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断罪の夜会で王太子が『この女を庇う者はいるか』と言ったので、王宮の使用人が全員、手を挙げました【連載版】

断罪の夜会で王太子が『この女を庇う者はいるか』と言ったので、王宮の使用人が全員、手を挙げました

掲載日:2026/10/11

【たくさんの高評価ありがとうございます。連載スタートしました。2話から続きです】



「この女を庇う者は、いるか」


 王太子フィリップ殿下の声が、大広間の高い天井に響いた。

 殿下の二十歳の誕生日を祝う夜会だった。シャンデリアの下に、国じゅうの貴族が並んでいる。その真ん中に、私は一人で立たされていた。

(誰もいないでしょうね)

 私は目を伏せた。悲しくはなかった。ただ、そういうものだと思った。


 私はエステル・ヴァランシエンヌ。公爵家の娘で、ついさっきまで王太子殿下の婚約者だった。

 十二の春に婚約が決まってから六年、王妃教育のために王宮の西棟で暮らしてきた。朝は語学、昼は歴史と礼法、夜は外交の書状の読み方。時間割はお茶会に出る隙を一刻も残してくれなかったから、貴族の令嬢の友人は一人もできなかった。人前で笑わない私を、社交界は「氷の公爵令嬢」と呼んでいる。

 父は北の国境の守りについていて、今夜はいない。殿下は、それも分かっていて今夜を選んだのだろう。


 殿下の腕には、男爵令嬢のミア様がすがりついていた。大きな瞳に涙をためて、小さく震えている。

「春、お前はミアの茶に毒を入れた。夏、ミアのドレスを引き裂いた。秋の初め、ミアを西棟の階段から突き落とした。先月、ミアの馬の鞍の腹帯を切った。そして先週、ミアの母の形見のブローチを盗んだ」

 殿下は一枚の紙を掲げた。

「これは、お前が侍女に宛てた命令書だ。ミアを痛めつけろと、お前の字で書いてある。言い逃れはできんぞ」

 私の字ではなかった。けれど、弁明の機会は与えられなかった。殿下はそのまま広間を見回し、冒頭の言葉を口にしたのだ。

 貴族たちは、一人残らず目を逸らした。

 殿下は満足そうに笑った。誰も手を挙げないことを、殿下はよく分かっていた。私がどれだけ一人なのかを、皆の前で見せつけるための問いだった。

 壁ぎわには、近衛騎士団長のオスカー様が立っていた。十二の春から、王命で私の護衛を務めてきた方だ。

 その方も、動かなかった。

(護衛は、主を庇う者ではありませんものね)

 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


 王宮に来た最初の夜のことを、なぜか思い出した。

 十二歳の私は、広すぎる西棟の部屋で、声を殺して泣いていた。そのとき、湯たんぽを持ってきてくれた年配の侍女がいた。彼女は何も聞かずに、私が眠るまで寝台の端に座っていてくれた。翌朝、名前を聞いた。マーサ、と彼女は言った。

 その日から、私は王宮で働く人の名前を、一人ずつ覚えることにした。

 名前を知っていれば、この広い王宮で、ひとりではない気がしたから。

 殿下は、六年かけても、マーサの名前を覚えなかった。


 そのとき、視界の端で、銀の盆が揺れた。

 壁ぎわに控えていた給仕の少年が、盆を片手に持ったまま、もう片方の手をまっすぐに挙げていた。

 広間が、ざわめいた。

「……給仕風情が、何のつもりだ」

「お、王太子殿下が、庇う者はいるかとお聞きになりましたので」

 少年の手は、震えていた。それでも下がらなかった。

(下ろしなさい、レオ)

 声に出せたら、そう言っていた。王太子に逆らった給仕が、明日どうなるか。あの子は分かっていないはずがなかった。

 レオ。十六歳。二年前の春、西棟の廊下で、厨房から渡された献立表を握りしめて泣いていた子だ。字が読めないことを、誰にも言えずにいた。私はその晩から毎晩、寝る前に十五分だけ、彼に字を教えた。

