第85話 天使の梯子
天使の梯子、あるいは階段。
俗称では薄明光線や光芒。
ヤコブの梯子や階段とも呼ばれる、太陽と雲と空気が生み出す美しい自然現象。
雲の切れ間、あるいは端から光が毀れ、放射線状に地上へと降り注ぎ、時には天上へ立ち昇るようにも見える。
ヤコブが夢に見たという、天界と地上を結び天使が行き来するという光の階段。
そう記された旧約聖書創世記、二十八章第十二節に由来する名称。
レンブラントが好んで描いたことからレンブラント光線とも呼ばれ、宮沢賢治はこの現象を光のパイプオルガンと「告別」という詩の結びで表現している。
人に己以上の存在――神を感じさせるに足る非日常的な「神々しさ」の具現。
それが今、ラ・ナ大陸のあらゆる場所で発生している。
自然に発生するそれは太陽の角度が低くなる朝夕に多いが、今は太陽がほぼ垂直の位置にある真昼の場所でも関係なく発生している。
それはこの天使の梯子が、自然に発生したものではないからに他ならない。
雲を隔てて天上へ向かっては白光が、地上へ向かっては黄昏色の光がそれを見る者の心を奪うほどの規模、美しさでラ・ナ大陸全域を包んでいる。
これはこの具現化したT.O.T世界における最初の『世界変革事象』
『天使襲来』の嚆矢である。
「あれ、もう始まっちゃうのか」
――まあ演出としては陽の出ている間しかできないか。ラ・ナ大陸全域が朝から夕刻となっているこの時間帯に始めるしかないのはしょうがないのかな。
意外を感じながらも、慌てることなく薄明光線を眩しそうに仰ぎ見ながらヒイロがひとりごちる。
『一周年記念式典』の主会場であるアーガス島、その冒険者ギルド本部である元九柱天蓋の最上部に設置された檀上。
ヒイロが式典の開幕を宣言した直後である。
式典の終了と同時に『世界連盟(仮称)』から、(仮称)を取り除く宣言がなされることが予定されており、ヒイロにしてみればそれが引き金になるのかな? となんとなく思っていたのだ。
『一周年記念式典』の開催と同時に始まるとは想定していなかったが、とはいえ準備はすべて完了している。
よって慌てる必要はどこにもない。
薄明光線の全域発生が感知されると同時に管制管理意識体が制御する表示枠がラ・ナ大陸のあらゆる人の住む拠点に映し出され、すでに何度も行った「避難訓練」通りの指示を発する。
これあるを知らされている市井に暮らす人々は、さすがに本番である故の緊張をその表情に浮かべながらも、すでに整然と避難行動を開始している。
「避難訓練」ですらふざけた行動を取った者に対して取られた厳格な処置を知るがゆえに、日々豊かになる暮らしを享受している人々は真剣に表示枠からなされる指示に従う。
それは今ヒイロのいるこの場所においても変わらない。
さすがに声一つ上げずというわけにはいかずかなりの騒がしさに包まれているとはいえ、それは恐慌とはほど遠い。
大きな混乱が無いことを確認し、ヒイロは事前の打ち合わせ通りに転移魔法陣を使用し、対天使襲来総本部と定められている己が居城、天空城へと跳ぶ。
『我が主。現在のところ想定範囲内で推移しております。誤差は全域において5分以内。最遅想定の時間内には全ての非戦闘員の避難が完了する予定です』
ヒイロが転移に合わせて黒の王の姿となり、指揮所に現れると同時に管制管理意識体が表示枠経由で状況を報告する。
「不測の事態に備え、「静止する世界」は我が主の指示を頂ければ即時発動可能です」
その声に続き、すでに指揮所に控えていた白姫が告げる。
黒の王はその声を頷きつつ聞き、眼前に展開される無数の表示枠を四つの眼窩に浮かぶ三つのゲヘナの火で見つめている。
左右には戦いに臨む際の常通り、左に鳳凰、右に真祖が転移を済ませて付き従う。
黒の王が見据える表示枠には各地に発生している「天使の梯子」はすべて捕捉され、それぞれに対応している天空城所属の僕たちの名が表示されている。
これまでの『世界再起動』による周回で捕捉している魔物を憑代とした天使の大量発生個所には、ウィンダリオン中央王国、シーズ帝国、ヴァリス都市連盟という三大強国の精鋭、冒険者ギルド選出による手練れの冒険者たちがすでに布陣を完了している。
開催されるはずであった「第二回序列戦」に出場予定であった最精鋭たちも、転移陣によってそれぞれの担当区域に移動を終えているとの表示がされている。
