第十四話 「禁域」
耳を裂くような突風とともに、風の刃が振るわれる。反射的にケツをブシュッと噴かし、ギリギリでかわす。
「おいおいおい!お前も屁で加速かよ!」
「違う!風魔法で加速してるんだ!……風の速度はこの程度じゃないぞ」
セリオスの動きがさらに加速する。全く目で追うことができない。風の刃が連続で襲いかかり、俺は必死に屁を連発した。プシュ、プススッ、ブボッと、リズムを刻むように。
それでも、刃は確実に俺の肉をかすめていく。最初はふくらはぎに浅い切り傷がひとつ、次に腕、肩、背中…そして頬。気がつけば、全身のあちこちに細かい痛みが広がっていた。
体力もじわじわと削られていく。呼吸は乱れ、胸が苦しい。骨盤底筋に力が入らない。視界が揺れて、耳の奥で自分の鼓動だけが響く。どれだけケツを連打しても、攻撃の雨は止まらない。
「はぁ……はぁ……やっべぇ……反応が追いつかねぇ!」
「遅い、遅いぞ! その程度の屁では、俺には届かん!」
このままじゃやられる。もっと速く動かなければ――いや、違うな。だって俺は風使いじゃないのだか
ら…リリィにはずっと嘘をついてきた。屁を風だっていう嘘を。でも、それはやめると決めたはずだろ原井大志!俺は屁使いだ!そして、屁の本当の強みは臭いことだ!
俺の脳裏に浮かぶのは、焼き芋屋台でのこと。ジーム爺との奇妙な邂逅だ。あの時、気づいたら目の前にいたはずの爺さんが、次の瞬間には背後にいた。あの強烈な匂いと、思考が途切れたような感覚。
あれは……なんだったんだ?俺はずっと考えていた。あの技の正体を……
そして今、一つの仮説にたどり着く。
「……そうか。あれは――」
俺はケツに全ての力を込めた。もう小出しじゃない。限界を超える一撃だ。
「鼻が死んでも構わねぇ!この一発に俺のすべてを懸ける!嗅覚よ、沈め!常識よ、砕けろ!腐敗の香りに包まれし禁域――屁霞の園ッッ!!」
ブシュゥゥゥゥッッッ!!!
異様なほど濃厚で、強烈な悪臭が辺りに広がる。目に見えぬはずの空気が歪み、セリオスの動きがピタリと止まった。
「なっ……ぐっ……!? な、なぜ……身体が……動かん……!」
まるで時間そのものが凍り付いたかのように、セリオスは硬直している。
上手くいったようだな。
俺は震える唇を噛みしめ、呟いた。
「これが、爺さんの……いや、俺の新しい屁の力――屁霞の園。ただひたすらに追い求めたのは臭さ。それは、脳が自己防衛を始めるほどの匂いだ。感覚を遮断し、動きを止める。最終的には意識をも手放す激臭さ」
「そ、んな…ふざけた…力で…」
セリオスは次第に意識を失っていく。
その姿を確認した俺は、ふらつきながらもセリオスの背後へ回り込んだ。ヘイズワールドで相手を無力化できるのは、もって十数秒だ。だからその前に、決着をつけなければならない。
「……もう、これで最後だな」
呼吸は荒く、ケツも限界を迎えている。もはや一滴の屁力も残っていない。俺は酷使した尻をそっと撫で、感謝を込めて呟く。
「よくここまで頑張ってくれたな……最後は拳で決める」
腰を落とし、拳に力を込める。屁が尽きた今、俺にできるのはただのパンチ。それでも全力だ。
……その時だった。
「なっ!? あの臭い男はどこだッ!?」
セリオスが意識を取り戻したらしい。目を見開き、辺りを見回している。だが、もう遅い。
俺を探そうと、こちらに振り向く――その瞬間、渾身の右ストレートを顔面に叩き込んだ。
「おらああああぁぁぁ!!!」
「ぐぉっ!!?」
セリオスの身体が地面を転がる。徐々に勢いが弱まり、静止した。
戦場に残るのは、自身の荒い息の音と屁の臭さだけ。
「……終わった、か」
ギリギリの戦いだった。ジーム爺の魔法に気づけていなかったら、負けていただろう。そもそも奴が近距離戦を選ばず、遠距離から魔法を放ち続けていたなら、屁霞の園の範囲外だったかもしれない。だが、勝ちは勝ちである。リリィを探しに行く権利を得たのは確かなことなのだ。
「突き当たりを右に曲がって奥の部屋…だったか」
ゆっくりと一歩ずつ歩を進める。静まり返った廊下に、靴音だけが乾いた音を立てて響いた。
コツッ、コツッ。
その静寂を破るように、背後でヒュウと風の音が鳴った。最初は勘違いかと思った。けれど、その風は次第に強くなり、やがて俺の髪を逆立てるほどに荒れ狂い始める。
「…まさか」
気のせいのはずだ。気のせいだと信じたい。この想いを確信に変えるため、俺はゆっくりと首を回し、後ろへ視線を向ける。
セリオスが立っていた。血と汗に塗れ、全身をボロボロにしながらも、確かに立っていたのだ。その身体からは風のうねりが漏れ出し、まるで周囲の空気ごと震えているようだった。
「…まったく、化け物みたいな臭さだったな」
その男は、血に濡れた口角を吊り上げて笑う。
「マジかよ」
俺にはもう、奴と戦う力は残されていない。絶体絶命だ。
セリオスの笑みが消えると同時に、彼の掌に膨大な魔力が集まっていく。
「この魔法を対処してみせろ、タイシ!」
牙を剥いた風の奔流が俺の体を切り裂こうと迫る。避ける暇なんてなかった。体はもう限界で、ケツはぴくりともしない。
「くっそ……ここまでかよ!」
セリオスの生んだ風が目前に迫り、俺の皮膚を裂くその瞬間――
「ウインド・バズーカ!!」
鈴の音のような声の詠唱が、耳を打った。
巨大な風の砲弾が横から飛び込み、セリオスの魔法を正面から迎え撃つ。二つの風がぶつかり合い、爆ぜる。強烈な衝撃波が屋敷を揺らし、壁の絵画や装飾が次々と吹き飛んでいく。
思わず腕で顔を覆った。吹き荒れる暴風や飛んでくるガラスの破片から身を守るために。
やがて、嵐は止んだ。
立ち込める煙の中、見覚えのあるシルエットが浮かぶ。長い金髪を風に揺らし、指は肛門のようなのような形を作っている。
あの構えは――
「…リリィ」
その少女はこちらを一瞥し、ニコリと笑うとセリオスへと視線を向けた。その瞳は決意を宿したような力強いものだった。
「守られてばかりの私じゃ、いられないんです!」




