第16話 文化祭準備中⑤
食後、居間のテーブルに台本が広げられる。
俺は適当に椅子に腰掛け、渡されたページに目を落とした。
「……俺、どの役?」
「主人公のお兄さん役」
「……そのまんまじゃねぇか」
「一番、感情乗せやすいでしょ?」
それを言われると、否定しづらい。
「じゃ、ここからね」
月菜は深呼吸を一つして、顔を上げた。
「――ねえ。気づいてるんでしょ?」
さっきよりも声が落ち着いている。
本番を意識しているのか、感情の入り方が違った。
「……何の話だ」
俺も、台本通りに応じる。
「見えないからって、なかったことにはできない」
月菜の視線が、真っ直ぐこちらを射抜く。
……やっぱり、月菜は演技が上手い。
「……月菜」
気づけば、台本を下ろして名前を呼んでいた。
「なに?」
「いや……なんでもない。続けよう」
「?」
「……続けるぞ」
台本を持ち直し、軽く咳払いをする。
「――見えないものに怯えて、立ち止まるくらいなら」
少し低めに、落ち着いた声を意識する。
「俺は、知らないふりを選ぶ」
月菜は、ゆっくりと首を振った。
「それは……逃げてるだけだよ、兄さん」
声は震えていない。
さっきよりも、ずっと芯が通っている。
「見えなくても、感じてるでしょ?」
一歩、前に出る。
「だったら、向き合わないとダメだよ」
胸の前で、手をぎゅっと握りしめる。
「ね。私と一緒に探そ?」
……本当に、上手い。
一瞬、台本を見るのを忘れかけ、慌てて視線を戻す。
「……向き合った先に、何がある?」
「分からない」
即答だった。
「でも……」
少しだけ、視線を伏せる。
「何も知らないまま終わるより、ずっといいよ」
月菜は、その沈黙を使った。
息を吸い、吐く。
ほんのわずかな動作なのに、空気が張り詰める。
「……一緒に、見てくれる?」
その一言に、言葉が詰まった。
――これは演技だ。
分かっている。
分かっている、はずなのに。
「……ああ」
自然と、声が柔らかくなる。
「一人にする気はない」
台本の台詞より、少しだけ温度が乗った。
月菜の目が、わずかに見開かれる。
それでも、すぐに小さく笑った。
「……ありがとう」
最後の台詞。
月菜は、そこで深く一礼する。
しばらく、沈黙。
「……終わり、だな」
「うん」
月菜は台本を胸に抱え、照れたように笑った。
「どうだった?」
さっきと同じ質問。
でも、今度は本気だ。
「……正直に言うぞ」
「うん」
「かなりいい」
「ほんと!?」
一気に表情が明るくなる。
「台詞も分かりやすいし、何より……月菜の演技がちゃんと伝わる」
「そ、そうかな……」
「少なくとも、俺は引き込まれた」
本音だった。
「本番でも、きっと大丈夫だ」
月菜はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「……そっか」
その声は、少し安心したように聞こえた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「また……手伝ってくれる?」
一瞬、考える。
面倒だと思う気持ちが、ゼロじゃない。
でも――
「……時間が合えばな」
「やった」
即答だった。
月菜は台本を大事そうに机に置き、ぐっと伸びをする。
「よーし、明日も頑張ろ」
「あんまり無理するなよ」
「分かってる」
そう言って笑う顔は、いつも通りの妹だった。
―――――
「陽菜ちゃんのクラスは、何をすることになったのですか?」
食卓を囲みながら、エヴァが尋ねた。
湯気の立つ湯呑みを両手で包み、少し身を乗り出している。
「演劇」
短く答えた陽菜は、箸を止めることなく、視線も上げない。
「えーっ、すごいですね! 陽菜ちゃんは何役をするのですか?」
「……一応、脚本を書いてる」
一瞬、間が空いた。
「……え?」
エヴァは目を瞬かせ、数秒遅れて言葉の意味を飲み込む。
「きゃ、脚本!? 書く方ですか!?」
「うん。なんか、そうなった」
「“なんか”で脚本担当になるの、普通じゃないですよ!」
エヴァは両手をばたばたさせながら、大袈裟に驚く。
「だって、物語を一から考えるんですよ? 配役も、台詞も、流れも!」
「……必要なことを並べただけ」
陽菜はそう言って、ご飯を一口運ぶ。
「月菜さんは、どのような役割なのですか?」
陽菜は一瞬、言葉に詰まったように見えたが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……主役。私が指名した」
「えっ……月菜さんが主役で、陽菜ちゃんが脚本ってことですか?
それも、陽菜ちゃんの指名で……」
「……文化祭だから」
「それでもですよ」
エヴァは湯呑みを置き、少し楽しそうに言った。
「本番、絶対見に行きますね!」
「……無理しなくていい」
「いえ、行きます!」
即答だった。
「だって、陽菜ちゃんが書いたお話なんて、見ない理由がありません!」
その言葉に、陽菜は少しだけ困ったように眉を下げる。
「……期待しないで」
「期待します!」
「……」
陽菜は何も言わず、箸を動かす。
けれど、その口元は、ほんの僅かに――柔らいでいた。




