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背後霊のうわ言

作者: 空月 碧

「クジラ」

耳元で声がする。僕は声の正体が見えないが、いつも後ろから低い声が囁く。

「クジラ」

「クジラがどうしたって?」

僕は時折話しかける。返事はない。しばらく経ってから、またボソリと「クジラ」と彼は呟くのだ。

幼い時から単語を聞き続けたせいか、小学生の時の夢は潜水艦乗りだった。深海を探検するクジラだ。ゆっくりと泳ぎながら生物を探す真っ暗で孤独な旅だが、深海にしかいないクジラがいることを信じて疑わなかった僕は、深海クジラを探し出すことを作文にて宣言した。

僕の夢を、大人たちは温かく祝福した。夢は大きいほうがいい、なんて言ったりした。

「クジラが好きなのか?」

先生と同じ質問を父親がした。母は横で見守っている。僕は確固たる決意で頷いた。

「クジラ」

彼は頷いて下を向いている僕に囁いた。


僕の祖母は介護施設に入っていた。家で介護する事が困難なほど動けなくなっていたこともあったが、彼女の発言が周りを不安にさせる事の方が大きかった。

僕が母とお見舞いに行ったのは一度きりだ。母は義理の母の顔を見て一礼すると、そそくさとスタッフルームへ行ってしまった。あまり会ったことのない祖母と二人きりで、僕は何と話したらいいのかわからなかった。椅子に座ってモジモジと足を組む僕に、「クジラ」と低い声がする。

「立派な守護霊だね」

祖母の声に顔をあげた。痴呆が進んでいると聞いていた僕は、まっすぐと僕を見る淀んだ瞳に困惑した。

「ずっと遠い先祖様だ。お前さんが生まれる前から見守っているよ」

「おばあちゃん、幽霊が見えるの?」

祖母はにっこり笑った。襟にヨダレのあとがついているのが見えた。

「おばあちゃん、この人クジラって言ってるんだ」

「立派な人だから、大事にしなさい」

今ひとつピンと来ない返しに、僕は体を丸めた。

母が部屋に入ってくる。祖母の顔を見ないようにして、僕の手を取った。引っ張られるように立ち上がる。

「もうご飯の時間かい?」

「1時間前に食べてますよ」

ぶっきらぼうに母が答える。僕は出ていく前にもう一度祖母の顔を見た。祖母は宙を見て、「そう焦りなさんな」と言っていた。バタンとドアがしまった。


クジラが好きだと言ってから、僕の部屋に自然とクジラが集まってきた。カーテン、ぬいぐるみ、ウォールステッカー。友人は必ずクジラに関するものを贈ってくれた。たとえ同じものを貰ったとしても、僕は大事に部屋に飾る。