「僕に字を教えてくださったのは、お嬢様です。今夜の献立表を全部読めるのは、お嬢様のおかげです」

「字を教えたから何だ。それで罪が消えるとでも言うのか」

「僕には、罪のことは分かりません」

 レオは、盆をそっと床に置いた。

「でも、分かる人を知っています」

 そう言うなり、レオは広間の奥の、使用人の通路へ続く扉に走っていった。


「可哀想に。きっと脅されているのね」

 ミア様が、殿下の胸に顔をうずめた。

 白髪の侍従長ベルトランが、静かに一歩前に出た。

「殿下。王宮の作法では、殿下ご自身が公の場でお尋ねになったことにお答えするのは、罪にはなりません」

「黙れ。手を挙げた者は全員、明日から王宮に置かぬ」

「承りました。では、そのお言葉を陛下にもお伝えしてまいります」

 侍従長は深く一礼して、広間を出ていった。国王陛下は今夜、別室で隣国からの書状を読んでおられる。

 出ていく前に、侍従長が一瞬だけ壁ぎわに目をやったのを、私は見た。オスカー様が、ほとんど分からないほど小さくうなずいたのも。

 何の合図なのかは、そのときの私には分からなかった。


 ほどなくして、使用人の扉が開いた。

 入ってきたのは、エプロンをつけたままの大男だった。腕まで粉で白い。料理長のゴードンだ。

「坊主が、手を挙げろと言って厨房に飛びこんできた。だから来た」

 ゴードンは、粉だらけの手を高々と挙げた。白い粉が、きらきらとシャンデリアの光に舞った。

「春の、毒の茶の日。お嬢様は厨房に一度もいらしていない。厨房の出入りは、毎日、帳面につけている。あの日の茶を淹れたのは私で、運んでいったのは、ミア様の侍女だ」

「料理長なんて、いくらでもお金で――」

 ミア様の声を、ゴードンの低い声がさえぎった。

「去年の冬、うちの娘が高い熱を出した。夜中の鐘が鳴るころ、裏口に薬の瓶と毛布が置いてあった。王立薬師院の、平民にはとても買えない薬だった。……あとで分かった。お嬢様が、ご自分のお手当てで買ってくださったものだと。誰にも言うなと、言われていた」

 大男の目に、涙がにじんだ。

「お嬢様が私にくださったのは、金じゃない。薬ひと瓶と、毛布一枚だ。今夜それを言わなかったら、私は一生、娘の顔をまともに見られない」

 手は、二本になった。

 殿下が、鼻で笑った。

「料理番と給仕か。それがどうした。この女の護衛ですら、手を挙げぬではないか」

 オスカー様は、壁ぎわで、まっすぐ前を見たままだった。

 私は、もうそちらを見ないことにした。


 扉が、また開いた。

 夜会の夜には、ドレスの裾を踏んだ客のために、洗濯場のお針子が控えの間に詰めている。その一人、アンナが、針山を手首につけたまま入ってきた。

「夏の、破られたドレスの件で、申し上げます」

 アンナは、迷いのない手つきで挙手した。

「あのドレスは、破られたと訴えが出る前の日に、一度洗濯場へ参りました。裾に小さなほつれがあるだけでした。ミア様の侍女が持ってきて、ここをもっと大きく裂いてから繕えるかと、聞かれました。お断りしました。繕い物の札は、日付と侍女の名前を書いて、まだ洗濯場に残っております」

 ミア様の肩が、びくりと揺れた。

 アンナは、あかぎれだらけの指を胸の前で握った。

「冬になると、繕い物の籠の底に、いつも軟膏の小さな壺が入っていました。名前は書いてありませんでした。でも、籠を洗濯場まで自分で戻しに来る方は、王宮で、お嬢様だけでしたので」

(……気づかれていたのね)

 私は、また目を伏せた。今度は、少し違う理由で。


 三本目の手が挙がったとき、開いたままの扉の向こうから、泥のついた長靴の音がした。

 庭師のエルマーだった。今夜は庭の灯籠に火を入れる係で、まだ手に火縄を持っていた。磨きあげられた床に、点々と泥の跡がついた。

「秋の初めの、階段の日。あの日は昼に嵐があった」

 エルマーは、ゆっくりと手を挙げた。

「夕方の鐘の時刻、お嬢様は薔薇園で、嵐で倒れた株を、わしと一緒に植え直してくださった。爪の間まで泥だらけになって。薔薇園から西棟の階段までは、走っても十分はかかる。お嬢様は、鐘が鳴っているあいだ、ずっとわしの隣で土を掘っていた」

 エルマーは、殿下の背後を指さした。大きな花瓶に、深紅の薔薇が溢れるほど生けてある。

「あのとき植え直した株の花だ。今夜の広間のために、いちばんいいのを切った」

 殿下が、思わず後ろを振り返った。

 自分の誕生日を飾る花が、誰の手で生き延びたものなのか、殿下は知らなかった。


 次の足音は、駆けてきた。

 馬丁のジャックが、息を切らして広間に飛びこんできた。夜会の客の馬車で、厩はいちばん忙しい時刻のはずだった。

 ジャックは片手を挙げ、もう片方の手で、古びた革の帯を高く掲げた。

「先月の、鞍の腹帯です。これが、その腹帯です」

 広間じゅうの目が、革に集まった。

「切り口を見てください。刃物で切ったなら、こんなふうに毛羽立ちません。古い革が、すり切れて裂けたんです。お嬢様は去年から三度、馬具を新しくするよう、願い出てくださっていました。この腹帯も、願い出の証として取っておけと言われて、厩にしまってありました」

