20話 夏といえば温泉でしょ!⑨
―――――
カンッ――!
無情な打球音が娯楽室に響き、白球が放物線を描いて台の外へと弾け飛んだ。
『おおおおおおっ!!』
一瞬の静寂の後、娯楽室は爆発的な歓声に包まれる。
『勝者ァ! 最凶の親父・京田義和ッ!!』
誰かが勝手に始めた実況に、拍手の雨が重なった。
俺――タクローはその場に膝をつき、ラケットを握ったまま、もはや回らない肩で天井を仰ぐ。
「……くそ。あと一歩……だったのに」
「はーっはっはっは! まだまだ甘いぞタクロー! 野生の嗅覚が足りんわ!!」
対照的に、親父様は仁王立ちで豪快に笑っていた。
一時間近く激闘を繰り広げたはずなのに、息一つ乱れていないのはもはや恐怖でしかない。
「温泉卓球で本気出すなよ……。大人げないにも程があるだろ」
「全力で戦わねば、温泉に失礼だろうが!」
ギャラリーが再びドッと沸く。
その喧騒を割るように、聞き覚えのある鈴の鳴るような声が響いた。
「タクロー先輩、お疲れさまです!」
「……星菜ちゃん? なんでここに居るんだよ」
いつの間にか人混みの最前列にいた佐々木星菜が、ひょいっと前に出てくる。
濃紺の朝顔が鮮やかな浴衣姿。湯上がりのせいか、その頬はほんのりと赤らんでいて、妙に……その、破壊力が高い。
「まぁまぁ、それはとりあえず置いておいて。タクロー先輩、今の試合、すっごくかっこよかったですよ!」
「……負けたけどな」
「ふふ、それでも、ですよ♪」
さらっと、天性の小悪魔的な距離感で言ってくる。
俺は一瞬言葉に詰まり、居心地が悪くなって視線を逸らした。
……こういう直球は、どうにも心臓に悪い。
そのやり取りを、月菜は一歩後ろから見つめていた。
胸の奥が、ちくりと小さく疼く。
お兄ちゃんに「かっこいい」と言える彼女の軽やかさが、今の月菜には少しだけ眩しくて、そして苦い。
「月菜? どうかしたのか?」
「え? あ、うん。お兄ちゃん、惜しかったね」
タクローに振り向かれ、月菜は慌てて笑顔を作る。
「だよな? あの最後の一球、マジでエグい曲がり方して――」
「ガハハ! さすが俺の息子だな!!」
親父がタクローの肩をバシバシと叩き、話が強制終了する。
月菜が小さく息を吐いた、その時だった。
足元で、ころり、と何かが転がった。
「ん……?」
視線を落とすと、そこには小さな木製のこけし。
月菜の喉が、ひくりと鳴った。
「これ……売店にあった……」
星菜もそれに気づき、表情から温度が消える。
「え? なに、こけし? 誰かの落とし物か」
タクローが何気なくそれを拾い上げた。
カタ、と中で何かが乾いた音を立てる。
「ほら、ただの土産物だろ。そんな怖い顔すんなよ」
「温泉といえばこけし! 実に風情があるではないか!」
能天気に笑う男連中。
……彼らには見えていない。
このこけしの表面が、まるで沼から引き揚げられた直後のように、じっとりと濡れそぼっていることが。
「お兄ちゃんたちには……言わないほうがいい、かな」
「そうだね。一旦外に行こうか」
星菜の提案に、月菜も黙って頷く。
娯楽室の熱気から逃げるように、二人は廊下へ出た。
避暑地として名高い恋ヶ崎の夜風が、浴衣の隙間から入り込み、火照った肌を冷たく撫で上げる。
静かだ。
さっきまでの喧騒が嘘のように、廊下には自分たちの足音だけがやけに響く。
角を曲がった、その瞬間だった。
壁に据え付けられた大きな姿見に、二人の姿が映り込む。
月菜。
星菜。
――そして、その背後。
長い黒髪。色の抜けた、白い浴衣。
「……見えてる?」
星菜が鏡を凝視したまま、低く、押し殺した声で囁く。
「うん……」
鏡の中の女は、ゆっくりと首を傾げた。
顔は影になって見えないが、口元だけが三日月のように、歪に笑っている。
そして――裾から下には、あるべき足が存在しなかった。
鏡の中だけに存在する不純物。
次の瞬間、その女がスッと前に出た。
鏡の内側から。
ガンッ。
厚いガラスを、向こう側から拳で叩くような鈍い音。
ガンッ、ガンッ!
姿見の表面に、蜘蛛の巣状のひびが走り始めた。
「……来る」
星菜の瞳から、光が消える。
その目は、学校で見せる無邪気な少女のそれではない。
獲物を前にした、冷徹な狩人の光。
「月菜ちゃんっ!」
「……うん!」
二人は星核リリックを構えた。
「「《シャイニー・オン》っ!!」」




