もう一人のヤート
長ったらしい、距離と時間の計算が出てきます。読み飛ばしてもらっても構いません。計算が間違ってたらすいません。
ハカサリは、被っていたフードを跳ね上げるように脱ぎ、襟のベルトを外して、白い息を吐いた。『くそっ!』と心の中で歯噛みした。
魔法使いと金剛など必要なかった。最初から村長にはそう進言した。行軍速度が落ちることと、森林地帯での戦闘に特化したヤート族と平地での運用が主体となる金剛を同時運用するのは下策であると判断したためだ。
しかし、村側の命令は絶対である。
今も軍監として三名の村人が従軍している。
軍監とは軍の規律を守るための憲兵のような働きと個人の戦働きを記録する役目だ。
その軍監が、金剛を操作する魔法使いにベッタリと付いている。
戦闘経験のない魔法使いと軍監など、お笑い草だ。だが、と思う。
戦となればヤート族に全てを任せていた村人が、軍監として来たことは異例だ。そして魔法使いを運用することは、更に異例であった。
恐らく、村の上、領主からの要請なのだろう。
逆らえば、集落は壊滅する。
戦に関して逆らえば、その利用価値を放棄したと判断され、領内のヤート族から徹底的に排除されることがわかっている。だから、頭であるハカサリは逆らうことが出来なかった。ただ従順に諾と頷くしかなかったのだ。
進軍速度は遅い。
金剛の歩行速度に合わせているからだ。
魔法使いはヤート族が掲げる輿に乗っている。金剛を歩かせ続けるだけでも消耗するからだ。
また、金剛を五体も操作しているせいで、他の行動をとることが難しいとの理由もある。
それらのことは、我慢できる。
領主が必要としているのは、コーデル伯爵領を本気で攻めているというアピールなのだろうと、ハカサリは察する。
誰に対してのアピールなのかは不明だが、そうでなくては、魔法使いの運用についての説明がつかない。
しかし、堪え難いのは、野営地だ。
魔法使いが野営するように求めてきた。求めてきたというのは、そのような言い方をしただけであって、実質は命令である。
ハカサリは、その命令に対して、もう野営をするのか?と不満に思いつつも、実直にすぐさま行動を起こした。しかし、そこで待ったが掛かる。
軍監も声を揃える。
「街道で、野営するのですか?」
思わずハカサリの声が大きくなる。
その声を聞いた他のヤート族にも動揺が走る。
「そうだ。クズネル様は平地での野営を所望されておられる。」
クズネルは、直接ヤート族とは会話しない。
ヤート族の掲げる輿に乗ることさえ嫌がった。行軍距離から、仕方なくヤート族の輿に乗っているのだ。
村人もクズネルも黒髪、黒目で外見上はヤート族と違いはない。しかし、族語が違う。村人はナカクリ族で、クズネルはカンデ族だ。共通言語は王国の公用語であるナメリ語である。
金剛のせいで、平地での野営を要求しているのであろうことは察しが付くが、ヤート族は、納得しない。
ヤート族は森林地帯での戦闘に特化している。高い木々に囲まれた街道を進軍するだけでも、何処からか狙われているかもしれないという不安で、いつも以上に警戒している。
平地で休むなど、ヤート族にとっては、処刑台の上で寝ろと言われていることと同義であった。
ハカサリは、追跡者の可能性を進言した。
その可能性がある限り、野営地には森の中を、と進言した。
そして、それは起こった。
追跡者の襲撃だ。
拙い襲撃であった。
高い木の上からではなく、低木の茂みから子供が一人でハカサリ達を襲ったのだ。
当然、その襲撃は、集団の中枢に届くことはなく、一人も傷付くこともなく取り押さえられた。
その事実が魔法使いの声を更に大きくさせた。
先のヤート族は殲滅したのではないのか?と、軍監はその声に被せるようにハカサリを糾弾した。
もう、頷くしかなかった。
「わかりました。斥候から、この先に平地があるとの報告を受けております。そこで、野営することにいたしましょう。」
そして、野営準備をしながら、ハカサリは心の中で歯噛みしたのだ。
『せめて、あのガキが、高い木から襲撃してくれれば』
そうすれば、低所である平地での野営の危険を説くことが出来た。
野営地に到着したハカサリの動きは早かった。
ハカサリは、頭の補佐である左手、コウタネに結界糸を張らせ、右手であるクルタに襲撃者の拷問を命じた。