 ジャックは、殿下をまっすぐ見た。

「馬具の予算を止めて、夜会の費用に回せとおっしゃったのは、殿下です」

 貴族たちのあいだに、低いざわめきが走った。何人かが、殿下から半歩離れた。


 もう、扉は閉まらなかった。

 侍女が来た。従僕が来た。皿洗いの少女が、濡れた手のまま来た。燭台係が、門番が、厩の少年が来た。使用人の通路を、噂が火のように走っていくのが分かった。広間の後ろの壁ぎわが、エプロンと前掛けと揃いの上着で埋まっていく。入りきれない者が、扉の外の廊下に並んだ。廊下の向こうにも、まだ続いていた。

 その一人ひとりが、黙って手を挙げた。

 私は、その顔を一つずつ見た。全員の名前を、私は知っていた。

 皿洗いのリサ。去年、割れた皿で指を切ったとき、私が包帯を巻いた。燭台係のトマ。高い梯子が怖くて、毎晩、震える足で燭台に火を入れている。門番のハンス。冬の夜番に、私が厨房から運ばせた温かいスープを、いつも半分だけ残して、詰所の猫にやっていた。

 誰にも見せたつもりのなかったことが、一つずつ、手の形になって挙がっていた。

 いちばん後ろに、白髪のマーサが立っていた。皺だらけの手を、精いっぱい高く挙げて。

 喉の奥が、熱くなった。

「黙れ! 全員、出ていけ!」

 殿下が叫んだ。

 誰も、動かなかった。


「ブ、ブローチはどうだ」

 殿下の声が、裏返った。

「ミアの母の形見だ。この女の部屋から出てきたと、ミアの侍女が証言している。そうだな、ノエル」

 ミア様の後ろに控えていた、栗色の髪の侍女が、びくりと顔を上げた。

 ノエル。ミア様付きの侍女。先週、私の部屋でブローチを見つけたと訴えた人だ。そして――毒の茶を運んだのも、ドレスを洗濯場に持っていったのも、ミア様の侍女だった。ミア様の侍女は、ノエル一人しかいない。

 ノエルの手が、胸の前で、半分だけ持ち上がった。

 そして、下がった。

 ミア様が、振り返りもせずに言った。

「ノエル。あなた、分かっているわよね」

 広間が、しんと静まりかえった。三百人近い手が挙がったまま、誰も息をしていないようだった。

 ノエルの顔は、紙のように白かった。

 私は、彼女と目を合わせて、小さく首を横に振った。

 言わなくていい。あなたが手を挙げれば、あなた自身の罪も明るみに出る。ここにはもう、十分すぎるほどの手がある。

 ノエルは、私を見た。

 それから、唇を噛んで、まっすぐに手を挙げた。

「……私が、嘘を申しました」

 声は、震えていた。

「お茶も、ドレスも、ミア様に言われて、私が運びました。ブローチは、ミア様の衣装箱の底にありました。エステル様のお部屋で見つけたことにしろと。言わなければ、紹介状なしで暇を出すと」

「その女も嘘をついているのよ!」

 ミア様が叫んだ。ノエルは、首を横に振った。

「エステル様は、私の母の葬儀に、名前を伏せて白い花を送ってくださいました。私は、エステル様とお話ししたことも、ほとんどなかったのに。……あとで花屋に聞いて、分かったんです」

