イズモリの弱点
ツブリの紐は、強度が落ちているだろうという理由で使い捨てだ。
木に括りつけている部分から切り離し、熊を仰向けにしながら地面に下ろす。
手早く熊の毛皮を拭い、ナイフを右手に捌きだす。
「トガリ、金玉の下から刃物を入れて、上に向かって捌くんだよ。金玉もちんちんも傷つけちゃいけないよ。」
婆様、せめて睾丸とか陰茎とか、医学用語で言ってくれ。
言われたとおりに内臓を傷つけないように切り上げていく、オルラは胸から刃物を入れて、腕に向かって真っすぐに切れ込みを入れていく。反対側も同じように切れ込みを入れた後、毛皮を剥がしにかかる。
黄色味を帯びた白い脂肪と赤い筋肉が生々しいが、冬眠明けのせいか、脂肪が少なく、上半身の毛皮は比較的早く剥けたように思う。
『うえっ。俺駄目、こういうの。』
そうか?俺はトガリの記憶のお陰か、割と平気だな。
『拷問だな。俺は見たくないのに、お前が見てるから、見なきゃしょうがない…』
成程、思わぬところで、お前に意趣返しが出来たな。
そんなことを話しながらも、オルラからの指示が飛ぶ。
急いで毛皮を剥いて、熊肉の温度を下げなければならないのが理由らしい。籠った熱をそのままにしていると、肉に臭みが出るとオルラが言う。
毛皮に穴を開けないように手早く剥いていく。その度にイズモリが『うええ』とか『うっぷ』とか五月蠅かったが、全て無視だ。
足裏の肉を採り、爪を毛皮に残したまま、足の指を切断し、毛皮を剥がす。
綺麗に剥き身になったところで、オルラが、陰部からナイフを突き立て、首元まで切り上げていく。俺は胸元の肉を削ぎ落していく。
『まだ終わらねえのか?』
見てたらわかるだろう。まだまだ終わらねえよ。
そう言いながらもオルラの手際が良いのでサクサクと進んでいく。
俺があばらを割って、オルラが内臓を取り出したところで、俺に木の枝を組んで燻製の用意をするようにと指示を出す。
『助かった…』
俺は、もう少し解体を手伝うと言ったのだが、切り取った肉を順次、燻製にしたいようだ。手を振られて「しっしっ」と追い払われる。
俺は長さ二メートルぐらいの枝を十二本打ち落とし、オルラの傍まで戻って、ピラミッド状に枝を組む。
先ほど切り離したツブリの紐を組んだ枝に渡すように結んでいく。
ピラミッドの中に簡単な竈を作り、火を熾す。枝を採りに行ったついでに拾っておいたサナダの下草を焚火の中に放り込む。
サナダとは、春から夏にかけて山の森に自生するシダ系の植物だ。虫除けの効果があることから保存食を燻すのに使われる。匂いも肉によく合い、ヤートは好んで使う。
オルラの元から切り分けられた肉を取り上げ、枝に渡した紐に掛けていく。
燻製用のピラミッドを三つ組んだが、間に合うだろうかと心配になる。
「トガリ。こっちの肉は食っちまいな。」
ナイフの切っ先を一塊の肉に向けて、嬉しいことを言ってくれる。
燻製用とは別に火を熾し、枝を組んで鍋を吊るす。水筒から水を入れて、水の状態から肉を入れる。
熊の肉を煮込む間に他の肉を燻製にしていく。
オルラは黙々と肉を切り分けている。
粗方の肉を燻せるようにした後、オルラから使えなくなった刃物を受け取り、脂を拭う。雪をもう一つの鍋に入れ、焚火の傍で溶かしておいた水を使う。
砥石で綺麗に砥直し、布の上に並べていく。
俺が刃物を砥いでいる内にオルラは肉を切り分けたようで、最後のナイフを持って来る。
「中々に重労働だったねえ。」
普段なら五人掛りでやる作業を二人でやったのだ。時間も労力もかなりのものだ。
オルラは少し休むのかと思ったが、直ぐに長い枝を使って四角く木枠を組み始める。
