弐、三条殿、浦公英と宣うこと
季節も春めいてきました。相変わらず三条殿はサボってばかりですが。この花がこの時代にあったのかとか、この名まで呼ばれていたのかとかは、この際度外視で……
歌合わせの会から逃げてきた三条殿こと藤原匠を賀茂忠遠は珍しく素直に歓迎をもって屋敷に迎え入れた。まだ山に雪の残る花月の半ばのことである。早咲きの桜に似た花びらが肩や袖に纏わりついているのを熊に落とさせながら匠は笑った。
「歌の会など面倒でいかん。忠遠、御神酒をもってきたぞ。一杯やりながら庭の浦公英でも愛でようではないか」
「蒲公英を愛でるような甲斐性が匠にあったとは驚きだな」
それでも笑いながら忠遠は釣殿へ通した。
「歌の会は放り出してきて平気なのか?」
熊の運んできた干魚や芋の煮物に箸をつけながら匠は盃を傾ける。
「あぁ、『私の歌などに折込まれては、春めいてきたこの季節が勿体無いことです』とか何とか言ってきた」
「詭弁だな」
そう言いながら菜の花の御浸しを勧める。
「そうかな。あながち嘘ではないと思うがな」
「どうだか。京中の姫達が三条殿は慎ましく風流を好むと専ら噂しておるよ」
「そりゃ買い被りだ」
忠遠の盃に注いでやりながら悪戯っぽく言い、匠はげらげら笑いながら自分の盃に酒を注ぎ足す。忠遠は盃を口に運びつつ、口の端を歪めた。
「からいな。如何な姫君もお前の目には留まらんと見える」
「そんなことはないぞ、忠遠」
「ではどんな姫君ならお前のお前の眼がねに適う?」
「そうだなぁ」
匠は宙に理想像でも描き出さんとするかのように虚空に視線をやる。
「やはり美人がいいな」
「成程、流石は美女との誉れ高い三条尚侍を妹御に持つだけある」
三条尚侍とは匠の妹、朱乃のことである。京の五本指に入る佳人として知られている。匠はその言葉に鼻白んだ。
「は!朱乃なんぞ、喧しくてイカンわ。あないな遠慮会釈のないのは駄目だ。もっと楚々としてる方が良い」
「楚々?ならば東六条の一の姫はまことか弱いお方だと聞き及んでおるよ」
匠は首を横に振った。
「病弱なのはいかん。不健康では美人は成り立たん」
「ほほう、ならば近江典侍はどうかな」
「もっとはきはきとした方が良いな」
「弘徽殿の女御の、明石蔵人という女房殿は?」
「あぁ、あの黄色い声の女房か。あれは敵わんな」
「では関白殿のニの姫では?」
やっと匠はかるく頷いた。
「京の五大美女といわれとる中では一番だな。性格も円く心根優しいと聞き及んでおる。しかしまず高嶺の花というものだろう」
父親が関白ならばおそらく、末は中宮や東宮妃と望むことだろう。
「珍しく弱気だな」
「ふん、狐の賀茂忠遠が姫批評なぞ始める方がよっぽど珍しいわ」
「そうかもしれんな」
忠遠は少し笑って盃を干したのだった。
§
三条右近中将は蹴鞠が大の得意で、どのように鞠がいっても先ず落とすことがないといわれている。数ある匠の風聞の中では、忠遠もこれだけは真実だと認めている。
数人の公達が蹴鞠を楽しんでいるのを忠遠は簀子縁から見ていた。匠の鞠捌きは仲々で、始めてからまだただ一度も落としていなかった。誰もがどうにかして匠の失敗を誘おうとするのだが、その都度彼は更に面白い角度で来たとばかりに上手に受けてしまう。さほど彼が蹴鞠に入れ込んでいないところが打ち負かしたい気持ちを煽るらしく鞠はよく匠の方へ飛んでいった。
ふと、匠が鞠から目を逸らした。植込みの根元に視線が釘付けになっていたのだ。鞠はここぞとばかりに匠の方へ飛んでいった。が、よそ見をしている彼はそれに気付かず、鞠はぽこりと音をたてて頭に当たった。
「痛て」
