11 疾走
走る。
血反吐を吐くくらい、必死に走る。
怒り狂った森の主から、とにかく全力で逃げる。
死の感触と緊張に飲まれまいと、必死に冷静さを保とうとする。
客観的に物事を捉えるように努める。
目の端の地面に、木が丸々一本後ろから飛んできたのが見えたが、その木の絶叫のような軋み音なんかより、自分の心臓の音の方が大きかった。
自分の駆ける足よりも速く鼓動し、肋骨の内を殴り続ける。
なんでこんなにドキドキしてるんだ。
恐怖からか。
それとも興奮からか。
その境界線が曖昧になっていた。
こんなに必死に走ったのは、人生で初めてだ。
緊張からか足の力が妙に抜ける。強張っているんだ、きっと。
息が浅い。ちゃんと吸え、吸え、吸え。
「アンちゃん」
「なんだ!」
息も絶え絶えで答える。
「お前右の鼻の穴、鼻毛出てる」
空気を読まない、場違いなことを言うダイン。
「こんなときに身なりをどうこうできるかっ!」
「いや、すまん。つい気になってだな」
「そっちは余裕かもしれないけれど、ボクは体力がないんだっ! 辛そうなのが見て分からないかい⁉」
「そうさな。生きることというのは苦難の連続だ。確かに辛い。だがそれにどう向き合うのかが俺ぁ大事だと思うぜ」
「いや、確かに『辛い』という悩みは抱えているけれど、そんな人生単位のベクトルの話での辛さではなく、コンマの単位で可及的速やかに解決したい命のやり取りの辛さだ」
「しかしよ、見てみろ、あのタイタンタートルを。こうして走っていて、特に距離を離すことはできないが追い付かれる様子はない。この速度を保ち、飛んでくる木々をひょいひょいっと避けるだけで、なんら危険のない役回りじゃねえか?」
「そこに不安があるから危機なんだって言ってるんだろう! ボクの足を見ろ。アンタの巨木に比べてボクのは小枝並だろう」
「まあ、確かに俺の足は巨木並だし、筋肉には自信があるから比べちまったら駄目なものだと思うが、それにしたってちと貧弱過ぎやしないか? ズボンで足自体は見えないが、この程度で息を上げてる奴は子供にだっていねえぞ」
よく生きてこれたな、と謎の感心と珍獣でも発見したかのような目でこちらを見てくる。
必死に走らなくてはいけない状況と、ダインの気が抜けるような会話で気がおかしくなりそうだ。
なんだか腹も立ってくる。
嫌味ではなく、本心で言ってそうなのが怒りを助長する。
ムカつく心を抑えようと躍起になっていると、ふと気づく。
なんか、軽くなった。
体ではない。多分気持ちの方。
胸の内に寄り掛かっていた重さが軽くなっている。
きっと、感情を吐き出したからだ。
その分、気負いが少なくなった。
力が入らなかったのは、緊張から来るものなのは分かっていた。
その緊張がダインとの会話で緩んだのだ。
「少しは落ち着いたか? そんな切羽詰まった顔すんな。気楽に行こう。こんな体験滅多にない」
「そんなポジティブな考え、自分は思いつかないよ」
空気を読めないのかと思ったが、意図的だったようだ。
その方法が少し腹が立つが、緊張をほぐすという点で効果的だ。
きっと緊張で動けなくなった経験というのがあるのだろう。あるいは身近に緊張しやすい人間がいるのかもしれない。
緊張が抜けた足で、地面を精一杯蹴る。
だが体力が増えた訳じゃない。身体的に辛いのは変わらない。
乱れる呼吸。加速する心臓。疲労により感覚が研ぎ澄まされているのか、呼吸と鼓動がやけに大きく聞こえる。
次第に耳は外側へと向かう。
岩がゴロゴロと、木々がバキバキと音を立てて飛んでくるのが聞こえてくる。
辺りに舞う砂塵、木片。
時折背中に当たるつぶて。
何が後ろで起きているか、見はしない。
怖いからだ。
その分、意識は耳に集中してしまう。
途中何度も岩や木そのものが大砲の玉のように飛んでくるが、後ろを振り返って避ける余裕なんてものはない。技もない。
全て運任せだ。
けれど一瞬、ちらりと後ろを振り向いてしまう。
そこにはダインが少し後ろを走り、岩や木を大盾で弾いてる姿が映った。
そうか、彼が飛んで来る岩や木から守ってくれていたのか。
どうやら、運ではなかったらしい。
ボク一人だったら、一体何度死んでいただろう。
ダインのその行動がいかに負担になっているのか、無茶なことなのかは、彼を見ていれば分かる。
滝のような汗。頬にできたかすり傷。荒い息。
彼の無茶は、ボクが囮となるという無茶から来るものだ。
だから走れ、走れ、走れ。
ボクの為ではなく、ダインの為に走れ。
喉が千切れてでも、心臓が胸から突き抜けても走れ。




