20話 夏といえば温泉でしょ!⑧
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「うしっ、食った食った。腹ごなしに卓球に行くか。タクロー、付き合えっ!」
食後の余韻に浸る間もなく、親父殿の野太い声が個室に響いた。
「やだよ。さっき温泉入ったばっかなんだぞ」
「問答無用だ!! 母さん、俺の勇姿をしかと目に焼き付けてくれ!!」
「はいはい、分かりましたよ。月菜はどうする?」
「私は一回、売店に行ってみたいかな。友達へのお土産の下見もしておきたいし」
「何ぃっ!! 月菜! 早くパパの勇姿を――いや、タクローの無様に敗北する姿をしかと目に焼き付けに来いよ!」
「だから、俺は行かないって……ばよぉおお!!」
もはや言葉による対話は成立しなかった。
タクローは親父という名の大型重機によって物理的に拉致され、娯楽室へと連行されていった。
「さてと。エヴァさんと陽菜のお土産、何がいいかなぁ」
月菜は苦笑しながら売店へと足を向けた。もちろん、親父の暑苦しい試合よりは、お兄ちゃんの真剣な姿(レア物)を見たい気持ちはやまやまなのだが、まずは女子としての任務を優先することにした。
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「うーん、どれにしようか迷うなぁ……」
旅館の売店は、まさに誘惑の魔窟だった。定番の温泉饅頭から、誰が買うのか分からない木彫りの熊まで。
月菜が目移りしていると、背後から聞き覚えのある弾んだ声が響いた。
『あれっ? 月菜ちゃんだ! やっほ〜っ!』
「その声は……星菜ちゃん?」
振り向いた先には、濃紺に朝顔が散らされた浴衣を驚くほど着こなした佐々木星菜が立っていた。
「やっぱり月菜ちゃんだ! 家族旅行? 偶然だね〜!」
「う、うん。星菜ちゃんも家族と?」
「うーん……あたしはちょっと別件かな。ここの温泉、お肌ツルツルになるよね〜」
星菜はくるりと一回転して、浴衣の袖をひらひらとさせた。夜の温泉街に咲いた一輪の花のような、その完成されたビジュアル。
「どう? 似合ってるかな?」
「うん、すごく。朝顔、涼しそうで可愛いね」
「えへへ、ありがと!」
屈託のない、太陽のような笑顔。
……だが。
月菜の胸の奥が、ちくりと小さく疼いた。
(お兄ちゃんが見たら、なんて言うかな……)
「タクロー先輩も来てるんでしょ?」
「っ!?」
心拍数が跳ね上がった。ド直球、ストレートど真ん中の剛速球。
月菜の動揺を隠しきれない表情を見て、星菜はいたずらっぽく口角を上げた。
「い、いるけど……。今はお父さんに拉致されて、卓球してるよ」
「え〜! 見たかったなぁ。浴衣姿で卓球するタクロー先輩とか、レア度SSランクのイベントじゃん!」
星菜は頬に手を当てて、うっとりとした表情を浮かべてみせる。
絶対におちょくっている。分かってはいるのに、月菜の胸のざわつきは収まらない。
「……普通だよ。浴衣姿なんて、別に……見たことあるし」
「え〜? 絶対かっこいいって! あ、あとで合流しよっか。私もタクロー先輩の勇姿、拝みに行こっと!」
その瞬間だった。
売店の奥――古びた民芸品コーナーから、カタン、と乾いた音がした。
二人は同時にそちらを向く。
そこには、一本の木製こけしが不自然に床を転がっていた。
「……あれ? さっきまで、ちゃんと並んでなかった?」
「地震かな……?」
だが、地面の揺れなど微塵も感じなかった。
店内は静まり返り、レジの奥ではおばちゃんが電話に夢中になっている。
「気のせい、かな」
月菜がそのこけしを拾い上げようとした、その時。
背後の姿見に、一瞬だけ。
自分たち以外の「影」が混ざり込んだ気がした。
長い、濡れたような黒髪。
色の抜けた、白い浴衣。
瞬きの間に、それは掻き消える。
「……星菜ちゃん、今……」
「え?」
慌てて鏡を凝視するが、そこには戸惑う月菜と星菜だけが映っていた。
「な、なんでもない……」
指先に残る冷たい感覚。
その時、月菜のスマホが震えた。
【母:大変! 今、お父さんとタクローがとんでもない試合をしてるわ! 月菜も早く来て!】
母からのメッセージに、月菜は思わず吹き出しそうになった。不気味な空気は、京田家の「熱」によって霧散していく。
「どうしたの?」
「お兄ちゃんとお父さんの卓球が、なんだか凄いことになってるみたい」
「なにそれ、超ウケる! 行こ行こ!」
星菜に腕を引かれ、売店を出ようとしたその時。
――カタン。
背後で、再びこけしが転がる音がした。
今度は、誰も触れていないはずなのに。
二人は顔を見合わせ、言葉を失う。
……偶然にしては、出来すぎている。
「月菜ちゃん……?」
「……うん。行こっか」
月菜は小さく息を吸い込み、無理やり笑顔を作った。
廊下に出ると、夜の温泉特有のひんやりした空気が、肌を冷たく撫で上げた。
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「がっははは! 中々やるではないか、タクロー!!」
「くっそ、こんなとこでプロ級のラリーを仕掛けてくるなよ、このバカ親父!」
娯楽室に辿り着いた月菜たちを待っていたのは、場違いなほどの歓声と熱気だった。
『何だあの二人、プロか?』
『すげぇ、あんな弾丸スマッシュ、初めて見たぞ……』
ギャラリーが二重三重に取り囲む中央で、タクローと義和は、浴衣をはだけさせながら火の出るようなラリーを繰り返していた。
「……ねぇ、タクロー先輩のお父さんって、元・国体選手とか?」
「えっと……普通の商社マンのはずなんだけど。ただ、スポーツに関しては『1番以外は敗北』っていう極端な思考の持ち主だからね……」
「あ、やっと来たわね。月菜、こっちよ!」
母さんに手招きされ、人混みの最前線へ。
そこはもはや、旅館の娯楽室ではなく、剥き出しの闘技場だった。
カンッ!!
キュッ!!
バシィッ!!
空気を切り裂く打球音が反響し、ピンポン球が肉眼で追えない速度で交差する。
「そこだぁっ!!」
タクローが踏み込み、渾身の力で放たれたスマッシュが火を噴く。
「甘いッ!!」
義和が反射神経を超越した動きで、体を深く沈めながら鋭角に切り返した。
ボールはネットを掠めるように滑り落ち――白線ギリギリ、一点の曇りもなくストンと落ちた。
『入ったぁぁぁぁ!!』
どよめきが歓喜の叫びに変わる。
「……なにこれ、地区大会決勝?」
星菜が呆然と呟く。
だが月菜は、その光景から目が離せなかった。胸の前で無意識に手を握りしめる。
タクローの額から、大粒の汗が流れ落ちる。
濃紺の浴衣の袖をまくり、獲物を狙う獣のような鋭い瞳で父を見据える、その横顔。
(かっこいい……)
さっき「普通」なんて吐いた嘘は、一瞬で溶けて消えた。
真剣勝負に身を投じる兄の姿は、月菜の心臓を、温泉の温度以上に熱くさせた。
「タクロー先輩って、あんな顔するんだね」
隣で、星菜がポツリと、どこか熱を帯びた声で呟いた。
「え?」
「ほら。いつもよりちょっとだけ、鋭いっていうか。……『男の顔』してる」
ドクン、と心臓が跳ねる。
月菜は、自分の独占欲が小さく悲鳴を上げるのを感じた。