頭をさすりながら彼は鞠を拾うと、照れ笑いを浮かべた。
「お怪我をなされてないか、三条殿?」
「あぁ、大事無い。蒲公英につい見とれてしまって……」
「蒲公英?」
鞠を仲間に渡すと、匠は簀子縁に上がり忠遠の横に腰を降ろした。
「いや参った参った」
「らしくないな、一体どうした?」
「昨日さぁ、夕餉に蒲公英が出たんだよ」
一瞬何のことやら見当がつかず、忠遠は眉を顰めた。匠は小さく笑った。
「ほうら。普っ通分っかんないよなぁ。梅も何で蒲公英の御浸しなぞ出したのだろう?」
梅とは匠の乳母で、彼の衣食住に関する全てを任されている気苦労の多い女性である。
「梅殿が……それは恐らくお前に季節のものを味わってもらおうという優しい心配りだろうよ」
しかし匠は苦虫を噛み潰したような顔のままである。
「だが、あれは尋常でなく苦いんだ」
「ははは……確かに苦いわな」
「途轍もなく苦いんだ!!」
拳を入れて彼は力説する。余程厭だったのだろうと忠遠は想像する。
「あまり梅殿を困らせるなよ」
「梅が俺を困らせるんだ」
匠はそう言いながら笑った。
§
ある日、忠遠は熊を伴って市に出かけた。極端に使用人が少ないので忠遠は自ら市に買い物に行くのである。市の活気に溢れものに満ちている様子は、公務に熱心でない忠遠にも安心を齎す。
「とのさま、豆売りがおりまする」
「豆か。買っておこうか」
豆売りに近付いたとき、忠遠は妙なものを見付けた。それは普通、采女らが野に摘みにゆく山菜の一つであろうに、そこでは何故か蔬菜であるかのように束ねられ売られていたのである。
「とのさま?それは蒲公英のように熊には見えまする」
「俺にも蒲公英にしか見えん」
すると蒲公英を売っている男が忠遠ににやりと笑いかけた。
「はっはっはっは。これは但馬の朝採り蒲公英だよ!これを食せば寿命が伸び、悪いところはたちどころに治ってしまう!潰して傷に塗り込めば忽ち完治、痒みも消えるし、声は小鳥のように美しく……」
忠遠は熊の背を押した。
「さぁ、熊。豆を買って帰ろう」
「はい、とのさま」
豆だけを買って忠遠は家路を辿ることにした。その道々、熊は言った。
「先刻の蒲公英売り……まるで三条様の仰しゃることを真に受けたかのようでしたね」
「確かに」
だが忠遠はまだこの蒲公英が京の一大旋風になっていることを知らなかった。
帰ると、屋敷の門のところに狩衣姿の匠が立っていた。大きな弓を持ち、袖と指貫の裾を絞っている。
「よぅ。今日は鶏を捕まえたぞ。これで一杯やらんか」
足を掴んで逆さ吊りに彼が見せたのは、鶏ではなく雉だった。
「匠……それは鶏ではないぞ」
「羽が生えてて足は二本、これを真逆俺だって兎とは言わんよ?」
梅が聞いたら泣き出しそうな科白を匠は吐く。
「いや、だから、……それは雉というんだ」
「食えるのなら何でも良い」
雉を受け取りつつ忠遠は溜息を吐いた。
「まぁ、上がれ」
熊がすぐに酒と肴を運んでくる。匠はそれを見てほっとしたように箸を取った。
「忠遠のところの食い物は良いなぁ。至ってマトモ」
「マトモ?普通だろう、こういうものは」
「そうでもないよ、最近は……」
ふと忠遠の脳裡に先程見た蒲公英売りの姿が蘇った。真逆な、と打ち消したとき匠は言った。
「どこ行っても、蒲公英、蒲公英……敵わんよ、もう」
「蒲公英?」
雉を調理して運んできた熊が唖然としたように忠遠を見た。匠はそんなことには全くお構いなしに続けた。
「酒には蒲公英の花が浮かんでいるし、庭には蒲公英を一面に咲かせてる者もおる。安芸守など国に蒲公英畑を作らせたと聞く。世の中どうかしてしまったのではないか?