「皮を干すの?」
「ああ、折角だからね。街に行った時、多少なりとも、お金が手に入るだろうしね。」
オルラは細い紐で木枠に毛皮を張り終えると、極端な弧を描くナイフで皮に残っている脂肪と筋膜をこそぎ落としていく。
俺は、それを横目に鍋から丁寧に灰汁を取る。
『成程な。中々、この世界では一人で生きていくのは難しそうだ。』
ああ。オルラは追手だと言っていたが、案外トガリのことが心配だったのかもな。
『…』
イズモリからの返事は期待していない。
きっと、思っていることは同じだろうと感じる。
陶器の瓶から塩を摘み、少しばかり振りかけようとしたところで、オルラからストップがかかる。
「これをお使い。」
オルラから陶製の小瓶が投げ渡される。
俺はコルクの蓋を開けて驚いた。
「味噌じゃないか。」
内陸のこの地方では、塩は貴重品だ。その塩を使った味噌は更に貴重だった。
「お前との二人旅で初めての食事だ。少しぐらい贅沢しても罰は当たらないだろうよ。」
「それにしても味噌なんて、よく持ち出せたな。」
俺の言葉に、オルラは悪戯っぽく笑うと「ちょっとね。」と言いながら、左手の人差し指を鉤状に曲げる。
俺はそれを見て「悪い婆様だな。」と笑いながら言った。
『良い婆様だ。』
その言葉に俺も内心で頷いた。
「トガリ。熊の頭を割っておくれな。」
何で?と思うが、トガリの記憶から脳味噌で鞣すという単語が浮き上がる。
「わかった。」
俺は、鍋から離れて、オルラの元へと向かう。
『待て、待て、待った!』
どうした?
『無理無理無理無理。もう俺が耐えられない。』
これ以上は、熊の解体を見たくないとイズモリは主張する。
そうだろう。剥き身の頭なんて、俺もあまり見たくない。
しょうがないだろう。毛皮を保存しようにも塩はないし、鞣しとかないと買い叩かれる。
『いや。待て。鞣しなら、マイクロマシンでやる。』
マジで?そんなことできるのか?
『脳漿で鞣しをするのは皮の腐食耐性と皮に油分を染み込ませて柔らかくするためだろう?』
そうなのか?
『そうなんだよ!だから、皮の防腐はタンニンや明礬でもできるし、柔らかくするなら、皮の繊維束を解してやればいいだけだ。だから、熊の頭に近づくな。』
オルラには何て説明する?
『俺の言うことをそのまま伝えろ。』
すごく必死だな。
「婆様。」
俺はオルラに向き直り、イズモリの言うことをそのまま伝える。
「熊皮の鞣しだけど、試したいことがあるんだ。」
手を止めることなく、熊皮から脂肪をこそげる作業をこなしながら、「何だい?」とオルラが返事をする。
「俺が皆の前で顔を直したのは見てたよね。」
手が止まり、俺の方を訝しむように振り返る。
「その力を試したいんだ。俺だけじゃなく、怪我をした他人にも使えるかどうか。それを確認したい。」
「どうするんだい?」
「この皮を、まっ魔法で鞣す。」
魔法という言葉は、やっぱり抵抗がある。
口端を歪ませて、似合わない笑みをオルラが見せる。
「やってごらん。ただし、折角の熊皮を駄目にするんじゃないよ。」
頷いて、オルラと場所を代わる。
『いいか。皮素材の加工は、まず、余分な脂肪や肉をこそぎ落とすことが重要だ。オルラが途中までやってるが、真皮層までこそぐと、脱毛の原因になる。だから、脂肪と真皮を構成するコラーゲンの境目まで脂肪を分解する。』
コラーゲンと脂肪の違いなんてわかんないけど。
『脂肪の構造式を前頭葉で展開する。お前は霊子にその構造式の分解命令を乗せろ。』
構造式とやらがイメージされるが、俺にはさっぱりわからない。
こんなのどうするんだよ?
