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Noctuelles  作者: u2la
5/33

I-5

「あんたみたいな変わり者を好きになるなんてね」


頬杖を突きながら、わたしを頭から舐めるように眺めてエリザは、にやけ交じりにそう言った。


皮肉的で嫌味たらしい表情だが、これが彼女なのであることはもう分かり切っている。その決して良いとはいえない性格と周囲への印象が、当時娼館で変わり者として扱われていたわたしと彼女を友人として結び付けたものだった。


「あなたに言われるのは心外ね。むしろ小説家先生に ”変わってる” なんて言われるなんて光栄なことなのかしら」


わたしは笑って返す。お互いに手頃な大きさの石を拾って投げ合うのが、わたしたちのいつものコミュニケーションだった。


「なんというか、あの人は優しいんだ」


普段の冗談を交わし合うのとは違ったわたしの様子に、エリザは馬鹿にした態度をするのはやめたらしい。


「そもそも旦那は外国人なんだろう。会話とかどうしてるんだ」


「元々隣の国の出身で、お互いの母国語だとあまり通じないから、なんか皮肉な形だけど、たまたま二人が共通で習っていた言葉があって、初めて会ったときからそれで会話しているのよ。母国語までいかなくとも、二人ともだいぶ話せるし、特に困っていないわ。


それに彼はここで仕事しているから、わたしの国の言葉もある程度は分かるし。まあ、時々もどかしいこともあるけれど。彼の訛は可愛いのよ」


少々込み入った話や、抽象的な話で、ニュアンスの機微などが伝わりにくいことはあるが、その程度だ。生活上で問題になることは殆どない。


「こういうのは言葉じゃないんだろうな。気持ちを伝えられるのは言葉だけじゃないからな」


「あら、小説家なのに言葉だけじゃないなんて、面白いこというのね」


透かさずエリザの揚げ足を取りにかかる。


「確かに小説は言葉で伝えるしか無いけれど、言葉は結果的に最後に残った形であって、読書っていうのは、読んでいる人と作者の共同作業みたいなものだと思うんだよ。


言葉から読み手がその状況や意味をイメージする。そのイメージされたものから直接、読み手自身の中に何かを伝える。そこでは言葉は浮かび上がるイメージの触媒であって、その全てではない。そんなことがあるとわたしは思うんだよ」


いつもはくだらないことばかり話している彼女から、時折出る真面目な小説論は存外嫌いではなかった。


「それで、結婚には満足しているのか?ネタになるかも知れないからな。聞かせろよ」


「彼のことはもちろん好きよ。でも、結婚してこれまでより近づいたはずなのに、まだ彼がわたしに”届いていない”みたいで」


「元々仕事で出会ったんだろう。少し順番というか、色々な出来事が逆転して起きたからなんじゃないか。純粋で純潔な恋愛とは逆の順番だ。その結婚が、果たしてあんたら二人の何を変えるんだろうか、ということなんだろうな」


その言葉に、少し考え込んでしまう。


普通の恋愛なら、恋に落ち、二人の間には愛が生まれ、結婚して、初夜を迎える。でも、わたしたちの関係は、その逆。夜から始まり、結婚し、愛を求める。


結末から始まったわたしたちは、一体そこから愛にたどり着けるのだろうか。普通の人が持つべきものが、わたしたちにはぽっかりと欠けているのではないか。その代わりに原罪とも言える何か大きな罪を背負っているのではないか。


しばらく黙っていたわたしの様子を見た彼女は、何かと考え込んでしまいがちなわたしのたちを思い出したのか、コーヒーに口をつけてから話を切り替えた。


「夜はお盛んなのかい。結局のところ、それが男女の睦まじい仲を保証することは、長い人類の歴史が裏付けているじゃないか」


彼女はまた笑った。ふざけた話だが、どうにも馬鹿にはできない説得力がある。そこには一片の真理はあるように思われた。


「求められればするわ。でも、正直に言うと、あまりしたくはないのよ。仕事だったらいいわ。こちらも仕事だと割り切れるし、仕事なりのやりがいもある。相手を満足させるという目的と、それの見返りに得るお金という、単純明快な図式があった。


