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何も変わりがないような気がした。
だけれども、確実に変わっていることがある。
ここは扉の中なのだ。先ほどまで立っていたところとは、明らかに違うはずである。
そう確信しているはずであったが、変わっている気がしないのだ。だから、そういう感覚も正しいのかもしれない。
頭が混乱してしまうほど、ここは先ほど立っていた場所とそっくりであった。
まるで鏡の中の世界へ来てしまったようであった。
だが、そう思っているのは俺だけであったようだ。
ほかの三人は、鏡の中の世界のことよりも、失踪してしまった人たちがどこにいるのかということだけが、気がかりなようであった。
適応能力と言えばよいのであろうか。
環境が変わったことに違和感や、なにか自分が周りから浮いてしまっているように感じることは、ないのであろうか。
少なくとも俺にとって、すぐにこの環境に溶け込むことは不可能であった。
そう思っているものの、自分は鏡の中の世界に来てしまったのだろうか、と思っている自分もいるわけで、結局のところ、俺もほかの三人と同様に、無条件にこの環境を受け入れているのだろう。
そんなどうでもいいことと言ってしまえば、どうでもいいことを考えていると、ふと自分の足が止まっていることに気付いた。
すぐ近くにいると思っていた三人は、ずいぶん遠くへ行ってしまっていた。
俺は小走りで彼らのもとへ行った。
「何もないですね。木とか草とかいったもの以外には。」
坂口は、俺が追いついたのを見ると、そう言った。
「うん、確かに」
確かになにもなかった。
扉の中に入ってから、ずいぶん歩いた気はしていた。たとえここが鏡の中の世界であったとしたら、そろそろ民家の一つでも見えていいころである。
しかし何もなかった。
加えて、一日中歩き回っていたせいか、疲労も溜まってきていた。
四人の口数が減るのは必然であった。
しばらく無言で歩いていると、木戸が唐突に口を開いた。
「もしかしたら、いま私たちが類ているこの場所は、失踪した人たちが来た場所とは、異なる場所に来てしまったのかもしれませんね。」
それは誰もが思っていたものの、あえて口に出さなかった言葉であった。
認めたくなかったのだ。
すべてが徒労に終わってしまうのは。
だが、こうも何もないのでは、認めざるを得なかった。
もしかしたら、認めてしまったほうが楽になるのかもしれない。
来た道をたどって扉へと戻り、そこからもといた場所に戻ってしまえば、どれほど楽になるだろう。
だがそれは不可能であった。
俺たちが扉の中に入ったとき、後ろを振り向くと、扉がなくなってしまっていたのだ。
そのことを完全に失念していたのだ。
だからもう進むしかないのだ。
何があるかわからない。
何もないかもしれない。
ほかの三人も、そのことは理解しているだろう。
だからこそ、ここが目的の場所ではないのかもしれないということを、認めたくなかったのだ。
「あ、あれは。いやー、助かったなー。」
そんな絶望的な気分を変えたのは、坂口の気の抜けた声であった。
しかしそれは安堵に道満ちた声であった。
坂口は指差した。その方向を見ろ、ということであろう。
坂口が指差した方向を見ると、そこには民家があった。そして人々がいた。
集落があったのだ。
助かった。
今まで張りつめていたものがぷつりと切れた。その途端、俺は、はーぁ、と息をはき、膝に手をついた。
疲労感が一気に襲ってきた。
それを見たのであろう。
木戸が、
「情けないですね、先生。」
と言いながら近づいてきた。
「日頃の不摂生がたたったかな。でもまぁ、何とか辿り着けてよかったよ。」
「そうですね。でも私たちの仕事は今からですよ。失踪したっていう御坂茜さんを見つけないと。」
そうだった。
そのことを完全に忘れていた。
しかし、今は少し休みたかった。
それについては木戸も同じであったし、坂口たちもそのようであった。
「とりあえず、少し休ませていただきましょう。この体たらくでは仕事どころではないですからね。」
俺たちは、一番近くにいた、農作業をしていた三十から四十歳ほどの男性に、話しかけた。
「お忙しい中申し訳ありません。」
坂口がそう話しかけると、男は首にかけていたタオルで額の汗をぬぐい、笑顔で、
「いえいえ、お忙しいなどと。まぁ確かに、ひどく暑くはありますけどね。それで何の用でしょうか?」
と言った。
確かにひどく暑かった。こんなに暑くては、外に出ての作業などひどく苦痛であろう。俺のようなものにとっては、こんな日は部屋にこもって、涼しく過ごしたいものである。
しかし彼らは、そうはいかないのだろう。
俺が涼しく過ごせるのは、、木戸が俺の代わりに仕事をしてくれているからだろう。
だが、彼らはそうはいかないのだ。
農業という仕事は、生活に直結した仕事である。一日の怠惰は、一週間後の生活に悪影響を与えるのだ。
そうであれば、一日たりとも休むことはできないのだろう。
大変な仕事である。
だからこそ、昨今の農業従事者の高齢化や、後継者不足は深刻なことであろう。
そう思うものの、そんな月並みな感想しか持てず、深刻だ、大変だと言っている割に、何もしようとしない俺には、やはり無関係なことであると心の奥では思ってしまうのである。
用というのはですね、俺はそう言おうとしたが、その言葉は坂口に奪われてしまった。
「用というのはですね、いや用というわけでもないんですがね、少しお話を伺いたいと思いまして、お時間を頂けますでしょうか。それか、ほかの方でもいいのですが、とにかくお話を伺いたくて。」
坂口が歯切れの悪い言葉を発するのも、無理なかった。
内容が内容であるのだ。
いきなり失踪した人がいるのですが、こちらに来ませんでしたか、などと訊いたところで、受け取る側にとっては、全く要領を得ない質問として受け取られてしまうだろう。
理解してもらうためには、すべてを一から話す必要があるのだ。
ましてや、異界の住人相手ではなおさらであろう。
俺たちの、そんな微妙な状況を察してくれたのであろうか、男は、
「とりあえずお話をお伺いしましょう。それに、こんなところで立ち話では、暑いし、失礼に当たりますからね、ちょうど仕事も切り上げようとしていたところなので、まぁ、まずは我が家にお越しください。大したおもてなしはできませんが。」
と言って、俺たちを、招き入れてくれた。
俺たちは、その男、加藤悠一の後について、話を聞くために、彼の家へと行くこととなった。