I-25
まさか、こんな結末になるとは思っていなかった。
とうとう本拠点まで地球軍に乗り込まれ、覚悟を決めて自分も武器を手に取って戦おうとしたところだった。政務官たちに後ろから地下施設の長期睡眠装置に突き落とされた。
思いを寄せていた彼が、わたしといることを選び地球を裏切った彼が最後に見せた微笑みは、薄れゆく意識の中でどんどんと離れていった。女王はいずれ来る再起の日ために眠り続けるのか、国交上の交換材料になるのか。結局初めから彼は裏切ってなどおらず地球側に付いていて、眠りついたまま殺されるのか。”このわたし”の目が覚めた今、もうその真偽は知る由もない。
もう眠っても向こうのわたしに入ることが出来ないようだった。わたしが眠っても、その夢のわたしは今も眠り続けているのだから、その彼女の夢であるわたしの番にそのまま戻ってくることになる。常にこのわたしだけが続く。そういうことなのだろうか。
筆記具を指の上で器用に回す。わたしの頭も同じように回っているはずだが、ここ数日何も浮かんでこない。新しい記憶が何も無い。その迷宮にはどこまで行っても自分しかいない。こうしている間にもわたしたちの距離は離れ続けていく。
直感している。もう向こうでの新しい記憶が入ることはないのだろう。これまでのことはまだ覚えているが、それも時間と共に枯葉が1枚1枚と落ちていくようにわたしの中からゆっくりと薄れていくのだろう。
わたしは今のこの現実を捉えかねていた。なぜ世界は固定化され、ずっと"このわたし" の番で在り続けるのか。
考えられる一つは、月のわたしとは、このわたしが見ている”夢”にすぎなかった、という可能性。単に何かをきっかけにして、もうその夢を見なくなったということだ。
そしてもう一つは、このわたしとは、月のわたしが見ている”夢”にすぎなかった、という可能性。ずっとわたしの番であるのは、ずっと彼女が眠り続けているからであって、このわたしという”夢”を今も見続けているということだ。
わたしは鈍い目眩を覚えた。”今このわたしである”という一つの揺るぎない事実が、この全く相反する二つの可能性を、同時に、決定的に裏付けようとしていた。
なぜそのようなことが起こり得るのか。時の関節は外れ、因果は捻れてしまったのか。これまでと一体何が変わったのか。一体何が間違っているのか。わたしは混乱していた。
しかし、そんな思案とは全くの無関係に、別次元に、わたしはわたしだった。わたしは気だるい眠気を感じ、重くて鬱陶しい肉体を感じる。これが夢であろうが現実であろうが、わたしが既に今ここにいる、という切り離された実感だけが残された。思わずその感覚に吐き気を催す。
これは決して確定することが出来ない。だが、そうであったとしても、そのような行き場のない不安が、わたしには解決する術のない漠然とした不安が、このわたしの中に居座り続けている。
せめてもの救いとして夢の中で死ぬことを恐れる必要はもうなくなった。寝ることを恐れる必要はない。もう月の夢は見ないはずだから。月のわたしは単に夢だったのかもしれない。そして今もこのわたしは夢で在り続けているのかもしれない。夢と現実は、まだその矛盾する理解の上で結び付き合っている。それは、これまでわたしを満たしていたはずの愛の残滓のようなものだった。
彼の言う通りだったのかもしれない。鏡の横から実像と虚像を対称的に眺めようとしていたのだ。しかし、そんなことはもう出来ない。その両方を外から眺められる立場など存在しない。
わたしは鏡に囚われる。
全てを見通す慧眼さえも、自分のその目だけは見ることが出来ないように。このわたしとあちらのわたしが横に並んでいる姿を、このわたしが眺めることなど出来ないはずだから。
夢と現実はもう交わらない。初めからそうであるべきであったように、互いのあるべき位置に戻り、お互いを眺め合っている。いや、そうではない。そんなことはあり得ない。そんな場所に立つことは出来ない。
最後の指し手。Qg7#。チェックメイト。長らく引き分けを続け、勝負がつくことの無かった、お互いを完全に知り尽くしたはずの夢と現実の一人指しは、最初で最後のわたしの敗北で決着を迎える。その”あなた”の決断を”わたし”は認められるだろうか。
筆記具を置いて、ぱたんと手帳を閉じる。いつも内からわたしを満たしていたはずの何かがぽっかりと欠けていた。誰も居ない静かな昼下がりの居間はいつもより広かった。長くなり始めた影が忍び寄り、怖くなったわたしは着替えて家を出た。
