第110話 おぞましきは
「脱げ」
酷薄な声が、迷宮の最奥――先刻ヒイロが現れた場所である階層主の間に響く。
相対しているのは地上への帰還途上でヒイロが出くわした一党の頭目らしき美丈夫と、その際にヒイロと共にいた白と金の美少女――クリスタである。
「武装は……もう解除、しま、した」
声を絞り出すようにして、苦しげにクリスタが答える。
その首にはヒイロといた時は確かになかった、紅く明滅する呪いの印のようなものが浮き上がっている。
艶やかな肌を這いずるようにして緩やかに周回する古代文字の如き呪印は、文字通り呪いにしか見えない。
同じような呪印を首に浮かべた、女性――正式任務の救助対象である人気酒場の看板嬢は、クリスタの背後で荒い息をしてしゃがみこんだような体勢。
苦しそうにしながら発した言葉の通り、クリスタの主武装である巨大な片手剣と盾は迷宮の床にすでに転がっている。
つまりクリスタは声の主――左右の手、その五指に同じように紅く浮かぶ呪印を宿した頭目の命令に従ったということだ。
クリスタとて、迷宮の最奥で武装を解除することの危険さがわからぬわけではない。
つい先刻した気もするが、あれは不可抗力。
今のクリスタは、その男の命令に逆らうことができないのだ。
「だからキチンと言い直しただろう? 僕は脱げと言ったんだ」
「は……い」
にやにやと下種な笑みを浮かべながら、よりはっきりと命令を下す一党の頭目。
その命令を聞いた背後に控える一党メンバーである二名と、階層主の間の入り口を押さえている二名が、苦渋に満ちた表情を浮かべる。
だがそれだけで、何らかの行動を起こすことは無い。
冒険者――いや誇り高き歴史ある王国の騎士として看過するべきではない状況に何もできない自分に、ある者は唇を噛み、ある者は拳が白くなるほどに握りしめている。
彼らも頭目に逆らうことはできないらしい。
そして驚くべきことに、拒んで当然である命令にクリスタも従わんとする。
唇を噛み、その美しい顔を羞恥で真っ赤にしながらも、どうしても逆らうことができないのだ。
クリスタ自身も、今自分の身に起こっていることを理解できていない。
胸元に輝く『支配者の叡智』も、この状況の答えを与えてくれることは無い。
遭遇する魔物を鎧袖一触で屠りながら先の一党に追いつき、さっきまで自分とヒイロがいた迷宮最下層、階層主の間で救助対象である看板娘を見つけたまでは当然、理解できている。
だがなぜか階層主の間に溢れるほどに湧出していた魔物、ただし雑魚を片付けて看板娘を助けた瞬間、理解の外のことが起きた。
ごめんなさい、と震える声と絶望の表情をした救助対象に、いきなり首に何かを巻きつけられたのだ。
攻撃であれば弾くはずのH.Pによる防御結界は発生せず、抵抗する余地もなく首に熱を感じた。
手で触れてもただ自分の首があるだけだが、間違いなく首の周りを這いずるような、熱の移動を感じる。
少し痛くて、息苦しい。
そして共に救助対象を救う仲間だと思っていた、一党の頭目に言われたのだ。
「命令する。武装を解除せよ」と。
「何を馬鹿な」との想いは言葉にならず、自分でもまさかと思う「は、い」という声と共に、クリスタは剣と盾をあっさりと手放した。
そして今、重ねて下種な命令を下され、それにも従わんとしている。
