俺って誰?
太い梁が目に入り、自分が眠っていたのだと頭の奥で認識する。
薪の爆ぜる音と硬い床の感触が慣れない感覚となって、違和感になる。
辺りを見回すと姉の姿はなく、暗い家屋内には囲炉裏の火と隙間風だけがあった。
「記憶を整理しよう…」
声に出して自分は正常だと思い込む。
まずは自分のこと。
四十五歳の妻帯者、娘が一人、母親は三年間の介護の末に去年亡くなった。父は同居で存命のはず、俺は同僚数人と沖縄に向かう予定だった…予定だった?
いや、搭乗はした。
飛行機の中から見た風景を覚えている。
でも、その後の記憶がない。
では、もう一つの記憶はどうかと思考を巡らせる。
現在一〇歳、父は先ほど死んでいることを確認した。母は五年前に病気で死んだ。症状からインフルエンザか風邪だと思う。十九歳の姉が一人。二か月ほど前に隣のドラネ村へと嫁に行った。相手の名前はオンザ。去年妻を亡くした二十八歳で、後妻として姉を迎えた。
混在しているが、どちらの記憶もすんなりと受け入れることができる。何故かはわからないが四十五歳の記憶であっても一〇歳の記憶であっても、どちらも俺自身の記憶だと認識できる。
違和感があるのは知識だ。
自分が体験した事柄、そういったことは違和感なく受け入れることができるのに対し、身に付けた知識に対しては違和感がある。
四十五歳の俺は日本人だ。違和感はない。
一〇歳の俺はヤート族だ。これも違和感はない。
ヤート族は、日本人と同じ黒髪、黒目のモンゴロイド寄りの顔立ちをしている。
違和感があるのはヤート族が被差別民でディラン・フォン・コーデル伯爵によって管理されているという知識だ。
ヤート族は世界中に散在している。しかし、どのヤート族も被差別民であり、何らかの管理を受けている。
姉のトネリは、コーデル伯爵領のドラネ村に管理されている。俺は同じコーデル伯爵領のコード村に管理されている。
俺達ヤート族の所有権はコーデル伯爵の更に上、王国に帰属する。王国はヤート族の使用を各貴族に認めるが、管理監督を使用者である貴族に委任する。
実質的な所有者は貴族ということになり、そして俺達を所有する貴族は、更に管理監督する権限を各村に委任して労働力として貸し与える。
俺達を貸し与えられた各村は、俺達を好きなように使い、好きなように扱う。
殺さず生かさず。という訳だ。
俺達には資産の所有が認められていない。家も土地も服も畑も田圃も家畜も薪の一本さえ、所有することを禁じられている。
家と土地は貸し与えられている。賃借契約が村となされ、年に幾らかの金銭を収めている。服などの生活必需品は貸与である。年に何回かヤート族が必要な物資を村に申請して、申請物が許可されれば貸与される。与えられるのではない。貸し与えられるのだ。消耗し、原状復帰を求められることはないが、村側が返納を要求すれば、断ることはできない。
薪などの消耗品は黙認されている。消耗品まで申請しなければならないとなると村側の事務が煩雑になりすぎるという理由だ。
業種も限定されている。ヤート族が主体となる作農、畜産は禁止である。
農業でヤート族ができることは、管理している村へと赴き、村の農作業や家畜の世話をすることだ。この場合、労働力の対価として余剰な生産物が支払われる。
場所によっては、鉱夫になることができるヤート族もいるが、此処コード村近辺には、残念ながら鉱山はない。
残された業種は、村での排泄物の管理、遺体の埋葬、狩猟、炭焼き、作陶、鍛冶屋。これらの対価は現金で支払われる。経済流通は管理している村としかできないため、搾取されているかどうかの判断はできない。いや、搾取されまくりだろう。なんせ、貨幣経済の流通を村に限定されて、その経済交流で入手した貨幣を賃借金として村に支払ってるんだから、搾取どころの話じゃないな。あとは村での使用人ぐらいだが、ヤート族が被差別民である前提として、ヤート族は禁忌の民として認識されている。
そのため、長時間に渡って村人と接触する使用人としての需要は低い。村人によってはヤート族を見るだけで自分も穢れると考えている者もいる。そういう理由から村人からは極力避けられているのが現状だ。だからヤート族が手伝った畑や田圃で収穫した作物は村では食べずに街で売られる。
村人も年に四回、節季の監査という決められた時期にしかヤート族の集落には訪れない。
当然、管理を離れようとするヤート族もいる。しかし、管理を離れたヤート族は、生活必需品を求めて夜盗となる。
それ故、管理を離れているヤート族が捕縛されると必ず死刑となる。
同じヤート族によって。
逃げ出したヤート族を追うのは、同じ集落にいたヤート族である。年四回の節季の監査で、集落から逃げ出した者がいると判明した場合、そのヤート族の集落には数年間、必要な物資が十分に届かなくなる。
管理する村側も伯爵の所有物であるヤート族に対して、あからさまに罰を与えるようなことはしない。逃亡者が続出しないように‘生かさず殺さず’を基本にヤート族を扱う。
実際ヤート族が逃げ出せば、管理責任を委任されている村側に落度があると領主から見られるからだ。
村側の立場からすれば、禁忌の民とは接触したくないが、汚れ仕事の労働力、街での現金収入につながる労働力そして伯爵から押し付けられたという理由から、仕方なく管理しているのだ。