「天使襲来」イベントにおけるボス級の上位天使であればともかく、地上魔物領域の魔物を憑代として顕現する雑魚天使は「連鎖逸失」からすでに解放されている軍人、冒険者たちにとっては文字通り雑魚でしかない。
すでに地上魔物領域の魔物は、「天使襲来」に対する戦闘員として選出されている者たちにとって敵と見做すレベルではないのだ。
それを憑代にする以上、天使であろうがなんであろうがレベルの軛から逃れることはできない。
――抜かりはない、な。
「――第一のラッパまでの時間は?」
『前周までと同じであればあと2分32秒後です』
黒の王の問いに管制管理意識体が即答する。
それに対する準備もすべて完了しており、何の不備もないということだ。
「――でははじめようか」
黒の王が風もないのにその漆黒の外套を翻し、一歩前に出ながら声を発する。
「我ら天空城の力をもって、この世界を襲う敵を掃滅する」
ヒイロとは違う、深く落ち着いた静かな声で黒の王が告げる。
だがその声の落ち着きとは反して、纏う空気は周りを震わせるほどの威に満ちている。
主の言に対して、すでにこの場にいる相国『万魔の遣い手』エレア・クセノファネス、近衛軍統括『執事長』セヴァスチャン・C・ドルネーゼ両名が無言で膝をつき首をたれる。
黒の王の左右に静かに立つ左府『鳳凰』エヴァンジェリン・フェネクス、右府『真祖』ベアトリクス・カミラ・ミラ・ヘクセンドールはいつでも戦闘に入れる姿にすでに変じている。
ここ最近はそっちがデフォルトになりつつある「女の子モード」とは違い、黒の王の僕として敵を蹂躙し、屠ることを最上の喜びとする本性を隠すことなく全開にしている。
黒の王の肩には千の獣を統べる黒がいつものように小動物モードのまま乗っているが、その表情とて獰猛な獣のものだ。
世界を滅ぼそうが護ろうが、その本質は敵を叩いて潰すことを至上とする戦闘集団。
それが『天空城勢』なのだ。
それは中身がおっさんであり、ここしばらくは迷宮での分身体の育成に心血を注いでいた黒の王とて変わらない。
いや黒の王こそがこのような大規模戦闘で敵を叩き伏せることを至上の喜びとするからこそ、Theatrum Orbis Terrarum――世界の舞台というゲームに心酔していたのだ。
それを仮想現実どころではない、偽りなき現実としてこれから体験できるとなれば昂ぶりもする。
長らく僕として黒の王に付き従ってきた序列上位者たちですら初めて目にするような己が主の昂揚。
それは吹き上がる膨大な魔力だけでも誰にでも伝わってくる。
その高揚にあてられるようにして僕たちはみな、獰猛な本性を主に同調させている。
主の喜びは己が喜び、主の昂揚は己が昂揚。
それこそが僕たる在り方なのだ。
そしてそれはこの場にいる僕たちに留まらぬ。
現在ラ・ナ大陸全域に配置され、これから始まる『天使襲来』に備える千を超える僕たち一体一体が己が主の意に応えんとその全力を振るわんとしている。
敵に向かって牙を剥いている獣そのものだ。
遠く離れた地で接敵を待つ全竜のカイン、白面金毛九尾狐の凜、世界蛇のシャ・ネルもそれは同じ。
そして根は同族たる天使を屠らんとする堕天使長のルシェル・ネブカドネツァルもまた、常の茫洋とした雰囲気を微塵も感じさせない研ぎ澄まされた殺気を纏って、敵として顕現する己自身を待ち構えている。
ルシェルにとってみれば、己が傅く主に仇為す己自身ほど赦せぬものもないのだ。
人の代表として天空城の指揮所へ参集している者たちはその光景を目の前にしてみな声もない。
それはヒイロに近しい冒険者ギルド長ポルッカ、婚約者(仮)及び側室候補である三大美姫と呼ばれる幼女王スフィア、第一皇女ユオ、総統令嬢アンジェリーナも例外ではない。
それぞれそれなりの付き合いで慣れたつもりでも、その本性をむき出しにした人外たちのすぐそばにあってはやむを得ないことと言ってもいいだろう。
これから人を滅ぼさんとして顕現する天使などよりも、人を護らんとして昂揚する目の前の天空城勢の方がよほど恐ろしいのだということを本能が告げてくるのだ。
それでも熱に浮かされたような陶然が目に浮かぶことを止められぬ三人の美姫である。
想い人の本体としての黒の王に対して、恐怖と同量以上の想いをもてているというのであれば、人の中にあっては大したものと言ってもいいだろう。
黒の王の目の前に浮かぶ表示枠群の中、ウィンダリオン中央王国王都ウィンダス上空に発生している薄明光線を捉えた画像に、ラッパを吹かんとする七体の天使の巨大なシルエットが浮かぶ。
「天使襲来」が始まる。





