1 旅立ち
「本当に行くのかい?」
その老人は言った。その台詞には、二つのものが複雑にからみあって共存していた。家は静かになった。少年の下駄を履く軽快な音だけが聞こえる。
「はい」
少年は答えた。その目にはまだ迷いがあった。少年は思っていた。自分はこのおじいさんを置いて、旅立とうとしている、その罪深さについて考えた。このまま置いていけば、この老人は間違いなく寂しさでいっぱいになって孤独死するだろう。
だが。
「おじいさん、今まで本当にありがとう」
彼は念じた。僕はもう決めたんです、おじいさん。僕は旅立たなくちゃならない。
「そうかい。こちらこそありがとう。今まで本当に楽しかったよ坊や」
老人は手を伸ばした。皺だらけで血管の浮き出た右手が、何かを求めて空を掴もうとする。老人はそのくぼんだ目の奥底の、もはやわずかな慈悲のまなざしを、少年に向けた。少年も理解した。老人の気持ちはただ別れを惜しんでいるだけではないのだと。少年も両手を伸ばした。程よくついた若々しい筋肉が、着物の上からでも分かった。
二人の体が交互に絡み合う。二人はかたく抱擁した。老人は左手に杖をついていたので、少々不格好になった。
「元気で。坊や。神様はいつも、お前の味方をしている」
老人は短く簡潔な言葉で気持ちを伝えた。彼らの間に、無駄な言語装飾はいらないのだ。言葉をあまり必要としない、それほどに、彼らの関係は密接だった。何しろ、少年が生まれて間もないころからである。
「ありがとう。本当にありがとう、おじいさん。おじいさんも、元気で」
少年も応える。少年の胸は、感謝の気持ちでいっぱいだった。だがそれだけではなかった。少年もまた、複雑な気持ちを抱えていた。証拠に、少年の表情は笑っていた。笑っていたけれども、単なる笑顔とは異なる、何とも言えない表情をしていた。
「わしはもう長くはないさ。お前の若さがうらやましいよ」
老人は冗談交じりに言った。年を取ることの重要性を知っていたからだ。
「そんな……、長くないだなんて言わないでよ」
少年は本心から、老いることへの素朴な悲しみを口にした。少年はその若さゆえ、老いること、その本質を知らないのだった。少年はただ、老人に生きていてほしいと願った。
「さ、そんなことはもういい。行きなさい、樹」
老人は少年に促した。老人も笑顔だった。刻まれた皺のせいで全体的に影が多かった。
「はい。行ってきます、おじいさん」
少年は決意した。僕は大人になる。大人になったら、おじいさんのもとへ、再び、かえって来よう。
少年は外へ出た。風が彼の体を優しく撫でた。
引き戸が閉められる。ゆっくりと。老人の呼吸に合わせて。老人は笑顔を少年に向けたまま、扉を閉めているのだ。そのわずかなはずの時間が、少年には千秋よりも長く感じられた。少年は急に、胸が苦しくなった。体から、喉から、口から、何かがあふれ出ようとしたように、少年はむせ返るような激流を感じた。鼓動が大きくなった。体温が熱くなってくるのが分かった。
「――待っ……」
引き戸が完全に閉められた。
「ありがとう……行ってきます、おじいさん」
今生の別れと、なるでしょうから。
少年は目頭の熱いものをどうしていいか分からずに困った。が、すぐに家から背を向けた。
行くんだ。もう後戻りはできない。僕の目の前には、旅路しか見えていない。少年は強い意志を半ば無理やり呼び起こして耐えた。
涙をぬぐう。
どこまでも続く果てしない空の色は、青かった。