20話 夏といえば温泉でしょ!⑦
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「あっつ……」
忘れてはいけないが、今の季節は夏。
あれこれ騒ぐ親父殿のせいで無駄に耐久戦(長風呂)を強いられたせいで、俺の体温は限界突破寸前だった。
「タクローっ! お前も牛乳飲むか?」
その元凶である親父様は、湯上がりの脱衣所で腰に手を当て、教科書のような黄金フォームで瓶牛乳を煽っていた。
「いる……が、とりあえず前を隠せ。目に毒だ」
「何を言うんだ。隠すような情けないものは携えてないわ!」
「TPOをわきまえろと言ってるんだ!」
「とても(T)パワフル(P)な俺(O)だから大丈夫だ、ガハハ!」
「全然大丈夫じゃない上に、その略称は今すぐ辞書から消去してこい!」
結局、親父がシュルシュルと赤い浴衣を纏い終えるまで、俺は虚空を見つめて待つ羽目になった。
「さーて、そろそろ夕食の時間になるだろう。部屋に戻るぞ!」
「へーい……」
フラフラになりながら部屋に戻り、俺たちは旅館の食事処へと向かった。
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個室の扉を開けると、そこは豪華絢爛な食卓が広がっていた。
信州牛の石焼き。
新鮮な川魚のお造り。
季節の山菜天ぷら。
「お兄ちゃん、お父さん、おかえり! 見て見て、すっごく豪華だよ!」
そこには、風呂上がりでしっとりと濡れた髪をまとめ、白地に金魚の浴衣を完璧に着こなした月菜がいた。
石鹸の清潔な香りが、個室の畳の匂いと混ざり合って、俺の理性をわずかに削りに来る。
「……おう。お前も、やっぱその浴衣、似合ってるな」
「えへへ、お兄ちゃんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいかも!」
月菜が上機嫌で俺の隣に座る。
――だが。
その微笑みが、この後の地獄の幕開けだった。
「むおっ!? この霜降り肉……! タクロー、待て。これは罠の可能性があるぞ!」
席に着くなり、親父が箸を構えて戦慄した。
「今度は何だよ。ただの美味そうな肉だろ」
「甘い! これほど美しいサシが入った肉……もしや、我らを油断させて胃腸を破壊せんとする《デリシャス・トラップ》ではないか!? よし、まずは家長である俺が《毒見》をしてやろう!」
「ただ食いたいだけだろ、あんた!」
親父が月菜の前の肉を奪おうとした瞬間――
月菜の動きの方が速かった。
「パパは自分の食べてればいいの! はい、お兄ちゃん、これっ。一番美味しそうなところ、私が焼いてあげたから。……はい、あーん」
差し出された箸の先には、絶妙な焼き加減で肉汁を滴らせる信州牛。
そして、期待に満ちた月菜のウルウルとした瞳。
「…………っ」
拒否できるはずがなかった。
俺が覚悟を決めて口を開こうとした、その刹那。
「させるかぁぁぁ!! 《インターセプト・シールド》ッ!!」
横から親父が自分の風呂桶(なぜ持ってる)を俺と月菜の間に投げつけた。
「うわっ、あぶねぇな。何しやがる!!」
「月菜! タクローのような若造には、この肉の脂はまだ早すぎる! その『あーん』は、ジャングルの砂漠で干乾びかけていた経験があるパパが受け取るべきだ!」
「お父さん、どいて! これ、お兄ちゃんにあげるんだから!」
「いやだ! パパもあーんされたい! 妻よ、君もあーんしてくれ!」
「あらあら。義和さん、落ち着いて。はい、お野菜あーん」
「それ生姜の甘酢漬けじゃないか! 辛っ! 鼻にツーンときたぁぁ!!」
個室の中は、もはや温泉旅行の優雅さなど微塵もない、カオスな戦場と化していた。
「……ったく。ゆっくり飯も食えねぇのか、この家族は」
俺は溜息をつきながら、自分でお造りを口に運ぶ。
……美味い。
美味いのが、余計にこの状況をシュールにさせる。
「お兄ちゃん? どうしたの? ……あ、わかった。お肉、自分で食べちゃって寂しかった?」
月菜がまた肉を焼いて、こちらを覗き込んでくる。
「……いや。なんでもない。……食うか、肉」
「うん! いっぱい食べてね!」
賑やかな家族の笑い声の裏で――
俺は、ポケットの中のスマホが震えるのを感じた。




