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少年は自分の視点が高いのに気がついた。
周囲の木々が低く見える。すると目の前に、人の顔が映った。
「どうしたの、樹。そんな顔して」
少年は声のする方を見た。女の顔だった。きれいな顔だ、と思った。鼻梁はすっと細く、長い黒髪が時折頬にかかった。目元は、よく見えなかった。
少年は答えようとした。だが、言いたいことがうまく言えない。そのかわり口をついて出たのは、およそ言葉とは呼べない、だあだあ、という声だった。
(喃語だ)
少年は瞬間、すべてを悟った。
(これは、夢だ)
明らかに現実ではなかった。少年は驚いていた。自分に、こんな鮮明な記憶があったなんて。はっきりと思い出せる記憶は、五歳ごろが最古だと思い込んでいたからだ。実際、少年にはそれ以前のことは思い出せない。なのになぜ、夢の中に出てきたのか? 少年は頭に浮かんだ疑問が気持ち悪くて、すぐに打ち消そうと思った、が、うまくできない。むしろ、その欲求は抑圧しようとすることでさらに強まった。
彼は夢の中で、一人の赤ん坊だった。まだ自我も意識も鮮明ではなかったころの。
(どうしたんでちゅか? だあだあ。ふふ、かわいい)
女は少年にまなざしを向けた。その瞬間、体が上下左右に揺れた。しかしそれは、激しいものではなく、適度に拍が刻まれた、優しいものだった。少年は、これが「あやす」ということなのだなと直感できた。もっとも、このころの彼に、そのような理解ができるわけではなかったが。
女の体温のような温かさを感じたまさにその瞬間、脳に雑音が走った。女の顔がぐらりと歪み、混沌状に変形して、また再び秩序を得た。
次に、少年の目に映った風景は、こうこうと黄色に輝く灯りだった。耳に入ってきたのは幾人かの人々の話し声だった。
「樹の様子はどうだ」
男の低い声だ。低い中にも、一種の温かみを感じる、優しい声だった。
「それがねえ、この子ったら、私の方をじいっと見つめてくるの。もうかわいいったらありゃしないわ」
今度は高い、女の声だった。少年はすぐにそれがさっきの夢に出てきた女の声と一致するのが分かった。
「はい、ごはんよ」
いい匂いがしてくるのが少年には分かった。まだ感覚が成熟していないため、何の匂いかまでは判別しかねたが、とにかく優しい匂いだ、ということを認識した。
「おお。今日は豪華だなあ。追われている身だというのに、こんなにどうしたんだ」
男の驚嘆する声が聞こえてきた。
「ふふっ、今日は特別よ。というより毎日が特別。この子が生まれてからは」
そこでまた記憶が途切れた。再び脳の中に雑音が響いてきた。それが収まってから、少年はまた風景が変わっているのに気がついた。
今度もまた、あの女が彼の顔を覗き込んでいた。
その赤ん坊は泣いていた。錯乱し、じたばたして、暴れていた。少年は戸惑った。こんな記憶まであるのか、と。
「はいはい、落ち着いて。よしよし」
女の手が、一際大きく見えた。自分が小さいからだと気づくのに時間がかかった。女の手は、赤ん坊の頭にあてがわれ、それから数度、横往復した。撫でられているのだ。赤ん坊の感情が少年によみがえってきた。少年はつられて段々とうれしくなっていった。
「もう寝なさい、樹。お母さんが子守歌を歌ってあげるから」
女が歌いだした。その声は、きれいに澄んでいた。
山際の 吹なる風の
清らなりて 木々美しき
雲の中 風よ吹き抜け
太陽の まぶしきを見ん
垂乳根の 母なる大地
すっと立ち 生えるは巨木
天に近く そのさまを見ん
人はいさ おろかなりける
神々の 創りたまひし
背の木をば いとしげりける……
…………
赤ん坊の意識が次第に薄れていく。つられて少年も、段々と意識の深いところへ、潜っていくような気がした。
少年はそのまま、沈んでいった……
(起きろ、起きてくれ、樹)
それの切羽詰まったような激しい口調に起こされるまで、少年の意識はどこかへ飛んでしまっていたかのように、明瞭でなかった。