おお、熊、それが雉なるものか。はや持ちゃれ。忠遠は食べたことあるか、雉」
確かに匠の言う通り、京中で蒲公英が俄かに流行となっていることを忠遠は翌日確かめることができた。食膳には蒲公英の御浸しや浅漬けが上がり、蒲公英摘みに采女らが野に繰り出し、文には蒲公英の花が添えられ、揚句の果てには白蒲公英は貴重とされ一輪につき白牛一頭と交換する者まで出る始末。大変な事態になっているようだ。
陰陽寮では陰陽頭と陰陽允達がこの異様な事態を真剣な表情で話し合っていた。忠遠にはこの事態の発信源の目星がついていたのでやや飽きれ気味に言った。
「たかが蒲公英。狼狽え召さるな」
「しかし忠遠殿……これは何か天変地異の予兆ではないだろうか?」
この狼狽ぶりを見ていると忠遠は飽きることはないと思う。
「貴公らは浦公英を何のものとして広まっているかをご存知か?」
陰陽允達は口を揃えて健康食品だ仙薬だと言い始める。きちんと調べてはあるようだ。
陰陽頭は忠遠に言った。
「陰陽助よ。お主はこの騒ぎをどう見ておる?」
忠遠は物々しく言った。
「ちょっとした流行ものでしょう。間もなく収まりましょう……もし収まらぬならこの忠遠、陰陽助の名にかけて収めてみせましょうぞ」
「いやに自信ありげだな」
「それだけ大した事ではないということですよ」
§
その晩匠は、さても珍しいことに二藍の直衣に垂纓冠をつけ、檜扇を手に、あたふたと忠遠のところにやってきた。否、まるで逃げ込むかの如くで、屋敷の主の目を丸くさせた。
「何事だ」
「何もこうもない!父上の顔を立てて酒宴に出たら、あっちでも蒲公英、こっちでも蒲公英、酒には蒲公英が浮かんでるし、蕗だと思えば蒲公英の軸だし、あまつさえ蒲公英の絞り汁で作ったという鬼も殺せそうなぐらい苦い酒……いやいや、あんなの、酒とは呼ぶに値しない!!何故あのようなものを皆笑って飲める!?」
忠遠は喚き散らす匠をさて置き、熊を呼んだ。
「車の用意を」
「頼む!忠遠!今晩は泊めてくれ!」
忠遠は彼を無視して出かける準備を始める。
「忠遠……」
半泣きの匠に忠遠は言った。
「済まんな、匠。お前の父君との約束の方が先約だ」
「へ?父上と?」
間の抜けたような表情の匠の襟を掴むと、忠遠は熊の用意した牛車に乗り込んだ。
「熊、出せ」
熊も心得ているらしく、行き先を告げられずともすぐに牛車は動き出した。
やがて牛車の着いた先は、匠が逃げ出してきた関白邸であった。牛車を降りるなり匠の父三条内大臣が飛んできて、しっかと忠遠の手を握った。
「忠遠殿にはご迷惑をお掛けしてしまうな、いつもいつも」
「いえいえ、内大臣どのにはお世話になっておりますゆえ。……逃げるな匠」
隙を見て逃げだそうとした匠の直衣の地を忠遠は掴む。
「今日は我慢して姫と話でもして来い。お前の好みの筈だ」
「忠遠と父上が結託しておったとは……」
「つべこべ言わずに行って来い」
突き倒されるかのように押し出され、仕方なく匠は妙な笑顔の多い宴席に戻る羽目となった。
と、ふと振り返ると熊がついてくる。
「あれぇ、熊?忠遠と一緒に帰ったんじゃないの?」
「いいえ、とのさまから三条様が逃げ出さぬよう見張っておれと申し付かっておりまする」
よく見ると、匠の腰には目立たぬように縄が結わえ付けられていて、その先を熊がしっかりと握っていた。