『もういい。俺が分解命令まで霊子に乗せる。霊子回路への接続神経を増やすからビリッとくるぞ。』
言い終わった直後に目の奥が痺れる。
せめて、覚悟する時間をくれよ。
『いくぞ。』
そっちは、合図するのかよ。
熊皮の肉面が綺麗に均されていく。それを傍で見ていたオルラが「ほう。」と声を上げる。
『次はコラーゲンと鞣し材を結合させる。』
鞣し材には何を使う?脳漿?
『だから!脳漿は使わん!森の中にいるんだ、周囲の樹皮からタンニン成分を抽出して、熊皮に強制浸透させて、結合させる。』
周囲の樹木で直ぐに影響が出始める。タンニン成分が抽出された樹皮から色素が抜け、ハラハラと剥がれ落ちる。熊皮の肉面が徐々に茶色く変色し、ヌメ皮へと加工されていく。
このタンニン鞣しだが、本来はかなりの時間を要する。
薄い濃度のタンニン水に何日か浸し、徐々にその濃度を上げて何回も浸す。そうしないと皮の中心部までタンニン成分が浸透しないためだ。
それを、水分を使わずに無理やり浸透させて、強制的にコラーゲンと結合させている。
トガリの右目には、結合していくのが光の変化で見て取れた。
『よし。あとは、油を加えて、皮の繊維束を解して終了だ。』
作業工程に水分を使用していないため、干しの工程も省くことが出来る。余計な水分を含ませるとバクテリアを繁殖させてしまうため、腐食の原因になる。
油は熊の肉から抽出して、皮に加脂していく、皮の繊維束を解すと、ピンと張られていた皮が弛んで、張っていた木の枝が軋み音を立てて撓りを失くす。皮が緩んでいくのを見て、オルラが皮に近づき凝視する。
手の平で触れて、皮の弾力を確かめる。
「…大したもんだ。しっかり革になってるよ。」
革を両手で挟んで、毛も確かめる。
「うん。毛も抜けないし手触りも良い。良い毛皮だ。」
目を大きく開いて満面の笑みでトガリを見る。
「お前は本当に大した子供だ。タンナーのミルザが見たら泣き出すだろうよ。」
タンナーとは鞣し職人のことだ。
普通、皮の鞣し作業は、二、三か月を要する作業だと、トガリの記憶から読み取っていた。それが、ものの五分程で仕上げられている。
全ての作業を終えて、オルラと二人で焚火を囲む。
既に日は落ち、夜もかなり更けている。
オルラは細い枝に突き刺した熊の肝臓に塩を振りながら、軽く火で炙ってから食べている。
鍋に入っていた熊肉と膵臓は空だ。
よく喰った。
一〇歳の子供と婆様の二人にしては異常な量を食ったのではないだろうか。
燻製の出来具合によるが、今日はこのまま、此処で野営することになっている。熊の縄張りは、あやふやな部分もあるが、オス熊の縄張りは比較的しっかりしているので、この熊を狩ったからには、今夜一晩ぐらいは安心できるだろう。
それでもマイクロマシンはキッチリと起動して、索敵状態を保っている。そうしないとオルラに叱られるからだ。
肝臓に満足したオルラは、小さめの木枠を組んで、切り捨てていたツブリの紐で網を作っていた。網に切り分けた内臓を晒して、干すつもりなのだろう。
オルラは、すっかり俺の師匠の様になってしまった。
熊の解体の仕方から、刃物の砥ぎ方まで、細かく教えてくれた。今も燻製を引っ繰り返すように言われたところだ。俺は燻製を順に引っ繰り返しながら、オルラのことを考えていた。
厳しくはない。
母親が、優しく、年端もいかない子供をあやすように。
ツブリの紐を結び直す時も後ろから俺を抱えるようにして、結び方を教えてくれた。
燻製用のピラミッドを組む時も大きな枝の下で組むようにと教えてくれた。
組んだ枝が倒れないように、大木から伸びる枝にロープを括りつけて、そのロープをピラミッドの頂点に括り付けるようにしなさいと教えてくれた。
焚火から立ち上る煙を木の枝に潜らせることで、煙が薄くなると教えてくれた。
今日一日で、様々なことを教えてくれた。
