10
俺は口を開けたままその場で固まってしまっていた。
目の前には御坂茜がいる。菊池を殺したかもしれない茜が。
茜は家の中に入るなり、深々とお辞儀をした。いつもと変わらず礼儀正しかったが、いつもの洗練された所作とは異なり、なにかぎこちないような動きだった。
正直言って、茜が菊池を殺したとは思えない。いや、もしかしたら俺は茜は殺したりしない、そんなようなことをする人ではないと思いたいだけなのかもしれない。
しばらくの沈黙ののち、重い口を開いたのは坂口であった。
「み、御坂さん、どうされたんです?」
坂口は緊張のせいなのか、すこし変わった質問をしてしまった。それに声もうわずっていた。
この家に入ってきて、どうされたはないだろう。ここに来る理由は決まっている。それに答えもある程度決まっている。
もし茜が犯人だとしたら、そうは考えたくないが、彼女の返事はおそらく当たり障りのないものになるだろう。菊池さんが亡くなったと聞いたから、などと言うに決まっている。
間違っても、私が菊池さんを殺しました、などとは言いに来ないだろう。
俺の頭の中では、すでに茜以外にだれが犯人となりうるのだろうと考えていた。彼女が犯人であるはずはないのだ。それに殺す動機だってない、と思う。そんなことを言ってしまえばここにいる誰もが動機はないのだろうが。
指輪だって本当に菊池の遺体のそばに落ちていたのだろうか。
もしかしたら、坂口が嘘をついているかもしれない。坂口が菊池を殺し、そしてその罪から逃れるために、茜に濡れ衣を着せたのかもしれない。
いやいや、坂口なはずはない。彼は、かれは。
俺は完全に混乱してしまっていた。いろいろ考えてはみたが、俺なんかに犯人が分かるはずはない。こういうことは木戸に任せるべきなのだ。無能な俺があれこれ考えたところで、わからないことが余計に分からなくなってしまい、結果的に自分の精神を磨り減らすだけである。
茜はしばらく黙って下を向いていた。そしてようやくその重い口を開いた。
「私が、私が菊池さんを殺しました。」
「え?」
俺は思わず声を出してしまった。
か、彼女は何を言っているのだろう。まさか彼女が、そんな、こ、殺すはずない。
俺の精神は、菊池の遺体を見た時と同じように崩壊を始めた。
木戸や坂口も動揺を隠せないでいた。木戸はそんな、そんなわけ、と繰り返し呟いていた。坂口は手で目頭を押さえていた。
俺の視界は歪み、そして身体はゆらゆらと揺れていた。
「先生、先生?」
俺の異変に気付いた木戸が俺に話しかけた。しかし頭の中にその声が響くだけで、俺は意識が落ちていくのを止めることができなかった。そして俺は。
気絶した。
目を覚ますと、俺の周りには木戸、坂口、茜そして加藤がいた。
ここは加藤の家の中だ。そして俺は布団に横になっていた。
「ああ、意識が回復したみたいですね、先生。」
そう言って木戸は、俺が起き上がるのを手伝ってくれた。
「ああ、大丈夫だ。一体俺はどうしちゃったんだ?」
「急に意識を失ってしまわれて。」
そう答えたのは茜であった。
茜の様子も、ほかの三人の様子もいつもと変わらないような気がした。
おかしい。
少なくとも木戸と坂口は、茜が菊池を殺したと告白したのを聞いたはずである。そうであれば、こんなふうにいつも通り接することは不可能だろう。
もしかしたら俺に負担をかけないように平然を装っているだけかもしれない。いや、たぶんそうなのだろう。彼らの動きを見るに、やはりなにかぎこちなさを感じる。俺はそのような気を使われたくなかった。だから、他人の気持ちを無視し場をわきまえず、単刀直入に訊いた。
「俺の聞き間違えかもしれないんだが、菊池を殺したというのは本当なのか?」
俺がそう言った瞬間、場が凍りつくのを感じた。
「せ、先生、いきなりなんてこと言うんです。」
木戸はひどく焦っていた。彼女のこんな表情を見ることなどほとんどなかった。また、坂口も何言ってるんですかもう、などと言ったが俺は無視した。
「なんでお前たちはこんなに平然としているんだ。この女は人を殺したんだぞ。怖くないのかよ、なぁ?」
俺はなぜか苛々していた。木戸たちの言動に腹が立ったのか、恐怖のあまりおかしくなってしまったのか、よくわからなかった。ただ無性に腹が立った。
「何イラついてるんですか先生。落ち着いてくださいよ。」
「落ち着いてなんかいられるかよ、横に人殺しがいて。」
俺はむきになっていた。木戸が発する言葉の一つ一つにいちいち腹が立った。俺たちが険悪になっていくのを見かねた坂口が、まあまあ2人とも落ちついて、となだめようとしたが、俺たちには無意味などころか火に油を注ぐようなものであった。
そうやって俺たち三人が互いに睨み合っていると、とうとう茜が口を開いた。
「みなさんやめてください。わ、わかりました、すべて話します。」
そう言った途端、俺の苛々はすっかり消えてしまった。木戸も同じようであった。
「では、よろしくお願いします。」