 ノエルの目から、涙がこぼれた。

「エステル様が嘘をつく方なら、あのとき名前を書いて、恩を売ったはずです。……今、首を振ってくださったのも。私を庇おうとしてくださったのも」


 そのとき、正面の大扉が開いた。

 侍従長ベルトランに先導されて、国王陛下が入ってこられた。

 陛下は、足を止めた。

 広間を埋めつくす手を、端から端まで、ゆっくりと見渡した。開け放たれた扉の向こう、廊下の果てまで続く手を。

「庇う者はいるか、と聞いたそうだな。フィリップ」

 殿下は、答えられなかった。

「……で、これが、その答えか」

 侍従長が、静かに答えた。

「王宮の使用人、三百十二名。夜番の者、病で休んでいる者の名代まで、全員でございます」

 陛下のお姿を見て、貴族たちのあいだで、ぱらぱらと手が挙がりはじめた。さっきまで目を逸らしていた伯爵が、子爵夫人が、慌てたように腕を伸ばしている。

「今さら挙げた手は、数えぬ」

 陛下の一言で、その手は、ばつが悪そうに下りていった。

「陛下、ここまでのことを――」

 申し上げかけた侍従長を、陛下は手で制した。

「よい。料理長の話のあたりから、扉の外で聞いていた。入れば、皆が口をつぐむと思うてな」


「へ、陛下。これは命令書です。この女の字で――」

 殿下が差し出した紙を、侍従長が受けとった。一目見て、侍従長は言った。

「これは、殿下の書記、ヴァルターの字でございます」

 殿下の後ろで、若い書記の顔から血の気が引いた。

「エステル様の字は、よく存じております。毎年、使用人一人ひとりの誕生日に、エステル様が手書きのカードをくださいますので」

 侍従長は、少しだけ声を落とした。

「三百十二枚。一枚も、同じ文面はございませんでした」


「陛下」

 低い声がした。

 壁ぎわから、オスカー様が進み出て、陛下の前に膝をついた。

「近衛騎士団長、オスカー・グレイ。手を挙げるお許しを」

「……今まで、なぜ黙っていた」

「近衛の警護日誌は、陛下の御前でなければ、証として開くことを許されておりません。近衛の名で殿下に異を唱えれば、王太子に剣を向けたことになります。侍従長が陛下をお呼びに出た以上、私の務めは、陛下のお戻りを待つことでした」

 オスカー様は、まっすぐに手を挙げた。それから、革表紙の分厚い帳面を、陛下に差し出した。

「六年分の、警護日誌です。罪状の日付のすべてに、エステル様のお居場所が書いてございます。毎日、侍従長の印をいただいております」

(あのうなずきは、これだったのね)

 陛下に命じられて、侍従長が日誌を開いた。

「春、毒の茶の日。……終日、図書室にて外交文書の講義。余白に、『晴れ。お笑いにならなかった』」

 侍従長は、別の頁をめくった。

「秋の初め、階段の日。……夕刻、薔薇園。庭師エルマーと株の植え直し。余白に、『嵐のあと。お笑いになった』」

 侍従長は、最初の頁に戻った。

「六年前、春。初日。……夜、お泣きになる。侍女マーサが付き添う。余白に、『雨。明日は、お笑いになるとよい』」

 侍従長が、小さく咳ばらいをした。

「……余白は、毎日ございますな。六年分」

 広間のあちこちで、誰かが息をのむ音がした。

 私は、オスカー様を見られなかった。顔が熱かった。氷の公爵令嬢が、聞いてあきれる。

 六年。この人は、私が一度でも笑ったかどうかを、毎日、書きとめていたのだ。


 陛下は、日誌を閉じた。

 そして、殿下に向き直った。

「フィリップ。今夜、お前の杯に最初に葡萄酒を注いだ者の名を言え」

 殿下は、口を開いた。何も出てこなかった。

 自分の目の前に盆を差し出した少年の顔を、殿下は一度も見ていなかったのだ。

「……エステル。分かるか」

「レオです、陛下」

 私は答えた。

「十六歳。二年前の春まで、字が読めませんでした。今は、献立表をすべて読めます。いつか、ゴードンのように厨房を任されたいそうです」

 広間の後ろで、レオがしゃくりあげる声がした。ゴードンが、その頭を粉だらけの手でかき回した。

 陛下は、長いあいだ黙っておられた。

「数えていなかったのは、お前だけだったようだな。フィリップ」


「エ、エステル」

 殿下が、私に向き直った。さっきまでの勢いは、どこにもなかった。

「お前なら分かるだろう。俺は、ミアに騙されていたんだ。頼む、庇ってくれ。お前が手を挙げてくれれば――」

 私は、殿下の目を見て答えた。

「殿下。手を挙げるかどうかは、一人ひとりが自分で決めることですわ。今夜、ここにいる皆が、そうしたように」

 殿下の顔が、くしゃりと歪んだ。


 陛下は、広間を見渡して、問われた。

「では、私も聞こう。――王太子を庇う者は、いるか」

 誰の手も、挙がらなかった。

 殿下の腕にすがっていたミア様の手さえ、するりと離れた。

「フィリップを廃太子とする。立太子の儀は、第二王子のもとで改めて行う」

 陛下の声が、広間に落ちた。

「ミア・ハートレイは偽証の罪により、北の修道院へ。ハートレイ男爵家は、爵位を取り上げる。書記ヴァルターは、文書偽造の罪で裁きにかける。侍女ノエルは、自ら罪を明かしたことを汲み、罰は軽くする」