抵抗しようとしても声は出ず、自分の躰なのに思うとおりに動かない。
それでも強い意志で抵抗しようとすれば、首がより熱く、苦しくなって意志の集中を霧散させ、結局従わざるを得なくなる。
「く、くくく、はははははははは!!!」
顔だけではなく、見えている肌の部分すべてを羞恥に染めながらも、クリスタは命令に従った。
ドレス・アーマーを構成する鎧部分とドレス部分、その双方を自ら脱ぎ捨てたのだ。
今や全身を紅く染め、羞恥に目に涙を浮かべるクリスタが身に付けているものは、太ももの上あたりまでの薄い絹の肌着と、その下の下着類のみ。
肌の露出としては水着などよりもずっと少ないとはいえ、貴顕の子女にしてみれば全裸とそう変わらぬ恥ずべき姿である。
だが隠すことも、しゃがむことも許されずに無防備に立っていることしか赦されない。
いっそ躰だけではなく、意志の自由も奪われた方が楽なのかもしれない。
躰は命令に従うしかない状況におかれながら、心は、意志はそのままであることが一層絶望感を深くする。
生まれてはじめてこんな窮地に陥ったクリスタは、ただその美しい瞳に涙を浮かべることしかできない。
意志をどう持とうが、躰が従ってくれないのだ。
それを見て、もともとのつくりは秀麗な顔を醜悪に歪め、一党の頭目は下卑た嗤い声を上げる。
「素晴らしい。素晴らしいぞこの『支配の鎖』と『隷属の首輪』は。『支配者の子供達』の最上層、ウィンダリオン中央王国とシーズ帝国双方の血を引く世界最高の「お姫様」が、たかが『旧国』の第二王子に過ぎない僕の言いなりになるとは!」
笑う。嗤う。
その目には狂気にも似た、嗜虐心に満ちた濁った光が明滅している。
ヒイロが危惧した通り、この一連はクリスタを狙い撃ちした罠であったということだ。
その犯人たる頭目は、当然クリスタの正体を知っている。
世界連盟成立以前より三大強国と呼ばれたウィンダリオン中央王国、シーズ帝国、ヴァリス都市連盟を中核とした、『冒険者王ヒイロ』の血を継ぐ者が統治する国家群――『支配者の子供達』とも呼ばれる、いわゆる大国たち。
それに含まれない普通の国家の方が当然多く、それらは『旧国』、もしくはより嘲りを込めた『衛星国家』と呼ばれている。
確かにそれらの国は、もともと強国とはいえぬ立場ではあった。
だが『世界連盟』成立以来、拡大する人の世界において軽んじられ、そう呼ばれることは歴史を持ち、己が血筋に誇りを持つ統治者一族にとっては赦せぬことだったのかもしれない。
なによりも基本的に豊かな暮らしをほぼすべての人が享受できる状況の中、あるいは悪意さえ持たずにその名で呼ばれることこそが屈辱そのものであったのか。
自身を『旧国』の第二王子と称する一党の頭目は、その立場を覆さんがために『支配者の叡智』ですら知り得ぬ禁断の魔法道具を使って、無防備・不用心な『クリスタ・グラン・シーズ』を己が傀儡にする機会を窺っていたのだ。
そしてそれは今、果たされたと言っていいだろう。
目的であったクリスタは今、第二王子とやらの命令に従い、武装解除どころか少ないとはいえ他者の目がある中で全裸にも等しい姿を晒したのだ。
「……ぅ」
そのうえで何の抵抗もできず、羞恥の呻き声を出すことくらいしかできない。
意のままだ。
――これで、僕も、我が祖国も『支配者の子供達』となる!