坂口はそういって手帳を取り出した。やはり記者なだけあって、どんな状況でもメモを取るようにしているのだろう。
茜は一息ついてから話し始めた。
「私は昨日の夜菊池さんに呼ばれて、この空き家に来ました。なぜこの家に来るように彼が言ったのかはわかりません。でも、それまで何度か菊池さんと二人で話したこともあって、彼を信用していました。だから特に不思議に思わず、何の躊躇もなくここに来たんです。」
どういうことだ。それって、
「それって、それじゃあ菊池とはそれなりに関係があったと?」
「関係って、ただ話をしただけですよ。他愛もない世間話です。」
驚いた。俺なんか菊池とほとんど話したことはなかった。そればかりか、菊池はほとんど話すことがないので、今思い出しても菊池の声を思い出すのが困難なほどである。
その菊池が茜と世間話をしているというのは、どうも想像しがたいことだった。
「その世間話というのは、具体的にどういうものなんですか?」
坂口が訊いた。
「本当にみなさんがする話と変わりませんよ。ただ」
「ただ?」
「ええ、なにか金銭面でトラブルがあるみたいで。かなり借金があるみたいなことをおっしゃっていたのを覚えています。」
金というのは、さまざまな問題を引き起こすものだ。うちに来る依頼主の多くは金銭トラブルか浮気が原因で来るのだ。殺人だって金銭絡みのことが多い。ただその場合殺されるのは、金を貸している側である。つまり、殺されるべきは菊池ではないのだ。だが、殺されたのは菊池である。だから、当然菊池が殺されたのは金銭トラブルが原因ではないのだ。
「そうですか。それではこの空き家に来た後の事について教えてください。」
「ええ。家の中に入ると菊池さんがいました。菊池さんは私が着くなり、僕を殺してくださいと言いました。」
「それで殺した。それはいくらなんでも。」
「いえいえ、もちろんそこで、はい分かりました、なんてことにはなりません。私はもちろん拒否しました。だって菊池さんを殺す気なんてこれっぽっちもなかったんですから。」
それじゃあ、
「それじゃあ、あなたは菊池を殺す気はなかったんですか。」
「はい。」
「でもそれじゃあおかしいじゃないか。矛盾してる。あなたはさっき菊池をを殺した
と言った。でも今度は殺す気はなかったと言った。そんな言い分が通ると思うあなたじゃないはずだ。」
俺は頭に血が上っていた。でも、それは菊池が殺されたことに対する怒りとは少し違う気がした。第一俺は菊池に対して何かしらの感情があるわけでもない。
でもこれほどまでに怒りを感じるのは、ここで起こったすべてのことが論理的ではないからだ。そして俺の頭ではそれらを処理しきれないだからだろう。
今まではわからないことがあったら逃げてきていた。でも、ここでは不可能だ。この須佐村では、その存在自体が訳の分からないものだし、そこから逃げる方法もわかっていない。
対面するしかないのだ。それがいかに非論理的なものであっても、困難なことであっても。
「先生の言うとおりですよ。私たちには何が何だかわからないんです。できればもっと詳しく教えてほしいんです。」
「そうですよね。私も動揺してしまって。さっき言ったようにわたしに殺す気は全くありませんでした。いくら菊池さんが殺してくれ、と言われても。同意殺人になりますからね。でもなぜ菊池さんが殺されたいのか、不謹慎な気はしましたが、とても興味を持ってしまいました。でも菊池さんはなにも言いませんでした。ただ、」
「ただ?」
「僕の命にはもう意味がない。せめて加藤さんの実験体にでもなれれば本望だと。」
加藤の実験体って一体何だ。なぜここで加藤の名前が出てくる。俺は不審に思った。それは木戸と坂口も一緒だったようだ。俺たちは、静かに下を見ていた加藤のほうを見ると、加藤は気まずそうに口を開いた。
「彼女が言ったことはすべて正しいです。私は茜さんに菊池さんが殺してくれと言ってきた、と言われたとき、チャンスだと思ったんです。だって死を見ることのできる絶好の機会じゃないですか。私は興奮を隠しきれませんでしたよ。」
な、何を言っているんだこいつは。絶好の機会だと。興奮だと。何をふざけたことを言ってやがる。俺はそう叫びそうになった。だが、俺よりも先に、
「あなたは何をふざけたことを。人が一人死んでいるんですよ。あ、あまりにも不謹慎じゃありませんか。」
坂口がそう叫んだ。
「私だって不謹慎だということは分かっているんです。でも、でも気になって仕方なかった。私は好奇心に勝てなかった。」
「そ、そんなことで、ふざけんなよっ。」
坂口は加藤の胸ぐらをつかんで、殴った。
俺たちは止めに入った。だが坂口が憤るのは仕方のないことだった。坂口が殴っていなかったら、俺が先に殴っていただろう。
気付くと加藤は気を失っていた。
その途端急に俺は冷めてしまった。なぜかはわからなかったが、肩の力が抜けてしまった。リラックスしたわけではない。冷めてしまった、という以外表しようがなかった。
坂口もまた同じく黙ってその場でうなだれていた。