尋問が目的ではない。平地で野営しなければならなくなった腹いせと人質として最大限に働かせるためだ。
結界糸は敵の侵入を知るための糸だ。糸その物に何かの力がある物ではない。弱い糸で、すぐに切れる。しかし、切れれば、敵の侵入が知れる。
それを見ていたクズネルが、何をしているのかと軍監をとおして、ハカサリに尋ねる。
結界を張っているのだとわかると、ハカサリに十数枚の呪符が軍監をつうじて渡された。
結界符であった。役割は結界糸と変わりはない。しかし、魔法使いは余程ヤート族のことを信用していないのであろう。
ヤート族からすれば、何故このような目立つ物を使用するのか逆に理解できなかった。
しかし、この結界符は地下五メートルから高さ二十メートルにまで効力を発揮すると教えられて、それならば、と、ヤート族は木の高所に結界符を張り巡らした。地中五メートルから地上二十メートルの範囲であればどこに貼っても効力は変わらないからだ。
街道から森側に抉れたようにある平地。森側に近い位置で金剛五体が外側に向けて、円陣を組む。その中央で魔法使いが守られる。
軍監達は、その円陣に入り、魔法使いの世話をしているようだ。
ハカサリは誰に向けるでもなく左手を招くように振る。
ハカサリの左にコウタネが現れる。左手たる所以である。
「なるべく広範囲に斥候を飛ばせ。人数は三人。テグサが燃え尽きるまでに交代させろ、四交代だ。」
コウタネが頷き、すぐに走る。
テグサとは、この地方に群生する低木で、枝を割いて火を点けると、小さな炎を灯し、ゆっくりと燃えていく植物だ。
ヤート族は時間経過を計るために、このテグサを八センチ程の長さで使う。
続けてハカサリは右手を振った。
やはり、右手と称されるクルタが現れる。
「高見だ。人数は三人。テグサが燃え尽きるまでに交代させろ、四交代だ。」
左手と同じような指示を出すが、こちらは高い位置からの見張りを指示する。
常時、六人が警戒する態勢だ。
「森の中なら二人で済むものを…。」
ハカサリの呟きは、軍監にも魔法使いにも聞こえなかった。
姉の足取りは歩くというものではなかった。
まったくもって、疑いようもなく、走っている。
明かりの無い、真っ暗な森の中をだ。
何だこの女は、赤外線か何かが見えているのかと。
逡巡することなく木々を避け、盛り上がった木の根を飛んで避けている。
足にはカンジキのような物、アケシリという物を履いている。形はスノーシューの様だが、爪先と踵で別々に装着する。足裏の動きを、できる限り阻害しないようになっているのだが、やはり走りにくいことに変わりはない。こんな物を履いて、雪上を、何事もなく走る姉は、どんな人間なのかと。
確かに微かな月光はある。その月光を受けて、浅く積もった雪が、辺りを弱々しく照らす。しかし、森の中だ。星明りも月光も差し込む光は、ほとんど無い。俺にとっては真っ暗闇だ。
そして驚くべきは、その姉にトガリも付いて行けるという事実だ。
トネリの背中には蛍の様に光を発する虫、コウセル虫が留められている。
トガリはその虫を目標に追い縋っているのだが、それでも驚異的な目の良さと反射神経だ。コウセル虫のお陰でトネリの軌道はわかるものの、そこに何があって、どうなっているのかは、わからない。
しかし、トガリの経験値か、体が自然と反応し、見えない木の存在を感じ、見えない地面の隆起を感じるのだ。
不思議な感覚だった。先の見えないジェットコースターに乗せられているような受動的な感覚と体を思うままに動かしている能動的な感覚が、同時に、混在一体となっている。
それでも姉の要求は厳しい。
「トガリ。音を立て過ぎだ。もっと静かに走りな。」
無理です。姉さん。このスピードで走り続けて既に三十分以上経過しているはずです。音を殺しながら走るどころか、話すことのできるあなたは、化け物だと思います。
ひたすら走る。
俺の集落が襲われたのは、今日の早朝。姉の集落はそれよりも前、夜射ちに行った帰りだから、深夜だろう。
脳組織の壊死はかなり早い。
トガリが生き返るとき、脳の壊死は始まっていなかった。
外気が、かなり低温であることと、右手切断面の凝固具合のことを考えると、脳の壊死はギリギリ始まっていなかったと考えるべきだろう。
トガリが復活したとき、空には青空が広がっていたが、まだオレンジ色を残していた。