でも、今は難しいわ。今の彼はもう客ではなくなってしまった。仕事ではない私的なセックスなんだったら、わたしが満足したっていいはずでしょう。


でも、わたしはそもそもセックスが好きではない。むしろ嫌いといっても良いかもしれないわ。小さい頃のこともあるから」


「あのろくでもない親戚のことか」


「ええ。あそこから逃げ出して路頭に迷ってなければ、体を売る仕事なんてやっていなかったでしょうね。彼と出会って客層も良くなってから、初めて仕事として認められるようになったけど。


彼と結婚して、その娼婦の仕事もやめてしまったから、仕事でのセックスというのはもうないけど、逆説的というか皮肉だけど、仕事の方が気楽である意味で満足感があったのよ」


自分でそう言いながら、改めて皮肉なことだなと思う。


「それじゃあ、今のあんたと彼。結婚する前と、どう違うってのよ」


「セックスが減ったわね」


自嘲気味にそう答えた。


「それってむしろ後退しているんじゃないの。旦那は不満抱えてるかもよ」


エリザはいぶかしむような表情をして、指をテーブル上で小刻みに叩いている。


わたしと彼の関係は、そもそも夜から始まっているのだから、セックスの寡多が本質的な意味で関係性を大きく変えたりはしない。それに。


「でも近いうちに、愛がわたしたちを繋げるはずだわ」


愛。その言葉を聞いて、ため息をついてエリザは足を組み替える。


「愛ねえ。まったく、それが分かんないな。


あたしに言わせれば、愛なんて神と同じような概念だよ。現実の都合の悪いことは、それを信じてさえいれば全て解決されると思い込む。全ての出来事の目的に座する権利を持った全能の概念。それが何なのか、実在するのかも分からないのに、だぜ?


人生における機械仕掛けの神ってことさ。愛が機械仕掛けだなんて一層皮肉だけどな。もちろん別に信じること自体に不利益がある訳じゃない。だからまあ、個人の勝手だとあたしは思ってるけど」


「相変わらず不敬虔なのね」


「現実的だと言ってもらおうか」


そう笑うエリザは変わらない。娼館の女たちの大半は、娼婦としての自身に物語を見出し、その過酷な現実を肯定し始める。いつか館の外に出ていくのだと口にしながら、その檻の中に進んで残り続ける。しかしエリザは違う。彼女は物語ではなく、常に現実の側を変えようとする。それが外を夢見る娼婦たちには疎ましかったのだろう。


「あんたも娼婦をやっていたとはいえ、元は良いところのお嬢さんで修道院寄宿学校の箱入りだから、結婚が神格化されちゃって変な期待しすぎてるんじゃないの。


そもそもあんたみたいなやつが結婚するなんて、それ自体が意外だったけれど」


結婚とは”外”から二人を結び付けるための契約に過ぎない。そんなことは分かっている。しかし、それが二人を結び付けることが、いずれ”内”的な関係性に変換されていくはずだ。そうでなければ一体どうして”既に”愛し合っている二人が、”改めて”結婚などする必要があるのだろうか。


二人の間に愛が生まれ、二人はお互いを大切な半身として一つにつながる。そして、大切な相手を留めておくために結婚する。相手が大切だからその相手と結婚する、という因果は、夫婦だから相手を大切にする、という因果の逆転を生み出す。そして、その二人は因果の円環によって、外からも内からも二人は結び付けられ、巡り廻り、より深く強い愛に到る。


わたしは、愛が有り得るということをこの身を持って知っている。夢と現実の間に結ばれたお互いを完全に理解し合う愛が成立するのだから、同じようにあなたとわたしの間にも愛を結ぶことができるはずだ。


普通の人たちは、先に愛に至った後、それがどんな感覚かは分からないけれど、それを円環の中で永遠化するために結婚をする。わたしと彼は、ただそれに向けてその順番を逆から辿っているだけ。そうすれば、始まりに戻る。”最後”には”最初”の愛に到るのだろう。


