ヤートの掟って知らなかったんだからしょうがないでしょ?
「下僕の誓いって!トガリ!お前なんてことをしたんだい!」
オルラは俺の両肩を掴んで、悲壮な声を出した。
俺は何のことかわからなくて、キョトンとする。
「あたし達はヤートだよ!ヤートなんだよ!ホウバタイ以外の所有は何物も持っちゃいけないんだ!一族に許された所有物は、ホウバタイと刀の製法のみ。その掟を破ったらヤート族全員が殺されるんだよ!」
マジか?
トガリの記憶には、そんなものはなかった。トガリも知らないことだったんだ。
オルラがトンナに振り返る。
トンナは顔面蒼白だ。
「トンナ、その誓いを破っておくれ!お前がトガリの下僕だなんてバレたら、ヤート族は伯爵に皆殺しにされる!」
オルラの言葉に、トンナは俯き、思い詰める。
『自殺を考えてるぞ。』
トンナと繋がっているイチイハラが、ぼそりと言う。
「トンナ、命令だ。死ぬことは俺が許さん。」
オルラが俺を見る。何のことか察したのだろう、同時にトンナを下僕として扱う俺を非難もしている。
「トンナ、命令だ。下僕として振舞うことを俺は禁じる。」
トンナ、だから、それは宗教に嵌ってる目だから。ちょっと引くから。
「オルラが言ったんだよ。バレなきゃいいって。」
『言ってない。言ってない。』
オルラが口を開けるが、喋るタイミングを与えない。
「トンナがパーティーのリーダー。俺達はトンナのパーティーメンバー。俺の命令はトンナの魂に刻まれるから、トンナは下僕のように振舞うことは出来ない。バレる要素無し!これでヤート族に危害は及ばない。オールオッケィ!」
「…まったく、お前って子は…」
呆れ顔のオルラに俺はとびっきりの笑顔で応える。
トンナが楚々と俺の隣に来る。
俯きながら俺の手を握る。
「トンナ、トガリの下僕になって良かった。」
俺もトンナの目を見詰める。こうして見ると、豚さんも悪くないどころか可愛く見える。
「トンナ、自分のことを自分の名前で呼ぶのも禁止な。」
だってイラっとするんだもん。
ポカンとするトンナの手を放し、俺はオルラの方を見る。
「まあ、人前で俺がトンナに命令しなけりゃバレることはないだろうし、トンナには俺の下僕になったことは口外するなと禁ずるから、それで許してやって欲しい。そもそも、誓いを解消することが出来ないから…ごめんなさい。」
頭を下げる。
先に打開策を実行して、謝ることは謝る。大人の対処法だ。しかも最後は一〇歳の子供っぽい仕草だ。
オルラ攻略法としては最強の布陣だろう。
「まあ、いいさ。お前は何でも自力で何とかしちまうねえ。まったく、それに最後の‘ごめんなさい’は気持ち悪いよ。腹の底で笑われてるような気分だ。」
あら、逆効果だった。さすがはオルラ、一つ年下でも、今までの経験値が俺とは段ちだわ。それに、俺が勝手に全部決めたのがお気に召さなかったらしい。
そりゃそうか、一〇歳の子供に仕切られちゃ、四十四歳の伯母さんにとっちゃ面白くないわな。現実的な妥協案だから、此処は納得しとこう、てことか。
「ごめん。次からはちゃんと相談する。」
オルラの目を見て、しっかりと謝る。
今度は大人の男の謝り方だ。
「ああ、それなら良いよ。もっとも、相談するかどうかは眉唾だがね。」
オルラの表情が緩んで、やっと安心できた。なんせ、この婆様、いざとなったらトンナを殺しかねん。
「トガリの謝り方、カッコいい…」
駄目だ。トンナの脳味噌がお花畑で湧いてる状態だ。謝ってるのにカッコいい訳がないだろう。宗教に嵌るって怖い。
「さあ、それじゃあ、出発しようか。随分と時間を無駄にしちまった。本当なら、今日の昼頃には村に到着したかったんだけどね。この調子じゃあ、明日の朝になっちまうかもしれない。」
俺とトンナは頷いて、荷物を纏め直した。
トンナが俺とオルラの荷物を持とうか?と聞くが、パーティーリーダーに荷物を全部持たせて、俺達が手ぶらというのは如何にもおかしい。トンナは手ぶら、荷物は俺達ヤートが背負うというスタイルが、第三者的にはしっくりくるスタイルだ。
ただ、トンナはジレンマに陥っていた。
下僕でありながら、下僕の仕事が出来ないため、ちょっとシュンとしていた。
「今はパーティーリーダーの役目があるんだ。ちゃんと胸を張ってくれ。でないと、俺達までが舐められる。」
トンナには何か仕事を与えなきゃダメだ。
自分が必要とされているということを、しっかりと示さなければならない。
俺が、役目があるんだと言った途端に、その役目を果たそうと、しっかり前を向いて堂々と歩き始める。
オルラはそんなトンナを微笑ましそうに見ている。
『そうだな。トンナには真摯に向き合った方が良い。』
何か見たのか?
