ときに恐怖もした、絶対的存在。
アレが来たのだ。
その血を継いだがゆえに、己自身も規格外と言っていい力――魔力を得た。
今なお血の繋がらぬ者に後れを取るなどとは毛ほども思わぬほどに、「この世界の人」という基準であれば、超越者と言ってもけして大袈裟ではない己の力。
それだけの力を持ち、その位置にいるからこそ瞬時に理解できる。
アレがどれだけ、規格外なのかを。
そしてこれほどの規格外と同じ存在など、二人と居ようはずなどないことを。
強大なる千を超える化生を従え、世界を焼き払うことも可能な天空の城を居城とし、それらが束になってもかすり傷一つ負わぬ強者の極北。
気分でこの世界を灰燼と化すことすら冗談ではなく可能な、本当の支配者。
つまり――
『おい弟殿。うちの封印九柱天蓋が四つほど、突然制御下から外れて大質量転移起動して消えたぞ』
今や自分たちだけが、それでも緊急時にのみ使用を是としている『表示枠』が小さく開き、そういえば最近長らく逢っていなかった異母兄の苦りきった顔を映しだしている。
「ああ、兄上、御無沙汰しております。おはようございます。……それらであれば今、うちの上空に現われています。おかげで大騒ぎですよ」
こちらはほぼ無表情、口が横に開いた状態で事実のみを端的に告げる。
『ということは……』
「はい」
二人揃って、天を仰ぐ。
――御父上、再誕するのはやくない?





