21話 湯煙、白装束女と時々こけし③
夏の陽光がこれでもかと降り注ぐ、恋ヶ崎神社の境内。
本来なら、浴衣姿のカップルが「暑いね」なんて言いながら、はにかみ合うような甘酸っぱい空間のはずだった。
だが、俺――京田タクローの現状は、甘酸っぱいなんて風情のある言葉では到底表現できない、物理的な「限界」に直面していた。
「ちょっと星菜ちゃん、離れて! お兄ちゃんの腕がもげちゃうでしょ! これ以上引っ張ったら関節が脱臼しちゃう!」
「えー、月菜ちゃんこそ欲張りすぎだよー。ちょっとぐらいタクロー先輩を貸してくれたっていいじゃんっ。減るもんじゃないんだし♪」
「減るの! お兄ちゃんの精神的余裕とか、私の所有権……じゃなくて、兄妹の絆が摩耗して減っちゃうの! それに星菜ちゃんにもお兄さん、いるんでしょ!?」
「あれはただの同居人、タクロー先輩はタクロー先輩なの。代替品なんて存在しないんだよ♪」
「意味が分からないよ!!」
神社のど真ん中で、俺の左右の腕は二人による全力の綱引きの「綱」と化していた。
右腕には、月菜の必死な、それでいてどこか柔らかい感触。
左腕には、星菜ちゃんの遠慮を知らない積極的な体温。
古来より、こういう場合は相手を慮って手を離すのが「粋」な正解だと相場が決まっているが、どうやら現代の恋愛戦線にそんな美徳は通用しないらしい。
……ぶっちゃけ、マジで腕が千切れそうなんだが。
「あーあ、そんなに力任せに引っ張ったら、タクロー先輩が可哀想だと思わない? ここはやっぱり、一回手を離してあげるのが『真のヒロイン』の余裕だと思うな♪」
星菜ちゃんが、計算尽くのあざとい上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
麦わら帽子の影から覗くその瞳は、獲物を狙う熟練のハンターそのものだ。
「なっ……! 星菜ちゃんは部外者でしょ! 今日は京田家の家族旅行なんだから、お兄ちゃんの隣は予約済み……というか、永久欠番なの!」
「えー。でもさっき、おみくじに書いてあったじゃん? 『待ち人、すぐそばにあり』って。これ、絶対あたしのことでしょ?」
「私のにも『思いは通じる』って書いてあったもん! 『横槍を入れるライバル(星菜ちゃん)に警戒せよ』って、神様が名指しで警告してるの!」
パチパチと視線がぶつかり、火花が散る。その中心で俺の肩が悲鳴を上げた、その時だった。
「よし、タクロー! この膠着状態を打破するには、あそこの【縁結びの巨石】を先に触った方が勝ち、というルールにするのはどうだ!」
少し離れたベンチで、呑気にソフトクリームを頬張っていた親父が、火にガソリンを注ぐような適当な提案を投げかけてきた。
「「それだっ!!」」
月菜と星菜ちゃんの声が完璧に重なった。
マズい。そう思った時にはもう遅かった。二人は俺の両腕をアイアンクローばりの握力でガッシリと掴んだまま、境内の一角にある『触れば一生離れない』と言われる巨大な岩へと猛ダッシュを開始した。
「おい、待て! 俺の意思は!? というか二人とも足速すぎ――ひぎゃああっ!?」
抵抗むなしく、俺はコンクリートの上を滑るように引きずられ、聖なる岩へと連行される。
「私が先に!」「あたしだよ!」と左右から挟まれ、揉みくちゃになりながら、俺たちの三人の手は同時に、その冷たい岩の表面にベタリと触れた。
その瞬間――。
カランッ。
あまりにも不吉で、乾いた音が、静まり返った境内に響いた。
「……え?」
争奪戦の熱が、一瞬で凍りつく。
三人が同時に視線を落とすと、そこには昨日から何度も目にしている、あの不気味な【濡れたこけし】が転がっていた。
真夏の太陽の下だというのに、こけしの表面はじっとりと黒く濡れ、その首には刃物で引いたような真っ赤な線が入っている。
『縁は結ばれた。――離さない、離さない、離さない』
どこからともなく、湿り気を帯びた怪しげな声が耳元で響き渡る。
「星菜ちゃん……」
「……分かってる」
一瞬にして、二人の雰囲気が変わった。
周囲の参拝客の話し声が、急に遠くなったような気がする。空気が重い。
「……とりあえず。とりあえずだ。二人とも、一回手を離してくれないか? ちょっと、鼻の横をかきたくてな。緊張感がないのは分かってるけど」
タクローの情けない申し出に、月菜がハッとしたように顔を上げた。
「あ、ごめんねお兄ちゃん。今、離すから――」
「あはは、そうだね。一回仕切り直し……って、あれ?」
二人が手を離そうと、腕を引き抜こうとした。
だが、左右の腕に吸い付いた彼女たちの手のひらは、まるで強力な接着剤で固定されたかのように、ピクリとも動かなかった。
「……ねぇ、お二人さん。離れてないんだけど。むしろ、さっきより食い込んでないか?」
「(せ、星菜ちゃんっ!? まさかこれ、呪い的なのが発動しちゃった感じ!?)」
「(これ、ひょっとして大変なことになったかも……!)」
二人のヒソヒソ声が俺の頭上で交差する。
「(え、これなんかやばい事が起きた?)」
「えーっと……タクロー先輩の手が温かくて、ついつい離したくないなぁ……なんて♪(とりあえずタクロー先輩を巻き込まないようにこの事は隠しておこうね)」
「そ、そうそう! お兄ちゃんの手は冬の暖炉……じゃなかった、夏休みのアスファルトみたいに温かいからね!(えぇ……隠すって言ったって、これ流石に無理な気がするよぉ!)」
「今夏だからそんな温かい事にメリットは無いとは思うけどな(おいおいっ、君たちのこそこそ話し俺に聞こえてるんだけど!?)」
足元で嗤うような、首の切れたこけし。
タクローの、そして京田家の災難だらけの夏休みは、ここからが本当の本番だった。