トンナと繋がるイチイハラなら、トンナの中に何かを見てきたかもしれない。
『ああ。どうもトンナは族長に連なる血筋らしい。』
イチイハラがトンナのことを語り始める。
族長に連なると言っても傍系だ。
しかしトンナの父は強く逞しい男で、次期族長と目されていたらしい。その男がトンナを大事に育て、国境での戦でかなりの武名を轟かせた。
戦うことを生業とする獣人は実力主義でなければならない。だからこそ、傍系でも次期族長の可能性があった。
また、獣人は、家を存続させるために婿を迎えるも嫁を迎えるも、その実力で推し量られる。つまり弱い者は他家へ嫁ぐことが義務であった。
獣人の繁殖力は弱いため、どの家にも子供は、一人か二人、二人も子供がいる家は珍しく、大抵はどの家にも子供は一人しかいなかった。したがって、家を存続させるには、子供を嫁がせるわけにはいかない。どの家も新しい血を迎えるために、子供に戦う術を教えることに熱心であった。そんな中にあって、トンナは、その才能を開花させていく。
族長の直系を婿に迎えられるほどの実力にまで成長する。そして、いよいよ、婿を迎え入れようかという話が現実味を帯びてきた頃にそれは起こる。
トンナの父が病にて亡くなったのだ。
後ろ盾を失ったトンナは、その立ち位置を失う。
人間社会に従属しなければならない獣人は、自分達が属する支配階級の人間に対し、人質を送り出す掟があった。これは、それぞれの国が有する獣人を国外へ流出させないための掟であり、獣人はその身分を保証されることもあって、双方が納得する掟であった。
トンナはその人質に選ばれた。
人質と言っても、実際は国の貴族の側室に入ることであり、その処遇は決して悪いものではない。しかし大抵の人間は獣人を嫌う。
この世界の獣人はファンタジーのような可愛い獣人ではなく、どちらかと言えば、サイエンスフィクションに登場するような獣人なのだ。人間側の、普通の価値基準から言えば‘醜い’にカテゴライズされる。
これは、トンナに限ったことではない。獣人を迎え入れることに、どの貴族も素直に諾とは言わない。
迎え入れることになった貴族にとっては、大きな問題である。
子供を作ることが出来ない側室である。例え子供が出来たとしても、その子供は、生粋の獣人よりも弱く、人間社会では、何の価値もない存在となる。
獣人はその関係性から差別対象とはならないが、獣人と人間との混血児は違う。
外見の差異、能力の低下、処遇を配することもできない。そのような存在を人々は厄介者としてしか見ない。
そもそも、人間側は獣人との性交渉を求めない。
この世界で獣人と好んで性交渉を持つ者は、倒錯的偏愛主義者とみなされる。したがって、獣人との子供を得れば、その時点で貴族としての品位を疑われる。
側室に迎え入れたとしても実質的には飼い殺しにするしかない。
ペットと同じである。
社交場にペットを連れて行き、ペットとして、どれだけ優秀か。どれだけ血統が良いか。どれだけ毛並みが綺麗か。どれだけの特技を持っているか。
その様なことが話される。
獣人を迎え入れる貴族は、代償として、その待遇が改善されるが、それでも中々迎え入れる者はいない。
そうなれば、ペットに特性を持たせるしかない。
人間側は獣人側に要求する。
戦闘以外の特殊性を有したペットを寄越せと。
トンナにとっての悲劇は、戦う才能に偏っていたことだ。
婿を迎える立場であったなら、それだけで良かった。父もそのつもりでトンナを育てた。
音楽を奏でることも、絵を描くことも、貴族としての礼儀作法も、何もかもがトンナの手をすり抜けていった。
手に残るモノは常に戦うこと。ただ戦うことだけがトンナに微笑んだ。
トンナは、教育者全てから見放され、見捨てられ、蔑まれた。
それでも、トンナの立場は変わらなかった。
次期族長の座を狙う、叔父によって。
完全にトンナの血筋を絶やそうと躍起になる叔父によって。
やがて、トンナは自信を失い、自分の存在意義を見失った。肩を落とし、俯いていることが多くなった。
しかし掟は掟である。人間側にとっても獣人側にとっても履行されなくてはならない。
そして、トンナの受け入れ先が決まる。
優しい貴族であった。
姿形も整っており、ただ、優しい好青年であった。
迎え入れられて、トンナの世界は一変する。
好青年であった貴族は騎士扱いの男爵から、正当な男爵になり、トンナは離れの小屋に住まわされるようになる。
