20話 夏といえば温泉でしょ!⑥
部屋で着替えを済ませ、俺と親父は連れ立って大浴場へと向かった。
鏡に映った濃紺の浴衣姿は、……まあ、客観的に見てもそれほど悪くはない。
部屋を出る際、月菜が「お兄ちゃん、かっこいい! モデルさんみたい!」
なんて、語彙力を霧散させてはしゃいでいたのを思い出し、少しだけ、本当に一ミリだけ口角が緩む。
――だが。
その淡い幸福感は、隣を歩く『赤い彗星』によって一瞬で撃墜された。
「いいかタクロー。温泉とは単なる保養施設ではない。己を全裸という無防備な状態に晒しつつ、周囲の状況を三六〇度掌握する【精神修養の場】なのだ!」
「……普通に浸かって『極楽だなぁ』って、おっさん臭い溜息を吐く場所だよ、ここは」
真っ赤な浴衣を翻し、戦地へ向かう司令官のような眼光を飛ばす父。
この男と並んで歩くというだけで、せっかくの風情が猛スピードで背後へ置き去りにされていく。
脱衣所を抜け、湯気の立ち込める大浴場向かっていった。
「ぬおっ! あの角! 背後が壁であり、かつ出入口を見渡せるタクティカル・ポジション……確保ぉッ!」
「空いてる場所で普通に洗えよ!」
父さんは忍者のようなキレのある動作で角の洗い場を占拠。
椅子に座るや否や、驚異的なピッチで石鹸を泡立て始めた。
「見ろ、この泡の密度! 全身をマシュマロ状の泡で覆えば、いざという時ヌルリと敵の拘束から離脱できる《バブル・エスケープ》だ!」
「全裸の泡だらけでどこに逃げるんだよ。お巡りさんに確保されて終わりだろ」
さらに洗顔フォームで顔面を真っ白に塗りつぶし、戦士の装い《ウォーペイント》(父命名)を完了させた直後――。
「ぶふぉっ!?」
気合を入れすぎて最大出力で放たれたシャワーが鼻腔を直撃。
盛大にむせ返るサバイバル・マスター。
「……何やってるんだよ」
「くっ……まさか、これほど鋭い奇襲を仕掛けてくるとはな……」
ただの自爆だろ。
俺は心底呆れながら、岩に囲まれた露天風呂へと避難した。
火照った肌を優しく撫でる夜風。
川のせせらぎが、耳に心地よく響く。
「ふぅ……」
やっと訪れた静寂。
そう確信した、わずか数秒後だった。
「タクロー! この湯温、推定四二・五℃! ここで耐えてこそ、野生を生き抜く真の男だ! 耐久訓練を開始する、タイムを計れ!」
「勝手にやってろって……」
足を動かしてポンプ機能を維持しろだの、風呂桶を盾にして死角を補完しろだの、もはや入浴とは呼べない講義が続く。
その結果、周囲の客が一人、また一人と、憐れみの視線を残して去っていった。
「あーあ、貸し切り状態じゃねぇか……」
「ははは! 見ろ、タクロー。この《温泉エリア》は、今、完全に我が京田軍の支配下に入ったぞ!」
顔を真っ赤にして勝ち誇る、湯あたり寸前の家長。
……正直、他人になりたい。
―――――
一方その頃、女湯では――
ガラガラ、と木製の引き戸を開けると、真っ白な湯気が生き物のように溢れ出してきた。
男湯の喧騒とは無縁の、しっとりとした静寂。
聞こえるのは、滔々と注がれるお湯の音と、時折響く「コン」という桶の小気味いい音だけ。
「わぁ……お母さん見て! 床が畳敷きだよ。滑らなくて安心だね」
「本当ね。お肌に優しいアルカリ性の泉質らしいから、上がったあとはツルツルになるわよ」
二人は並んで洗い場に座る。
月菜は、丁寧にシャンプーを泡立てながら、鏡の中の自分をじっと見つめた。
「……ねぇ、お母さん。私、最近少し大人っぽくなったかな?」
「あら、どうしたの急に。十分可愛いわよ?」
「そういうんじゃなくて! ……ほら、お兄ちゃんって結構、落ち着いた大人の女性がタイプっぽいでしょ? 学校の先生とか、オカ研の先輩とか……」
月菜はモコモコの泡を鼻の頭に乗せて、おどけたように笑ってみせる。
だが、その瞳の奥には、冗談では覆い隠せない「本気」が透けていた。
「タクローは……そうね。あの子は意外と古風なところがあるから。着飾るよりも、今日みたいに楽しそうに笑っている月菜の方が、ずっと可愛いと思っているはずよ」
「……そうかな。だといいんだけど」
体を洗い終え、二人は外の露天風呂へと足を踏み入れた。
夜風が湯上がりの肌をなで、遠くで川のせせらぎが歌うように聞こえる。
「あぁ……極楽……」
月菜はヒノキの縁に頭を預けて、大きく息を吐いた。
お湯の浮力に身を任せると、抱えていた悩みまでふわりと軽くなる気がした。
「あ、見て! さっき渡った赤い橋、ここから見えるよ。ライトアップされてて綺麗……」
暗闇の中に浮かび上がる、幻想的な朱色のライン。
その景色を見つめながら、母さんが穏やかに、しかし核心を突くように口を開いた。
「月菜。明日は『恋愛成就』のパワースポットに行くけれど……あそこでお願いしたいこと、本当にあるんでしょ?」
「っ……!? なんで分かったの?」
「お母さんだもの。……相手が誰かも、大体見当はついているわよ?」
月菜はバシャバシャとお湯を跳ねさせ、赤くなった顔を隠すように肩まで沈み込んだ。
「……だってお兄ちゃん、意外にモテるんだもん。うちのクラスでも、密かに狙ってる子がいるみたいだし……。だから、家族の縁がずっと切れないように、ってお祈りしたかっただけだよ」
「ふふ、可愛いわね。一応、今は『兄妹』だけれど……。成人後の関係は、二人でしっかり考えなさいな。お父さんがどう思っているのかは、今はまだ分からないけれど」
母さんは優しく、慈しむように月菜の頭を撫でる。
濡れた月菜の髪が、お湯に溶けて艶やかに光った。
「大丈夫よ。タクローは不器用だけど、月菜のことは世界で一番大切に思ってるんだから」
「……うん。そうだといいな」
月菜は夜空を見上げ、そっと目を閉じた。
温泉の熱に溶けていくような、甘くて少し切ない、女子だけの秘め事。
――その頃、男湯では。
「タクロー! 限界突破だ! 熱気で脳細胞を活性化させろぉぉぉ!!」
「だから叫ぶなって! あと立つな! 座れバカ親父!」
ギャーギャーと言い合う二人の声が響いているのであった。