音楽院までの道のりは遠くはなかった。背筋の伸びた守衛に尋ねると彼の研究室を親切に教えてくれた。キャンパスの中には弦の音、金管楽器の音などが響いていた。時折すれ違う、あどけなさの残る生徒たちの表情は眩しかった。身なりを見るに裕福な家柄なのだということがわかる。
同じ年くらいの時、わたしは闇の底に居た。砂の城が波にさらわれ、一瞬にして崩れ去るように、順調であったはずのわたしの家は一夜にして海の藻屑と消えた。わたしは暗い海の中を漂い続ける。彼がそこから引き上げてくれるまで。家が続いていればこんな恵まれた人生もあったのだろうか。
しかし、過ぎたことを嘆いても仕方がない。それは既にこのわたしの物語ではない。
中庭に沿った廊下の突き当りを曲がると、奥までドアが並び、ピアノの音が響いていた。ドアを1つ、また1つと通り抜け、奥から2番目のドアに346という数字を見つける。守衛が教えてくれたのはここだった。
わたしはドアに耳を当てる。傍から見れば怪しい人間に見られるだろうが、今はそんなことは気にならなかった。扉越しに中からはピアノの音、そして時々聞こえる彼の話し声、そして若い女性の声がぼんやりと聴こえた。
しばらく逡巡した後、わたしは結局いてもたっても居られず、静かにドアを開けて、中を覗き込んだ。窓に向かって二台のピアノが置かれていたが、彼と生徒であろう女性は右側のピアノに並んで腰掛けている。二人は連弾をしているようだった。わたしは中に入り、音を立てないように静かにドアを閉め、二人の演奏を黙って眺めていた。
時々互いを見合いながら二人が奏でる音と音は重なり、声部は溶け合い、掛け合い、絡み合い、豊かな響きを作り出し、一つの音楽が形作られていく。生徒の腕前はかなりのものだということは素人のわたしにも明らかだった。彼の色白く細長い指が鍵盤の上で踊っている。それは籠から放たれ自由を得た鳥のようだった。
それを傍から眺めているわたしは、何かに疎外されているようで惨めに感じられた。
しばらくして演奏は終了した。
「いいんじゃないか。こちらのパートの音もよく聴けているし、よく練習できていると思うよ」
その時、彼はこちらを見てわたしの存在に気がついたようだった。一瞬その目が動揺したように見えたが、すぐに生徒に目線を戻した。
「これでこの授業は以上にしよう。また後の授業で」
授業が閉じられ、凛とした雰囲気の女子生徒は荷物をまとめて、すれ違いざまにわたしを一瞥して静かに部屋を出ていった。
「急にどうしたんだい。驚いたよ」
彼の言葉に皮肉な響きは感じられない。
「あなたの仕事をしている姿って見たことないなって。家にいてもやることが無くなってしまったし、つい気になって来てしまったのよ」
自身の感情に折り合いのつかずにいたわたしは、咄嗟に適当な都合で間に合わせるように答える。
「ああ、そうだったのか。今度から来る時は事前に声をかけてくれると助かるよ。一応、学外から来客があるときには、手続きが必要だったりするから」
「ごめんなさい」
「いや、別にあやまるほどのことじゃないよ」
彼の顔は笑っていたが、本心ではあまり来てほしくはないのだろうなと思った。
「そういえば、あなたに聞いてほしい話があるのだけど」
わたしがそう持ちかけると、彼はピアノの上の楽譜を片付けながら答えた。
「もちろん。またこの後すぐ授業があって今晩帰ったら聞くよ。コンクール向けの作曲を書き直さないといけないのだけど、前までに作ってたものの幾つかを直せば、まだ間に合うかもしれない。なるべく早めに帰るよ」
わたしは今聞いてほしいとは言わなかった。
「さっきの子は、あなたの生徒?」
彼はこちらを見た。
「そうだよ。教えて1年くらいになるけどかなり才能があると思う」
先の彼女が自慢の生徒なのだということがその表情から見て取れた。
「楽しそうだったわね。さっき連弾しているの聞いていたから。授業で連弾もするのね」
「今講義で使っている曲の一つがそうなんだ。連弾は自分以外の音を聴かなければいけない代わりに、ソロでは気がつきにくいことも学べるからね。それに連弾用のピアノ作曲もしているから、それの初演についても彼女に弾いてもらおうかなと思っている。彼女のイメージが凄く合うんだ」
それ以上何も聞こうとは思わなかった。わたしは静かに教室を後にした。
あなたの美しく踊る指をこんな悲しさと共に見たことはなかった。




