第十五話 「自由の匂い」
私はある日、家を抜け出した。風魔法を極めるために。
最初は苦労した。当然だろう。今まで貴族の娘として生活していた私だ。文字通り住む世界が違うと感じた。
でも、楽しかった。それは、幼い頃から冒険というものに憧れを抱いていたことが大きい。家にある冒険譚は毎日のように読んでいたし、少しのスリルを求めていた。
冒険者になり少し経つ頃には、まるで自分が物語の主人公になったような気分だった。
だからこそ、慢心した。自分は出来ると錯覚してしまった。
慎重さを失い、大胆に動いた結果、大型モンスターに見つかってしまったのだ。
自分はこの場で死ぬ。そう直感した。結局、家にいた頃と変わらない。何もできない自分のままだ。家を飛び出すという少し大胆な行動をしただけで、人と違うと思ってしまった。いや、人との違いはあるかもしれない。もちろん、下に振れているという意味で、だ。
魔の手が迫る。
私は目を閉じなかった。今までの逃げ続けた人生の中で、唯一逃げなかったのは、この瞬間だけかもしれない。しかし、無駄な行為だ。向き合うならば、自分の才能に、自分の境遇に、兄との差に、エアリア家の矜持に、使用人の視線に、卑下してくる言葉に、風魔法に、もっと向き合うべきだった。
無駄な人生だ。
そう心の中で呟いた瞬間ーー
ブボォォォッ!!!
どこからともなく空気の爆ぜる音が轟いた。そして、一人の男が姿を現す。
目にも止まらぬ速さだった。気づいた時にはもう近くにいる。男はその速度のまま、私の目の前の魔獣に体当たりした。
衝撃で砂埃が舞う。それと同時に妙な匂いも感じた。ただ、それよりもあの男は何者なのか、という思いが頭を埋め尽くした。
圧倒的なスピード、あれはかつて見たセリオス兄様以上の速度である。
その時、私は思い出していた。エアリア家で読んだ文献の一冊。風の真理に触れた者の超高速移動。
私は彼の弟子になることを決めた。
師匠の名前は、ハライ・タイシ。なんとなくお腹が痛そうな名前だと感じた。
師匠とはいえども彼に貫禄はなかった。だが、実力は確かだ。そして、何より温かい人物だった。彼が魔法を放った後は妙な温もりが辺りに広がっていたが、私が言いたいのはそういうことではない。人柄の面である。私の失敗も笑って流してくれる。エアリア家にそんな人物はいなかった。
師匠との生活に慣れ始めてきた頃のある日、ある男が現れた。
「セリオス兄様」
「リリィ。家を飛び出してどこにいるかと思えば……見知らぬ男と共にしているとはな」
声は冷たく、風の刃のように私の心を切り裂いた。そして、兄は師匠と戦い、ある真実を暴いた。
「貴様の魔法は屁属性魔法だ!!」
その瞬間、私の世界は一瞬止まった。師匠は慌てて否定していたが、思い当たる節がある。あの爆音。あの匂い。
やっぱり、あれは……オナラだったんだ。
胸がチクリと痛む。私が信じていた風魔法は、屁魔法だった。
◇
自室のベット。そこで寝ていた私は目が覚めた。
「なんだか外が騒がしいですね」
眠たい眼を擦り、ぐっ体を伸ばしてからベッドを降りる。
周囲の音を拾うために、よくよく耳を澄ましてみると様々な声が聞こえてきた。
「侵入者が現れたぞぉぉぉ!」
「屁で戦う男が逃げた!」
「中庭には全裸の剣士がいるぞ!」
全裸の剣士に思い当たる人はいない。しかし、屁で戦う男――その言葉で思い当たる人物はいる。
私は急いで部屋を飛び出した。そして、曲がり角を曲がったその時――
「…師匠」
彼がいた。ボロボロになりながら、兄と戦っていたのだ。相変わらずの匂いを辺りに充満させながらも必死に。
彼は一国の貴族に貴族に喧嘩を売る意味を分かっているのだろうか。何の為に、なぜそこまでするのか。
分からない。
でも彼のことがわからないなんていつもないことだ。師匠を量ろうとすること自体間違っているのかもしれない。
それこそが彼の本質。何にも囚われない風のような人。いや、風のように無色透明ではない。異彩を放つ何か。常識という空気に混ざるだけで周囲をざわつかせる、そんな存在。
兄のように完璧ではない。むしろ不器用で、どこか抜けていて、気づけば空気を台無しにしている。
彼の周囲に充満する匂いは、どこか懐かしくて、温かかった。風に色も匂いもないと思っていた。けど、違うのかもしれない。本当の風は、自由で、どこへでも行けて、何にでも混ざっていける。そして、誰かの生き方を肯定できるほどに、優しいものなんだ。
ああ、そうか。私、ずっと風に囚われてたんだ。エアリア家なんて、閉じた部屋の中で回っているだけの空気じゃない。風はもっと自由なはずだ。
私も、自由になりたい。エアリア家の娘としてじゃなく。風魔法を使う一人として。師匠の弟子として。
そう決めた瞬間だった。兄と師匠のぶつかり合う風が、とたんに止んだ。
静寂の中で、師匠が立っていた。勝ったのだ。あのセリオス兄様に。その姿を見て、私は思わず胸の奥が熱くなる。誇らしさと、安堵と、そして少しの驚き。
だけど――
「……まさか」
呟く師匠の背後で兄が立ち上がる。ボロボロの体から溢れ出す魔力。その掌に渦巻くのは、これまでに見たこともないほど濃密な風。空気そのものが悲鳴を上げるように震え、屋敷中のカーテンが裂け飛ぶ。
「この魔法を対処してみせろ、タイシ!」
師匠の顔には疲労が滲んでいた。もう、動けない。私は一瞬で理解した。このままでは師匠が、死ぬ。
「……もう、逃げない」
自分でも驚くほどに体が動いていた。魔力を練り上げ、輪っかを作った指を前へ突き出す。兄の風と師匠の屁、どちらにも負けない、私だけの風を。
「ウインド・バズーカ!!」
咆哮のような風が走る。師匠へ迫る刃を正面から打ち消し、爆音と衝撃波が屋敷を揺らした。壁が崩れ、絵画が舞い、天井の装飾が砕け散る。それでも、私は止まらなかった。
やがて風は収まる。荒れてしまった屋敷の中で、兄と師匠の視線が私に向けられている。
まずは師匠の視線に答えた。彼はとても驚いた顔をしていて、ボロボロで、愛おしく感じた。だから、自然と笑みがこぼれた。次はセリオス兄様だ。私は息を整え、真っすぐ兄を見据える。
「守られてばかりの私じゃ、いられないんです!」
その言葉は、胸の奥から自然に溢れた。
兄はゆっくりと立ち上がる。衣服の裾が破れ、風を孕んで揺れていた。いつもの冷たい表情ではなく、どこか穏やかな顔だった。
「リリィ。お前が……そこまでの覚悟で自分の道を選んだのなら、俺はもう何も言うまい」
「兄様……」
「父上には、俺から伝えておく。お前の旅路を、誰にも邪魔はさせん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。兄が――あの誇り高く、誰よりも厳しかった兄が、私を認めてくれた。
夜風が髪を揺らし、私の頬を撫でていく。その風の中に、確かに感じた――自由の匂いを。




