第16話 文化祭準備中④
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その日の作業を終え、家に帰り着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。
「ただいまー……」
玄関で靴を脱ぎながら声をかけるが、返事はない。
まぁ、月菜は部屋だろう。最近は文化祭の準備で忙しいしな。
鞄を置き、居間を通り抜けた――その時だった。
――声が聞こえた。
「……どうして、見えないふりをするの?」
小さく、けれどはっきりした声。
月菜の声だ。
思わず足を止める。
台詞……だよな?
独り言にしては、妙に感情が乗っている。
気配を殺し、そっと廊下の奥を見る。
月菜の部屋のドアは、少しだけ開いていた。
中では、月菜が一人立っていた。
手には台本。制服のまま、鏡の前。
「怖い。でも……それでも、行かなきゃ」
視線は真っ直ぐ前。
まるで、そこに誰かがいるみたいに。
――恐らく、文化祭の演劇だろう。
「……私が、見るって決めたから」
月菜は一歩、前に出る。
床を踏みしめる音が、やけに重く響いた。
その瞬間――
空気が、変わった気がした。
背中に、ぞわりとした感覚が走る。
理由は分からない。ただ、本能的に。
「……気のせい、だよな」
俺は小さく息を吐く。
月菜は昔から、頭はあまりよろしくないが、運動やこういった演技には定評がある。
小学生の発表会でも主役を張ったことがあるくらいだ。
ちなみに歌も上手い。
「……はぁ」
月菜は台詞を終え、肩の力を抜いた。
その拍子に、視線がふと動く。
――目が合った。
「……お兄ちゃん!?」
「うわっ、悪い! 覗くつもりじゃ……」
慌てて姿を現すと、月菜は一瞬固まってから、頬を赤くした。
「い、いつから見てたの!?」
「えっと……途中から」
完全にアウトだな、これ。
「もう……!」
月菜は台本で顔を隠し、むくれる。
「文化祭の練習か?」
「……うん。うちのクラス、演劇することになったんだ。それで私が主役をやることになっちゃって……」
「そっか」
それだけ言って廊下に戻ろうとした、その時。
「……どうだった?」
背中越しに、そう聞かれた。
少し迷ってから、正直に答える。
「上手かったよ。本番、楽しみだな」
そう言うと、月菜は少し驚いた顔をしてから、照れたように笑った。
「……私、頑張るね」
「あぁ。とりあえず夕飯作ってくる。出来たら呼ぶからな」
「うんっ!」
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「それで、お兄ちゃんのクラスは何をするの?」
夕飯が完成し、月菜を呼んで食卓を囲む。
「うちのクラスはお化け屋敷だよ」
「うっ……お、お化け屋敷かぁ……」
月菜の表情が、分かりやすく引き攣った。
そりゃそうだ。ホラー系は完全にNGだからな。
「お兄ちゃんは、お化け屋敷で何をするの?」
「俺は脅かし役。ショージに無理やりな」
「ぐぐっ……脅かし役かぁ……行ってみたいけど、お化け屋敷かぁ……」
月菜の表情が、ころころと忙しく変わる。
「月菜のクラスの演劇は何をするんだ? 大きなカブか?」
「さすがにそれはないよぉ……」
冗談だって。
「うちの演劇は、陽菜が脚本を考えてくれたんだ! だから内容もオリジナル!」
「へぇ。陽菜ちゃん、脚本も書けるんだな」
「毎日読書してるから、こういうのは得意なんだって!」
「そっか……」
「?? お兄ちゃん?」
「いや、なんでもない」
一度箸を置いて、続ける。
「月菜が主役なら、ちゃんと見に行かないとな。父さんはともかく、母さんも来るのかな」
「き、緊張するから来なくても大丈夫だよ!」
そう言いながら、ちらちらとこちらを見る。
……多分、本当は来てほしいんだろう。
「そうだ! お兄ちゃん、読み合わせ手伝ってよ!」
「えー、やだよ」
「そこをなんとか!」
身を乗り出してくる。
「一回だけでいいから! お願い!」
「……一回な。棒読みでも文句言うなよ」
「やった!」
あっさり折れた俺に、月菜は満面の笑みを浮かべた。