歪んだ欲望で全身を歓喜に染めている。
うさんくさい相手だとは思ったが、万が一を考えて従ってみてよかったと心の底から思う。
もっともその際に同時に渡された『支配の鎖』と『隷属の首輪』の実験結果が無ければ、「バカバカしい」とばかりに無視していたことは疑いえない。
運が向いてきたと同時に、自分たちを強力に後押ししてくれる味方を得たのだという確信を深くする第二王子である。
そうでなければ、ここまでの好機を自分に投げ与えてくれることなどないだろう、という第二王子の判断を笑うことはできまい。
本質は全く違っていたとしても。
「貴様らは周囲を警戒しておけ。……まあここ程度の迷宮であれば警戒する必要もないのだがな。相手が魔物であれ、冒険者であれ」
そしてその最終的な目的を、さっさと果たさんと舌なめずり。
今の自分のレベルであるならば、この迷宮の魔物や、救援に駆けつけるかもしれない冒険者など問題にならないと確信している。
何となればまだ四人分も、『支配の鎖』と『隷属の首輪』も残っているのだ。
やっかいな相手が来れば、クリスタ同様、隷属させてしまえば済む。
であれば「善は急げ」とでもいうつもりなのだろう。
この第二王子に、表だって『支配者の子供達』と事を構えるつもりも、度胸も、力もありはしない。
クリスタを我が物とし、己が血が『支配者の子供達』に加わり、それを為した己の名が祖国の歴史に燦然と輝くことを夢想している楽天家に過ぎない。
だから利用されるのだ。
当然、そんな自覚などあるはずもないのだが。
「王子……それはあまりに……」
「命令だ」
「っは……い……」
自分たちが仕える王子とはいえ、あまりといえばあまりな行動に、本来正騎士である一党メンバーが否やを唱えんとするが、命令によって黙らされる。
己に向けられる忠誠を信じることもできず、部下である騎士たちにも『支配の鎖』と『隷属の首輪』を使っているのだ。
両手の指の数だけ隷属させられるとして、配下の四人、酒場の看板娘、そしてクリスタで六名分。
よってまだ四名分残っているということになる。
「王子様、アタシがまずは――」
「どいていろ、下賤の女。貴様など本来、僕とは口もきけぬ立場なのだ。『支配の鎖』と『隷属の首輪』の実験対象風情が思い上るな」
真っ青な顔と、震える躰をむりやり起き上がらせながら、「攫われた」とされた酒場の看板娘が健気にもクリスタを庇わんとする。
だが無慈悲な、およそ人の上に立つべき人間が口にするとも思えない言葉で再び地に伏せさせられる。
実験対象にされたということは、そういうことだ。
でありながら、己と同じ地獄に堕ちんとするものを救おうとする。
だがそんな善意は、力の前に踏み躙られるのみだ。
「隠すな。そして僕にまずは跪け」
そして自ら呆然と立つことしかできないクリスタへと距離を詰め、新たな命令を下す。
瞳にたまった涙を溢しながらも、クリスタには逆らう術がない。
この場にいる人の誰も、暴君と化した第二王子に抗う術を持たない。
心に何を思おうが、魔法道具に縛られてどうしようもない。
クリスタが第二王子の足元に跪く。
その姿を嗜虐的な瞳で見下ろしながら、新たな命令を――
「なるほどね、部下にもそれ、使ってるってことか」
下種な命令が、下種な口の端にのせられる直前。
階層主の間の入り口から、少女のようにも聞こえる、少年の声が響く。
「じゃあ寝かせるだけでいいかな。――銀」
「はい」
全く緊張感を覚えさせない声に対して、少年の背後に粛然と佇む誰がどう見ても完璧な美少女メイドが短く答える。
それだけで入り口を押さえていた二人のみならず、第二王子の背後をまもっていた二人の意識も瞬時で刈り取られた。
ヒイロ以外の誰にも、それが生体型侍女式自動人形、銀の魔力糸による攻撃、無力化だとは気付くことなどできはしない。
「き、君は……」
突然の理解不可能な出来事に、とりあえず冒険者の仮面を被りなおして第二王子が問いかける。
まだ誤魔化せると判断しているのだろうか、それとも一瞬の油断を誘って隷属させるつもりなのか。
とにかくそんなことが通用するはずもない相手だということを、まるで理解できていない。
涙に滲んでぼやけたクリスタの視界に、ヒイロの整った顔が映る。
その瞬間、さっきまで生まれてはじめてクリスタの心を占めていた『絶望』は霧散し、自分でもなぜか理解できないほどの安堵感が心を満たす。
もしもこの場に現れたのが尊敬してやまないお爺様だったとしても、はたしてここまで安心するものかどうか、自分でもわからない。
自分がかけられた謎の支配をなんとか伝えようと、逆に焦るかもしれないとも思う。
だがヒイロのとぼけた顔が視界に入った瞬間、クリスタは自分でもどうかと思うほど安心し、どうやってここまでこんな短時間で到達できたのかしら? などと考えてしまっている。
――私との帰還の道中を完全に記憶して、いた?