此処は北半球か南半球か不明だから、方位はわからないが、季節は春を感じるので、夜明けは六時から六時半ぐらいか、トガリが死んだのは、復活する恐らく四分から五分前ぐらいだろう。
つまり、姉は六時から六時四十分頃にトガリの集落に到着したことになる。
襲撃者達の人数は、姉の記憶によると十人から十五人、ヤート族の集落では、成人男性は約二十人までに抑えるように管理されているから、人数は最大人数の十五人とみるべきだろう。襲撃そのものにかかっていた時間は、これはトガリの記憶から、およそ1時間で集落が殲滅されている。略奪行為は襲撃と同時進行であったから、スムーズに進行したはずだ。トガリが復活したときは、誰もいなかったから、トガリが死んでから十分以内に終了したことになる。
ヤート族の夜射ちに行く時間は、村からの達しで、午後十時から午前二時までと決められているから、姉の集落が襲撃された時間を二時とするなら襲撃完了に約一時間十分で午前三時十分前後、しかし、襲撃から姉は子供二人と義母を救出し、逃がしている。
襲撃から十分以内でないと三人を救出することなど出来なかっただろうから、それならば襲撃途中で逃げたことになる。となれば、トガリの集落に出発したのは、およそだが、午前二時十分以内だろう。
姉の走る速度は、山野でありながら、かなり速い。たぶん一キロメートルを十分程度で走破しているだろう。
単独ならば、もっと速いだろうが、九分を切ることはないだろう。
午前二時十分から午前六時四十分は二七十分、その間、姉が全力で走って来たと仮定する、姉の集落からトガリの集落まで道は整備されていないから、一キロメートルを九分で走り続けたとするならば、三十キロメートルの距離がある。
ちょっと、ぞっとする数字だ、雪上の山野でハーフマラソン以上の距離を走るとは、姉、恐るべし。整備された街道なら一キロメートルを二分台で走るんじゃないか?化け物だな。フルマラソンなら一時間三十分かからないかもしれない。
襲撃者達は、トガリの集落でも、姉の集落でも管理している其々の村へと向かっている。
トガリの記憶では村までの距離は、トガリが全力で街道を走って半日かかる距離だ。
半日と言っても、十二時間、丸々かかる訳じゃないだろう。恐らくは七時間から八時間といったところか。おいおいマジか?トガリ君。君も大概だな。七時間以上走りっぱなしって、どうよ?
トガリが、村に向かうときは街道を使うから、この身体能力なら、一キロメートル三分も切るかもしれない。村まで七時間かかると仮定して、村までの距離は、百四十キロメートルになる。
また、ふざけた数字が出やがったな。
ヤート族の別称は‘化け物’か?
姉の集落から管理しているドラネ村も同様の距離と仮定して、単純に三平方の定理を使えば、トガリの集落からドラネ村まで約百四十三キロメートルだ。毎分九キロメートルで走り続けて約二一時間三十分かかる。
姉の集落を襲撃した奴らも金剛を五体従えていた。ヤート族は金剛を扱えない。金剛を扱う魔法使いがいるはず。ということは、ヤート族以外にヒエラルキーの高い民族が同行している。金剛の運搬にも時間がかかる。馬車に乗せて運べば、早いだろうが、三トン近い重さのある金剛を、運ぶことの出来る小さな馬車はない。金剛の運搬は金剛自身に歩かせるしかない。関節は脆弱だろうから、走らせることはせず、歩かせているだろう。時速にして三キロメートルぐらいか。細い街道に感謝だな。
村までの距離が百四十キロメートルだから四十六時間以上かかる計算だ。
集落を出るときに見た月の位置から、集落を出たのは午後六時頃。十二時間も無駄にした。十二時間あれば、奴らは三十六キロメートル地点にいるはず。時間が時間だ、恐らく、今は野営地点に留まっているはず。
あれ?結構現実味のある数字じゃないか。
三十キロメートルと三十六キロメートルの三平方の定理を使えば、直線距離で約四十七キロメートル。
四十七キロメートルを毎分九キロメートルで走破すれば、七時間後には追い付く。
いやいや、また、とんでもない数字が出やがったよ。マジか?七時間もこの速度で走りっぱなし?ウトーン。
いや、七時間走れば、追い付けるということに喜ぶべきだ。その証拠にトガリの体には力が漲っている。
間に合うのだ。
そのことに歓喜すべきだ。
トガリは素直にそのことに喜んでいる。血が足りていないにも拘らず、トガリの足は、軽やかに森を駆け抜けた。