「おのれ忠遠……」
酒の席にいてはまた蒲公英攻めに遭うため仕方がないので匠は関白の二の姫を見に行くことにした。元々それが目的の宴席である、父も文句は言うまいと呟きながら熊を連れて歩く様は、誰も見てこそいなかったがかなり滑稽だった。
姫は東の対にいると聞いていた匠は真っ直ぐそちらへ向かった。姫は灯台の灯る御簾の内側にいた。侍女が言葉を取り次ぐ。
「三条さま、本日の趣向、楽しんで頂けたでしょうか」
「趣向?」
「はい、蒲公英尽くしにございます」
匠は納得した。今日の匠を苦しめた蒲公英の洪水はこの姫の心尽くしであったと。
「白い蒲公英は淡路から、蒲公英酒は全国津々浦々の蒲公英という蒲公英を集めさせ作らせたのでございます」
そして結論を出した。如何な佳人であろうと慎ましやかであろうと、こう蒲公英ばかり並べ立てられては堪らない。これは逃げを打つべし、と。
匠は適当に相槌を打って立ち上がった。
「何処へ行かれまする、三条様」
匠は熊がついていたことをすっかり失念していた。
「あ、いや、だから、その、ね」
意味不明な言葉を並べる匠に熊は言った。
「二の姫様にお会いしたのですから、三条様はもう御自由です。とのさまはお屋敷でお待ちしておるとのことです」
熊の言うことに理解しきれぬ部分を感じつつも、忠遠はもう再び関白邸に連れ戻さないと確信し、匠は熊と共に忠遠の屋敷に戻った。
「やはり来たか」
「なんだよ、気に障る言い方だなぁ」
忠遠は何も言わず匠に酒をを勧めた。熊がすぐに肴を運んでくる。
匠は初めは黙って飲んでいたが、いい加減回ってくると眉根を寄せ唸るように文句を言い始めた。
「大体あの蒲公英。人をおちょくるのも大概にしろってもんだ。白かろうが黄色かろうが蒲公英に過ぎん!」
「やれやれ」
忠遠は苦笑しながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば匠。二の姫のお顔は拝見してきたか?」
「顔なぞ見てくるものか。あんな蒲公英女」
すると忠遠の瞳にやや同情めいたものが一瞬浮かんだが、酔いの回った匠にはそれに気付く余力はなかった。
忠遠は盃を干す。
「……そうか。惜しいことしたな」
そう声をかけたときには匠は瓶子を抱え高鼾をかいていたのだった。
§
翌日、関白の二の姫が浦公英の趣向で匠に不評を買ったことは京中の噂になり、世を騒がせた蒲公英旋風は静かに去って行った。
熊は忠遠に問うてみた。
「何故とのさまは三条様に惜しいことをした、と仰しゃったのですか」
忠遠は少し笑った。
「俺は関白殿の二の姫をこの目で直に見たことがある……大層美しくいかにも匠の好みそうな佳人だったよ」
そしてこう付け加えた。
「いいかい、熊。
これは匠には、内緒だよ」
熊は真顔でこくりと頷いたのだった。
蒲公英。このお酒がレイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』のように汁を絞って発酵させたものなのか、花を漬け込んだものなのか、絞り汁を混ぜ込んだものなのか(いずれにしても苦そう……)、味付けはお好みに任せます。尚、三条殿の妹君は朱乃ちゃん。幼い頃から割と冷静ちゃんです。三条ぱぱも春で浮かれたんでしょうかね……