ただ生きること。
その生きることが、こんなにも大変だとは思わなかった。
現代日本では金を稼ぐことが大変だった。
そのどちらかに貴賤がある訳でも、比較できるものだとも思わない。
しかし、現代日本では、ただ生きることが、こんなにも難しいことだと実感することが出来なかったのは事実だ。
『感謝だな。』
「オルラ。ありがとう。」
自然と出た言葉だった。
オルラは俺の方を見やりながら静かに微笑んだ。
『完敗だな。オルラには頭が上がらん。』
まったくだ。
俺は歯磨き用に雪を溶かして、コップに注いで、オルラに手渡した。
鞄から細い糸を出し、歯間を掃除した後、江戸時代に使われていた房楊枝のようなハトギを出して、歯を磨く。
コップの白湯で口を濯いで、焚火の脇に吐き出すと、オルラと目が合った。
「お前は綺麗好きだねえ。」
感心したように言う。
「婆様も歯は大事にした方が良いよ。食えなくなるからな。」
オルラは困った様な顔をしながら、そうだねえ。と言いながら、中々歯を磨かない。
ヤート族は、あまり清潔ではない。トネリもそうだったが、全員かなり臭い。俺もその一人だ。
ヤートは風呂に入らないし、水浴びもあまりしない。洗濯もあまりしない。
いずれも物資の不足が原因だ。
薪は食べることと暖房に使い、布その物の数が少ない。結局、体を拭うことも洗濯も布が勿体なくて出来ないのだ。
そういった悪習慣が歯磨きにも影響し、皆、あまり歯も磨かなくなってしまった。
甘未が無いのだから、虫歯に困っていないことも拍車を掛ける。
俺はオルラの前に座り、「あーんして。」と言って、オルラの口に指を差し込み、歯に糸を掛ける。
一本一本を丁寧に痛くないように磨いてやる。
「濯いで。」
コップを手に持たせて濯がせる。
ハトギでオルラの歯を磨く。
現代日本で母の介護をしていたのを思い出す。
磨き終わると、オルラが恥ずかしそうに「ありがとうよ。」と呟いた。俺は少し恥ずかしくなって、ハトギを洗いながら「いいよ。次からは自分でやりなよ。」と言った。
お互いに歯を磨き終わって、寝ることになった。
大きな木の上でヤートは眠る。
眠る木は、火を焚いた場所から少し離れて選ぶ。
今回は燻製のために火を焚きっ放しになる。火は目印になるため、その火からは離れるようにするのだ。
俺は燻している肉を一通り引っ繰り返し、もう一回引っ繰り返さないとな、と考えながら、その木に登った。
オルラの眠る枝の下だ。
フードを被って、コルルに包まり、父のホウバタイとロープで体を木に括り付ける。
三角座りになって、顔を膝に埋めて目を閉じる。うとうとと浅い眠りの中にあっても、マイクロマシンは周囲の警戒を緩めない。その点についてはオルラも同じだ。
幾らも眠らない内に、そのマイクロマシンが異常を感知した。
通常、マイクロマシンが、何かを感知した場合、それが何か判るように情報を伝達してくる。しかし、今回は、何かが判らない。
俺とオルラは体を大きく動かすことなく、静かに目を開き、その何かを待った。
一部のマイクロマシンにオルラの様子を探らせる。
マイクロマシンが、もたらした情報は、恐れと緊張だ。
あのオルラが、緊張を伝えてくる。
『何が近付いてるんだ?』
イズモリが疑問に思うのも、もっともだ。
三メートル級の熊を簡単に殺したオルラが恐れている。その事実だけでも異常な事態だ。
その何かは今も徐々に近づいて来ている。
オルラから、薄い紙の帯が垂らされる。
耳に紙を当てると直ぐに声が響いてくる。
「トガリ、気配を引っ込めるんだ。」
囁くような声。
俺は言われるままにマイクロマシンを引上げる。
しかし、奴はもう既に近くまで来ていた。
そいつは、霊子を食っていた。正確には霊子によって命令を与えられていたマイクロマシンを霊子ごと摂り込み、消費していた。
獣である。
見たことのない獣だった。




