第16話 文化祭準備中⑧、ついでに……
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夕食後、居間にはテレビの音だけが流れていた。
バラエティ番組の賑やかな笑い声が、妙に浮いて聞こえる。
俺はソファに腰掛け、文化祭準備で汚れた指先をぼんやり眺めていた。
「……お兄ちゃん」
背後から、控えめな声。
振り返ると、月菜が立っていた。
部屋着のまま、両手を前で組んでいる。視線は俺の肩のあたり。
「どうした?」
「えっと……その……」
月菜は一度口を開き、すぐに閉じる。
小さく息を吸って、覚悟を決めたように続けた。
「文化祭……なんだけどさ……」
「ああ」
来週だ。
俺のクラスはお化け屋敷、月菜のクラスは演劇。
「……時間、あったら」
声が、少しだけ小さくなる。
「一緒に……回れたら、いいなって……」
一瞬、思考が止まった。
「……一緒に?」
「う、うん……」
月菜は耳まで赤くして、俯く。
「クラスの出し物もあるし……その……全部は無理でも……」
指先が、ぎゅっと握られる。
「……少しでいいから」
その様子に、胸の奥が妙にむず痒くなる。
「……俺でいいのか?」
「え?」
「陽菜ちゃんとか、クラスの子とか……いるだろ」
月菜は一瞬きょとんとしてから、慌てて首を振った。
「そ、それもいいけど!」
声が裏返る。
「その……私はお兄ちゃんと文化祭を周りたいの!」
はっきり言われて、今度は俺の方が言葉に詰まった。
「……」
月菜はちらっと俺を見て、またすぐ目を逸らす。
「……嫌?」
そんな顔で聞くな。
「嫌なわけあるか」
即答だった。
「むしろ……」
少し照れくさくて、視線を外す。
「誘われると思ってなかった」
「……っ」
月菜は小さく息を詰まらせて、ふっと笑った。
「よかった……」
安心したように、肩の力が抜ける。
「じゃあ……文化祭当日」
「おう」
「……約束」
そう言って、月菜は小さく小指を立てる。
「……小学生かよ」
口ではそう言いながら、俺も小指を出した。
軽く触れる指先。
「約束だ」
「……うん!」
月菜は満足そうに頷き、居間を出ていった。
残された俺は、テレビの音を聞きながら、さっき触れた指先を見つめる。
「……文化祭、か」
お化け屋敷だの、演劇だの、騒がしい行事のはずなのに。
不思議と――
その日が、少しだけ楽しみになっている自分がいた。
―――――
「ぷはぁ!! 緊張したぁ」
月菜は自分の部屋に戻った後、ベッドに思いきりダイブしていた。
弾むマットレスに身を任せ、顔を枕に埋める。
「むぅ……お兄ちゃんってば、あんなあっさり返事するなんて……」
ぎゅっとシーツを掴む。
「……私の緊張を返して、って感じだよ」
一緒に文化祭を周る。
その一言を伝えるために、どれだけ頭の中でシミュレーションを繰り返したことか。
断られたらどうしよう。
迷惑だと思われたら。
そもそも、妹と回るなんて嫌じゃないかな。
そんなことばかり考えて、声をかけるまでに随分と時間がかかってしまった。
(その間に……)
月菜は、むくっと起き上がる。
「ショージさんとか……ユウゲンさんとか……ミアさんとか……」
名前を口にするたび、胸がきゅっとする。
(お兄ちゃん、あの三人と一緒にいることが多いし……)
もし誰かに先に誘われていたらどうしよう。
そう考えるだけで落ち着かなくなっていたのだ。
けれど。
「……心配、しすぎだったみたい」
タクローの返事は、迷いも戸惑いもない即答だった。
『嫌なわけあるか』
思い出しただけで、頬が熱くなる。
「……もう」
月菜は再びベッドに倒れ込む。
「そういうところが……ずるいんだよ」
安心したような、嬉しいような、少しだけ悔しいような。
胸の奥が、くすぐったくて落ち着かない。
小指を立てた時のことを思い出し、そっと自分の小指を見る。
「……約束、したもんね」
小さく呟く声には、自然と笑みが混じっていた。
文化祭当日。
一緒に回る約束。
演劇の準備も、苦手ではあるがお化け屋敷も、その先にある時間も月菜にとっては楽しみになっていた。
「……頑張らなきゃ」
月菜はベッドから起き上がり、机の上に置かれた台本に視線を向ける。
胸に残る温かさを抱えたまま、
彼女はそっと、次の準備へと気持ちを切り替えるのだった。