 ミア様が床に崩れ落ちた。誰も、手を差しのべなかった。

「それから」

 陛下は、目を逸らしていた貴族たちを、一人ずつ見た。

「今夜、黙っていた者の顔も、私は覚えておく」

 何人かが、膝から力を抜いたように見えた。


 陛下は、最後に私の前に立たれた。

「エステル。婚約は、王家の非として解く。……そなたには、詫びねばならぬ」

「陛下」

 私は、深く膝を折った。

「お詫びでしたら、どうか、この者たちに。殿下は先ほど、手を挙げた者は全員、明日から王宮に置かぬと仰いました。皆が明日も、ここで働けますように」

 陛下は、しばらく私の顔をご覧になっていた。

「誰ひとり、王宮から出さぬ。王の名にかけて」

 広間の後ろで、誰かが泣き出した。それにつられて、あちこちで鼻をすする音がした。挙がっていた手が、ゆっくりと下りていった。


   ◇


 広間を出るとき、使用人たちが左右に分かれて、道を作ってくれた。

 一人ずつ、頭を下げていく。レオ。ゴードン。アンナ。エルマー。ジャック。ノエル。その後ろにも、ずっと続いていた。皿洗いのリサ。燭台係のトマ。門番のハンス。私は、通りすぎながら、一人ずつ名前を呼んだ。呼ばれるたびに、誰かが顔をくしゃくしゃにした。

 回廊の手前で、マーサが待っていた。

「お嬢様」

 あの最初の夜と同じ、少しかすれた声だった。

「ちゃんと、ひとりじゃありませんでしたでしょう」

 私は、答えられなかった。黙ってマーサの皺だらけの手を握ると、マーサは、あの夜と同じように笑った。


 オスカー様が、いつものように半歩後ろについた。

 西棟へ続く長い回廊に出て、ようやく、私は口を開いた。

「六年、黙って見ていらしたのですか」

「護衛は、黙って見るものです」

「……日誌の、余白は」

 オスカー様は、少しのあいだ黙っていた。

「あれは、護衛の仕事ではありません」

 回廊の窓から、夜の薔薇園が見えた。灯籠の火が、エルマーの植え直した株を、ぼんやりと照らしていた。

「今日の日誌には、何とお書きになるのですか」

「晴れ、と」

「それから?」

 オスカー様は、前を向いたまま言った。

「お笑いになった、と。……これから、そうなりますので」

 私は、こらえきれずに笑ってしまった。

 六年ぶりに、声をあげて。

 半歩後ろで、オスカー様が、ほんの少しだけ口元をゆるめた気配がした。


   ◇


 翌朝、西棟の私の部屋に、朝食と一緒に献立表が届いた。

 いつもは厨房の書記が書く献立表が、今朝は少し歪んだ、大きな字で書かれていた。

『きょうの あさごはん やきたての パン かぼちゃの スープ おじょうさまの すきな りんごの コンポート』

 いちばん下に、一行。

『おじょうさま あしたも ここに いてください。 レオ』

 字の練習をした二年の夜が、一枚の紙になって、私の前にあった。


 その日の昼、陛下から新しいお役目を賜った。内廷の総監――王宮の家政を預かる役だ。三百十二人の使用人のかしらとして、私は王宮に残ることになった。レオの献立表の願いは、その日のうちにかなった。

 知らせが西棟に届いたとき、廊下の向こうで、誰かが小さく歓声を上げて、誰かに叱られる声がした。叱った声も、笑っていた。


 夕方、オスカー様が侍従長の部屋で警護日誌に印をもらうあいだ、私は扉の前で待っていた。

 戻ってきたオスカー様の手の中で、開いたままの頁が、ちらりと見えた。

『晴れ。お笑いになった。――何度も』

 オスカー様は、慌てたように日誌を閉じた。

 私はまた、笑ってしまった。


 この女を庇う者は、いるか。

 ――いましたわね。数えきれないほど。


続きは連載2話からご覧ください!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


連載版も始めています。エステルと、三百十二本の手のその先を、続きで書いています。


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― 新着の感想 ―
司法長官「当職は、立場上、誰も庇いませんが、申し上げます。 手続きに瑕疵があります。 裁判官と検察官をお兼ねになる権限は、王太子殿下は元より、国王陛下にすらございません」
庇うっていうのは対象に非があるかないかは別にして、とにかく味方になるよ一緒に戦うよっていう精神的な支えになることだと思う。なので庇うついでに反証を出されるとなんか焦点がズレた感じがする。 「庇うもの…
出席者以外の言質を取るのにどれだけ時間がかかったのか気になる。 途中で挫折したのでフォローあったらすみません。
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