確かに知に長けた者であれば、それは不可能ではないかもしれない。
しかしヒイロがクリスタとこのアルク・ヴィラ迷宮を遡ったのは途中までだ。
緊急退避処置で地上へ戻った地点からでも、まだ何階層かを残していた。
遭遇する魔物悉くを瞬殺できるとしても、それこそ迷宮と呼ばれるほどに複雑な下層へのルートを、最短で踏破するのは本来不可能。
戦闘力の話ではないのだ。
だがヒイロにしてみればどうということもない。
『やり込んだゲームとしての知識』としてならば、要らんほど詰まっているのが今のヒイロの記憶野である。
よってそう高難易度というほどでもないアルク・ヴィラ迷宮の地図は、完全に頭に入っている。
迷宮とはいえど、迷え、という方が難しいだろう。
本人的には、俺こんなに記憶力よかったっけ? と首を傾げるレベルではあるのだが。
そのくせ肝心なことは何一つ覚えていないのが使えない記憶野である。
「えげつない魔法道具だなあ……しかも僕の記憶にはないと来てる。最もおぞましきは人、ってことか」
クリスタの期待に応えてというわけではないのだろうが、敵と判断した第二王子を脅威と見做すことなく、ヒイロがひとりごちる。
そして人が恐ろしいのは、そのまったく逆方向。
気高さや優しさも内包しているという点なのかもしれないな、とヒイロは思う。
今逆らえぬと知りつつも、自分を犠牲にしようとした攫われた女性や、王子の愚行を止めようとした騎士たちも同じ人なのだ。
おぞましきと呼ぶにふさわしい人がいたからとて、それが人という種、群体の全てではない。
群体どころか個体の内部にさえ、おぞましき醜悪さと気高き純粋さ双方を抱えていたりもする。
まあなかには醜悪なだけの人もいるのだろうが。
だからこそ、その意志を縛る魔法道具は、人にとって忌むべきものだろう。
大事なのは言動だ、とヒイロは思う。
内心でどう思っていようが、肚の底に醜悪な欲望が渦巻いていようが、それはいい。
それが人だ。
そしてそれを律して、綺麗ごとであろうがお題目であろうが、己が正しいと思うことを口にし、行動に移すのもまた人なのだ。
その選択、自分らしく在ろうとする意志を強制的に縛る魔法道具の存在は看過できない。
「どこで見つけました? もしくは誰にもらったんです?」
だから問う。
「言うと思いますか?」
さすがに誤魔化しきれないとは察しはしたのだろうが、格下とみて余裕――丁寧な言葉を崩さない第二王子である。
こうなれば見た目は麗しいとしか言えないヒイロも、隷属させる心づもりなのだろう。
「聞いただけで、素直には言わないよね」
「それに手遅れですよ。一度『隷属の首輪』をかけられれば、『支配の鎖』を身に宿したものから逃れる術はないのです」
肩を竦めて言うヒイロに、第二王子は言わなくていいことを言った。
わかりやすい悪役というものは、優位に立っていると錯覚すれば訊いてもいないことをぺらぺらとしゃべるのがお約束というものらしい。
いつものヒイロであれば、そういう流れには喜んだかもしれない。
だが今はそんな場合ではない。
「ふーん」
声こそ気が抜けているが、そこには明確な殺気が宿る。
本当に逃れる術がないというのであれば、『支配の鎖』を身に宿したものを消せばいいと判断した。
その瞬間、ヒイロの躰が魔力を噴き上げる。
第二王子はたった今、自分で自分の死刑執行書にサインをしたのだ。