側室の扱いは子供を産むための使用人であり、獣人は建前上側室とされているが、実質は国から預かる大事なペットである。しかしトンナは大事なペット扱いもされなかった。
トンナは猪人、ボアノイドである。女のボアノイドには特徴的な牙がない。見た目だけで言えば、豚人と言われても仕方がない外見であった。
豚という言葉を蔑称に使う人間は多い。誰もがトンナを側室に迎えることを嫌がった。
青年貴族は、トンナを迎え入れることで、正当な男爵としての待遇を得た。青年にとっては、トンナはペットでもなく、家畜であった。
自信を失い、心無い愛想笑いしかできないトンナを家畜として扱った。
トンナは、青年の優しさに、僅かな希望を見出していたが、それも折れた。
二年ほどして、トンナは一族の元に戻された。
青年が僅か一年余りで没落し、放逐したためだ。トンナは青年から何も知らされないまま、離れの小屋に残されていた。
トンナの叔父は、族長になっていた。
トンナを役立たずと罵り、里から追い出した。
一人になったトンナは自由と引き換えに自信を失っていた。そんな時に偶々、魔獣に襲われている人を助けた。魔獣を狩ることは出来なかったが、闘うことが出来た。
全てを失ったと思っていたが、残っていたモノがあった。
戦う力。
それだけは、トンナを裏切ることはなかった。
助けた人からは感謝された。
自分の存在意義を取り戻せた。
魔狩りとなった。
全てを掛けて、それに縋った。
もう放してはいけないと思った。
しかし上手くいかなかった。魔獣と闘うことは出来ても、魔獣を見つけることが出来なかった。
依頼を受けても捜し出すことが出来ない。
焦った。
何日も山を彷徨い、携行食料もなくなり、自信も失いかけた時、トンナは肉の香りに気が付く。
トガリと出会った。
一〇歳の小さな子供。
生意気で、大人のような話し方をする子供。
自信に満ちて、腹立たしい子供。
嫌いになった。
一瞬で嫌な子供だと思った。
自分にないモノを持っている子供だと思った。
ヤートのくせに、どうしてそんなに生意気で大人のような喋り方をするのか。
ヤートのくせに、どうしてそんなに自信に満ちて、腹立たしい態度を取るのか。
ヤートなんだから、もっと卑屈にしろ。
ヤートなんだから、もっと卑しく笑え。
ヤートなんだから、もっと怯えろ。
その子供にアッサリと倒された。
自分の縋ったものが、また裏切った。
許せなかった。許してはいけなかった。
負けたら、また、あの小屋にいた頃の自分に戻ってしまう。
一歩も動けなくなってしまう。
そんなことは嫌だ。
そうなってしまうのが怖かった。
再度、トガリの前に立つ。
放すものかと思った。
放してはいけないモノだった。
自分には、もう、これしか残っていないのだ。
縋った。
戦うことに必死に縋った。
しかし自分が、どうやって倒されているのかさえ、わからない。
どうやっても倒される。
拳にフェイントを織り交ぜるが、倒される。
蹴りの角度を変えるが、倒される。
スピードに緩急を加えるが、倒される。
何度立ち上がったか、もう、わからない。
何度も倒され、何度も起き上がって、そうして分かったこととは、トガリは、自分に触れてもいないということだった。
触れる。
たったそれだけのことが、こんなにも気が遠くなる作業だとは思ってもいなかった。
いつしか、トンナは何も考えることが出来なくなっていた。
ただ、繰り出す拳。
ただ、繰り出す手刀。
ただ、繰り出す貫手。
何も考えずに突き出す拳を、あやすように受けてくれたのは誰だったろうか。
こんなにも転ばされるのは、いつ以来だったろうか。
こんなにも私と付き合ってくれるのは誰だったろうか。
そして、最後の一撃がトガリの左手に受け止められた時、思い出す。
父さん…
何もかも失って、僅かに残った戦いという雫。
その雫の全てを絞り出し、最後の最後に残った小さな雫。
トンナの胸の内に父の姿とトガリがダブって見えた。
重いな…
『ああ。重い。』
でも…
『ああ。十八歳の子には重すぎる荷物だ。』
そうだな。四十五歳の俺が少し持ってやらないとな。
『軽くしてやろう。』
どれだけ持ってやれるかわからんが、放さないように持ってやろう。
トンナが胸を張って歩いている。
楽しそうに。
嬉しそうに。
今の俺には、トンナが、無性に可愛く見えて仕方なかった。