それでは、伯爵が何故、ヤート族を抱えているのか。
それは、単純明快だ。
戦時の使い捨ての駒である。
ヤート族の管理をさせられている村は、他の貴族領との境界に接している。
その貴族領と村との間にヤート族の集落があるのだ。そして、ヤート族と村との間には村人達の墓があり、俺達ヤート族には墓の所有さえ認められていなかった。
俺たちは死人と同じ扱いなのだ。
死人を戦で使う。効率的だ。
泣けてくる。
戦になったとき、攻める者も守る者もヤート族だ。
各領主は各々の領地外縁部にヤート族の集落を配置している。そのヤート族が敗れれば、村に、領民に危害が及ぶことになる。その時点で王国内の紛争は終了となる。
今回、俺達には何の知らせもなく、その紛争が勃発した。ということなのだろう。
だから、父は死に、俺も一度死んだ。
どこかで納得している俺がいて、何となく違和感を抱いている俺がいる。父を亡くした悲しみはなく、虚脱感のような不安が圧し掛かる。その不安感の正体は、この先、どうやって食っていけばいいのか。
どうやって生きていけばいいのか。
姉の処で世話にはなれない。先妻の子供が三人もいて、義兄の母親も健在だ。きっと、家族が食べていくだけでギリギリのはずだ。
そんな状態の一家に俺を養う力はない。
四十五歳の俺は一〇歳の俺が感じる漠然とした不安感に吐き気がした。
一〇歳の子供が父親の死よりも明日食う飯の心配をしている。そうせざるを得ないこの世界そのものに、俺は吐き気を覚えていた。
木の軋む音と共に風が吹く。
光を背負った姉が戸口に立っていた。
俺を抱きかかえていたときと違う。
直感的にだが‘そう’感じた。
何が違うのか。
雰囲気に近い、姉の持つ空気感が明らかに違っている。
石畳の土間から靴のまま板の間に上がる。威圧感を持った足音が近付く。
「お前。本当にトガリか?」
冷ややかな声に冷徹な瞳。右手が腰に回されて、俺の視界からは隠されている。左手には手袋を握っている。俺の知っている手袋だ。
俺は察していながら、何のことかと顔を上げる。あどけなさを忘れるなと心の中で念じる。
姉の左手から、俺の膝の上に、その手袋が放り投げられる。
しっかりとした重みがある。中身入りだ。
「おかしいと思ったのさ。お前の右手。あの子の物に比べると随分と綺麗だからねえ。」
姉の右手が微かに動く。頭の中で警鐘が鳴る。
小太刀だ。
今の動きで鯉口を切ったはずだ。
「俺は一度死んだんだ。」
姉の体重が僅かに後ろへと下がる。
あどけない真似は止めだ。真正面から一〇歳の俺のやりたいようにやらせる。
「死んで、声が聞こえた。聞き覚えがある声だけど聞いたことのない声。」
後ろに下がった重心が、そのまま腰へと移る。いつでも斬られる。
「その声は力の使い方を教えてくれた。」
まだだ。まだ待ってくれ。
「父さんは俺を抱えたまま逃げた。せめて俺だけでも助けようとして必死に逃げた。でも俺を抱えたままの父さんは奴らよりも遅かった。」
姉の目を真直ぐに見る。
「父さんの首を守るために俺は右手を父さんの首に巻き付けた。」
新たに生え変わった右の掌を姉へと向ける。斬ってみろという気概を込めて。
「結局、俺の右手ごと父さんの首が斬られ、金剛に俺と父さんは潰された。」
吐く息が白い。
「その時からかい…魔法が使えるようになったのは?」
答えない。視線で伝える。本当のことを。その気持ちを。
いつの間にか涙を流していた。
父の忌の言葉を思い出したせいかもしれない。父の死に際、その無様な姿を思い出したからかもしれない。
血に溢れる言葉。
聴き取ることはできなかった。しかし、唇は確かに俺の名を呼んでいた。
無様に嬲られながら、それでも俺を庇おうとしていた。使い物にならなくなった左手で俺を抱き、奴らの前に俺を晒すことは決してなかった。
肉の塊同然に成り果てた俺を抱え、死にながら俺の名を呼んだ。
だから、俺は覚えている。父の死に様を。僅かな、本当に僅かな時間であったが、俺は確かに父よりも長く生きた。
父が守ってくれたから。
父が必死だったからこそ、俺は、同じ死に際で僅かに父よりも長く生きた。
俺は目を閉じる。いつ斬られてもいいように。姉に、死に逝く者の目を覚えさせないように。
「トガリは咎を負った吏を意味する。ヤートは邪なる亜人。だからこそ、その名で罪科を果たし、人として生きられるようになれと父が名付けてくれた。」
目は閉じたままに右手を握る。
姉が俺を抱き締める。
強く。
強く抱き締める。
「トガリ」
静かだが、強い声。
閉じていた目を見開く。
「親父様は立派だったかい?」
震える声に俺は頷く。
「最後まで、お前を守ろうとしたかい?」
震えは大きくなる。
「最後に俺の名前を呼んでいた。」
その後は号泣だった。泣くことを抑えることもなく、獣の咆哮のような泣き声であった。
怒りと悲しみが、ない交ぜになった声であった。
体が大きいだけあって、泣き声も桁外れに大きい。首を逸らして耳を塞ごうとするが、伸ばした右手ごと抱き締められて動こうにも動けない。姉の力が強くなる。
ちょっちょっと、締まってる。締まってるって。
俺は姉の体を必死にタップするが、遅かった。