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大分歩いたなあ、と少年は思った。
ここのあたりまで来ると、金持ちは少なく、様々な身分の人間が行き来していた。ちらほら物乞いの姿も見えた。
「豆腐、豆腐はいらんかねぇ」
歩いていると、町の中を流して歩いている行商に出会った。行商の身なりはお世辞にもいいとは言えなかった。肩に棒を渡してひもでつるした二つの籠をかけて、その籠には白く輝くみずみずしい豆腐がいくつか、かろうじて形を崩さず乗っていた。
「おっ、そこの若い兄ちゃん、豆腐はいかが?」
豆腐売りは少年に話しかけた。豆腐売りの方も、生活が懸かっているから必死である。
「……いえ、間に合ってます」
少年はそっけなくあしらおうとした。
「まあまあそう嫌がらないでよぉ」
その男は執拗に少年を付きまとった。少年は目をつけられた迂闊な自分を恥じた。自分の正体がばれるのを恐れて、あまり外出しなかったからなあ。少年は自分の世間の知らなさを歯がゆく思った。
「この豆腐はねえ、黒岩の国の月肌のあたりでとれた最高級の大豆を使ってるんでさあ」
どう見てもそうは見えなかったが、少年にはその黒岩がどのあたりなのか、月肌がどんなところなのかさっぱり分からなかったし、そこでとれた大豆が高級なのかどうかも知らなかった。
男は少年の肩を引き寄せると続けた。
「食べるとねえ、絹のようなつるっとしたのど越しでさあ、あ、とはいってもこれ、木綿豆腐なんですがねアッハッハッハ」
男は薄汚い顔に下品な笑みを浮かべていた。少年はこの豆腐売りが持つ卑しい感じを嫌った。第一、さきほどのそばののど越しで少年には十分だった。
「ねえ、いいでしょう兄ちゃん、どうですかね?」
男はしつこく聞いてきた。
「結構ですから」
少年は振り切って歩こうとした。
その時だった。
少年が男の手を振りほどこうとした結果、少年の肩が男の体に激しくぶつかり、
「うわっ」
男はよろめいて派手に転んだ。
その衝撃で、豆腐が雪崩のように地面にこぼれ落ちた。
「なっ、なんてことしてくれやがるんだ」
男は素っ頓狂な声をあげて怒りを主張した。崩れて土にまみれぐしゃぐしゃになった豆腐は、あまりにも無残にその死骸をさらしていた。
少年は驚いてその場に立ちすくんだ。
「おい兄ちゃん」
小男は少年の顔に自分の顔を近づけていく。少年はその威圧感たっぷりの奇妙な表情に恐ろしさというよりおかしみを感じていたが、そんなことを考えている余裕は微塵もなかった。
「……すいません」
少年は素直に気持ちを口に出した。その声は震えていた。
「これ、この豆腐、どう落とし前つけてくれるんだ」
男は豆腐の残骸を指さして言った。あえて低い声で言うことで、威圧感を強めていた。表情はますます滑稽さを増していた。しかしここで噴き出すわけにもいかず、少年は必死に神妙な表情を繕った。
「おい! 何か言えよ!」
我慢の限界が来たのか、男はついに怒鳴って、少年の胸を突き飛ばした。少年は転びこそしなかったが、平衡を崩して二、三歩後ずさった。
「……すいません」
少年はうつむいて繰り返した。今は、謝罪しかない。これは完全に自分の非だ。少年は罪の意識をしみじみと感じた。
「すいませんだぁ? そんなことが聞きたいんじゃねえんだよ!」
男は続けざまに怒鳴った。そしてそのまま少年の胸倉をぐいと掴んだ。少年は驚いて「ひっ」と声をあげた。
驚いている暇もなく少年は考えなければならなかった。この男が自分に何を意図しているのかについて。
「……弁償、します」
少年は自分の非を認めた。
「そうだ。それでいい」
男は満足そうな表情を作ると、少年の胸倉を離した。その百面相が、少年に笑いたいという欲望を誘った。が、少年は笑わず耐えた。そんなことより少年には、一つの問題が生じた。
「豆腐一丁五十文」
男は芝居がかった口調でゆっくりと口上した。
「これが百丁で五千文、ざっと一両だ。てめえに支払えるってのか? ああ?」
どう見てもそんなに豆腐が乗っていたとは思えなかったが、少年は従うしかなかった。
「俺んちはよお、子供がいるんだよ」
男は唐突に話題を変えて続けた。
「子供がなあ、今六人目が生まれたところでさあ、生活かかってるんだよ。お前のせいで、うちの子供が食えなくなったら、お前に一生付きまとって何もかも搾り取ってやる」
男の表情が大げさに変化した。その様がおかしくてたまらない少年だったが、これ以上搾り取られてはたまらない。必死に笑みをこらえるも、頬がひきつるのが自分でも分かった。
「その恰好を見る限り、どうやら旅の道中って感じだが。それも都から出る途中の?」
図星だった。とは言っても、笠に合羽、風呂敷包みの旅装束一式を纏っているので容易に分かることだった。しかし、都から出ることまで分かったのが少年には不思議だった。
「その不慣れな感じで分かんだよ」
男が答えた。
「ここから出るってことは、相当な所持金持ってるはずだなあ? 払ってもらおうじゃねえか」
男は次第に調子に乗り始めた。少年は段々いらいらしてきた。この男の被害者であるという権限を最大限に生かしたみたいな態度が、少年に逆に怒りを抱かせる原因となった。
(でも僕は、もう子供じゃない)
少年は心の中で強く言った。僕の年はもう十六。元服もしたし、もう大人だ。ここで子供のように逆上してはいけない。これは、大人になるための旅でもあるのだから。
少年は自分の懐から財布を出して、一瞬ためらってから、小判を抜き取った。
「これで勘弁してください」
深くお辞儀して謝罪の意を示すとともに、小判を両掌に持って差し出した。
「初めからそうすればよかったじゃねえか」
男は再び満足そうな顔になり、ふふふ、とほくそ笑んだ。その表情は醜いの一点に尽きる。少年は急に腹立たしくなってきた。何でこんな奴に、大事な旅行の軍資金を渡さなければならなかったんだ。屈辱感で胸がいっぱいになった。
「ふへへ、これで今日も博打ができるぜ……、おっと、口に出てない出てない」
男はとぼけたように発言を否定した。少年は悔しくてたまらなかったが、加害者の身で何言う資格はないと自分に言い聞かせた。
「それじゃあな、クソガキ。人に接するときはせいぜい気をつけるんだな」
別れの挨拶にもならない台詞を口にして、男は鼻歌交じりに去っていった。少年が一両もの大金を払って得たのは、途方もない悔しさだけだった。