クジラが増えていくにつれて、後ろの声はどことなく穏やかになっていった。

僕には彼の声しか聴こえない。他のものの姿も声もわからない。僕に囁き続ける彼のために、僕が出来ることはクジラを探しては飾るという行為だけだ。

小学生最後の夏休みの自由研究は、クジラをテーマにした。僕を笑う級友が増えてきていたが、全く気にせず図書館に通った。

僕はクジラの生体についてノートに書き写していった。

「マッコウクジラはハクジラ類といい、魚を食べる……」

「クジラ」

「シロナガスクジラはナガスクジラ属で、群れでオキアミを囲んで食べる……」

「クジラ」

僕は何度もスケッチをした。筒のような形のマッコウクジラ、半円のようなシロナガスクジラ。僕は絵が下手だったが、クジラだけは上手に描けるようになった。

「水族館じゃクジラは見れないね。ハクジラ類のイルカが精一杯だ」

「クジラ」

「そうだよなぁ。クジラウォッチングなんて僕が行けるわけがないし……」

部屋で図書館から貰ってきたチラシを見ていると、博物館で開催される恐竜博覧会の招待券があった。

「クジラ」

僕は振り向いた。誰も立っていない。でも僕は頷いた。翌日、僕は博物館へ行くことにした。

博物館にはクジラの剥製はなかったが、骨格標本があった。僕はぼうっとそれをただただ眺めていた。ナガスクジラ類だったから歯はなかったが、顎にあたる曲線に見惚れた。

クリーム色にしてはくすみ、ところどころ小さな穴の空いたニタリクジラの骨は、どんな展示物よりも綺麗だった。

「クジラ」

僕はクジラの骨が欲しいと思った。きっと部屋に置けば半分を埋めてしまうが、僕はどうしてもクジラの骨があれば僕の守護霊も喜ぶと確信した。

その日は許可をもらって写真を撮り、ノートに貼って骨の名称を書き綴った。


僕の自由研究は優秀賞を貰った。

ノート2冊の、クジラに関するまとめと考えだ。本当は骨格標本の模型も作りたかったが、何しろ時間が足りないのと幼すぎた。

僕は平凡な体育館で、表彰状を受け取った。心ばかりの拍手の中で礼をする。彼も一緒に拍手を受けていた。校長先生は、後日僕の研究ノートが展覧会に出展されると言った。僅かな人数しか選ばれないという言葉を、校長先生は自分のことのように自慢げに言っていた。

展示会の初日、僕は両親と上品な服を着せられて展示会へと向かった。僕が後部座席で大人しく座っている時も、彼は忘れず「クジラ」と言っていた。

「そうだよ。あなたがいたおかげで、僕はクジラに興味が湧いてどんどんクジラへ引き寄せられているんだ。あなたの探すものが将来得られるといいね」

僕は心の中で呟いた。

会場は公共施設の小さな会議室だった。散歩道に色とりどりの花が植えられた、丁寧な施設だった。

僕のノートは部屋の一番隅に置かれていた。僕の隣には風力発電の調査文と、精巧に作られたボトルシップがあり、ノートは肩身が狭そうだった。

少人数だが人の出入りがある。同じように選ばれた家族や、お年寄りの姿もある。僕はやるせなくなって、両親から離れて外へ出た。

「クジラ」

「そう、クジラなんだ。でも僕は賞よりもクジラの骨が欲しい」

「クジラの骨?」

女の子の声がした。驚いて体が固まってから、ゆっくりと振り返る。僕と同じ背丈の女の子が、後ろに立っていた。

「あなたそんなものが欲しいの?」

「……うん。とても綺麗だから」

「わかった。クジラのノート書いた人ね」

得意そうな顔に、僕は俯く。気まずい沈黙を、彼女は思案して砕いた。

「あそこに座らない?新品の靴で足が痛いの」

「クジラ」

僕はちらりと女の子を見たあと、花の見えるベンチに座った。会場の中が見える場所で、僕のノートが手に取られているのが見えた。

「私もね、一緒に置かれてるの」

「風力発電?」

「ううん、星よ。私、空の定点観測と北半球から見える星図を書いたの」

僕はぽかんと彼女を見た。初めて聞く単語ばかりで、彼女の展示しているものが想像出来なかったからだ。

「後で見てもいいわ。それより、どうしてクジラの骨が欲しいの?」

先程の質問を僕に投げかける。僕は言い淀んだ。

「今1番、綺麗で欲しいと思うから」

「わぁ、シリウスなのね」

僕は首をかしげた。彼女はへぇ、と嬉しそうに足をぶらぶらさせた。僕は恐る恐る聞く。

「君は、宇宙に行きたいの?」

「えっまさか。私はここから星を眺めるのが好きなだけで、行きたいなんてちっとも思わないわ」

はっきり切り捨てられて驚いた。けれど、その通りだとも思った。

「あなたは海に潜りたいの?」

「ちょっと前はね。今は、クジラの骨を見ている方が幸せな気がする」

「おんなじだ」

彼女は笑う。僕もぎこちなく笑った。

僕はクジラの骨をどうしても触りたかった。もうクジラの内部にいたことを忘れ、乾燥した滑らかなカルシウムを撫でてみたかった。きっと多大な価値がある。海に打ち上げられて肉を食べられた骨でも、研究のために解剖された骨でも、なんでもよかった。

彼がクジラをどう望んでいるのかわからない以上、僕は僕の望むクジラの愛し方を追求していくしかない。

「あなたの研究、よかったわ。また見せてね」

彼女はそう言って立ち去った。もう僕のノートに触る者はいなかったが、どうでもいい。

どうやって骨を手に入れるか。それが問題だった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 不思議ワールド!! (でもそれだけではーー) 「クジラ」 と後ろから少年に囁く「彼」 見えない存在。 「クジラ」という声の彼を拠り所にする少年。 その途方もない純粋さに、でもこれはもし…
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