「わたしは彼との関係の先に愛を求めている。しかし、それがいつどんな形で実現されるのか、わたしをどんな形で満たしてくれるのか、それがまだわたしにも良くわかっていないけれど。でも、この結婚がその楔になるはずだわ」


エリザはわたしの言葉に呆れているようだった。


「あんたの話を聞いていると、間違えた方向に行かないかが心配になるな。いつもそうだけど、あんたって簡単なこともわざわざ小難しく考えるようなやつだから」


そんなことは、わたしにも分かっている。


「小説のネタにしてくれても構わないわ」


そう冗談めかす。わたしの夢のことを話したら、小説家としての性分で彼女は食いつくのだろう。しかし夢のことは彼にしか話していない。数少ない気心の知れた、この関係をそう言って良ければだが、そんなエリザに対しても話さずにいる。それがわたしが彼女との間に求める心地良い距離感だった。


「ま、わたしだったら結婚なんてごめんだけどな」


エリザはカップを煽る。もう3杯は飲んでいる。酒じゃないのだから。


「でもわたしにはとても大事なことなのよ」


その言葉を最後に、エリザはそれ以上馬鹿にはしなかった。


「今は旦那の家で暮らしているんだろ。生活には不満はあるのか」


「暮らしは快適よ。彼は稼ぎもあるし、何もかも心地よく用意されて、満たされているわ。


でも言ってみると、とても暇なのよ。働いてもいいとわたしは言ったんだけど、もちろん娼婦以外の仕事よ、彼は家に居てくれと言うの。家のこと以外にあまりやることがなくて退屈だわ。


彼も忙しくて朝早くに音楽院に仕事に出て、夜にだけ帰ってくるような暮らしをしているから、日中はわたし一人で本を読むくらいしかすることが無いわね。彼の本棚は充実しているから、しばらくは読むものには困らないだろうけど」


へえ、と言った彼女は、しばらくして思い出したように切り出した。


「そういえば、本読んでるんだったら、最近書き上げた小説があるんだけどよ。読んで感想聞かせてくれよ。これまでは、この街の風景や日常を題材に書くようにしてきたんだけど、もう少し凝った話も書こうと思ってな」


「あなたの小説は好きだから別に構わないわ。どんな話なの」


「ちょっとややこしいけどな。主人公が色んな架空の世界に入り込むんだよ。まだ仮題だけど、Fictionese って題名にしようと思ってる」


Fictionese。 虚構語、といったところかしら。どこか耳馴染みのあるタイトル。以前に同じ題の小説を読んだことがある気がする。


「あなたのその小説って最後に主人公は死んだりするかしら」


その質問は彼女は目を丸くした。


「なんで分かるんだよ。確かにそうだけど」


「昔に同じタイトルの小説を読んだことがある気がして、その本だと主人公が確か最後に死んでしまうのよ。細かい話の筋は忘れてしまうけど、その結末だけは覚えている」


そう話している内にわたしははっとした。視界が幾重にもブレるような既視感がわたしを捉えていた。まずい、これは“月のわたし”の知識だ。


「誰かが同じような小説を書いてるっていう話ほど小説家に堪える話はないぜ。よくできたと思ったんだけどな。仕方ないから題名は変えるかな」


彼女は少し沈んだ表情を見せた。いつもの大雑把な性格とは対照的に、創作家としての彼女は謙虚で繊細だった。なんだかわたしは申し訳ない気持ちになる。励ましておくとしよう。


「ごめんなさい、色んな本を読んでこんがらがってるのかも。違う題名だったような気もするわ。だからそのままで大丈夫よ。自信を持って出していいと思うわ。


あなたの書く話は面白いから、今回のも、きっと100年後、200年後まで売れるような大ベストセラーになるわよ。わたしが保証する」


「なんじゃそりゃ」


とエリザは表情を和らげて笑った。

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