19話 大きいのが好きですか? 小さいのが好きですか?⑤
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「……こんなに我が家に入るのが億劫になるのは、いつ以来だろうな」
校門を出るまでショージに散々弄り倒され、俺の精神はもはや消し炭一歩手前だった。
女子生徒からは「うわ、出たよ……うなじフェチ……」と言わんばかりの白い目を向けられ、クラスメイトには普通に引かれた。逆に、友人のユウゲンからは『人の趣味はそれぞれだ。お前の深淵も一つの個性として受け入れよう』と、頼んでもいない聖母のような慈愛に満ちた擁護をされて、逆に死にたくなった。
いつまでも玄関で佇んでいるわけにもいかず、俺は意を決してドアを開けた。
「ただいま……」
せめて家の中だけは、いつも通りの静寂であってほしい。そう願ってリビングのドアを開けたのだが――。
「おかえりなさい、兄さん。学校、お疲れ様」
「…………は?」
そこには、俺の知っている月菜とは似ても似つきつかぬ、謎の生命体が鎮座していた。
普段なら使い古した部屋着でポテチを齧っているはずの妹が、なぜか母さんのクローゼットから引っ張り出してきたのであろう大人びたブラウスに、タイトなスカートを履いてソファーに腰掛けている。
母さんと月菜では体格が違いすぎるため、服はぶかぶか。だが、胸元だけは異常なボリュームを誇っており、明らかに何かを大量に仕込んでいる。
さらに、度の入っていない伊達メガネを指でクイッと上げながら、不自然なほど艶然とした微笑を俺に向けてきた。
「な、なんだその格好……。あと、その変な喋り方なんかこそばゆいから悪いからやめてくれ」
「あら、そんなに照れなくてもいいのよ? お姉さん系がタイプなんでしょ? だったらこの私が、貴方の理想を叶えてあげようかなって……ウフフ」
月菜はソファーから立ち上がると、モデルを意識したような足取りで俺に歩み寄ってきた。
「……っ、うわ、匂い濃すぎだろ!」
近づいた瞬間、鼻を突いたのは暴力的なまでのシャンプーの香りだ。
一体どれだけ使ったんだ。風呂場を丸ごとひっくり返して頭から被ったような匂いがリビングを制圧している。
「ほら、兄さん、寒くない……? 部屋の暖房、点けちゃおうか?」
「いや、今は初夏だぞ。この状況で暖房とか、どんな我慢大会だ」
「いいのっ! 『暑さで火照って、うなじからシャンプーの匂いが漂う』のが好きなんじゃない! ほら、見て……?」
月菜はわざとらしく「あつーい」と零しながら、ブラウスの襟をパタパタと仰ぎ始めた。
そして、俺の目の前でゆっくりと後ろを向き、束ねた髪をさらに高く持ち上げて、無防備なうなじをこれでもかと誇示してくる。
「どう? 兄さんが好きな匂い、してるでしょ……? 理想通りでしょ?」
確かに、いい感じの香りが漂い、うなじも汗ばんでいて、視覚的には俺の好みのストライクゾーンだ。
だが、決定的な違和感があった。
「……月菜。お前、霧吹きで水かけたな?」
「な、ななな、何のことかしら!? これは乙女の、天然で生命の神秘的な汗よ!」
「いや、襟元がびしょびしょだ。あと、うなじに一点集中して大きな水滴がついているのは物理法則を無視しすぎている」
俺の冷静な指摘に、月菜のタクロー好みの理想のお姉さんの仮面がピキピキと音を立てて崩壊し始める。
「も、もう! 細かいことはいいじゃない! せっかく私が、お兄ちゃんの変態的な要望に応えてあげようとしてるのに! ほら、もっと近くに来て嗅いで、存分にハァハァしてよ!」
「誰が実の妹相手にそんなハレンチなことするか!」
「嫌! お兄ちゃんを赤面させるまで、私は……ひゃんっ!?」
勢いよく詰め寄ろうとした月菜が、自分のブラウスの裾に足を引っ掛けた。
重力に従い、派手にバランスを崩す妹。
「危なっ――!」
咄嗟に支えようと手を伸ばしたが、運悪く俺の指が、月菜がお姉さんらしさを演出するために胸元に詰め込んでいた、大量の保冷剤をキャッチしてしまった。
「……あ」
「…………」
ポロッ、と。
ブラウスの隙間から、キンキンに冷えた保冷剤たちがリビングの床に虚しく転がった。
静寂。
屋上の時とはまた違う、絶望的なまでの静寂が我が家を支配する。
「……お兄ちゃん」
月菜が、蚊の鳴くような声で呟いた。
その顔は、もはや羞恥の極限で茹で上がっている。
「……その、なんだ。お前なりに努力したことは認める。保冷剤は、……うん、機能的で賢い選択だったと思うぞ」
我ながらこれ以上ないナイスなフォローだと思った。
……が。
「……死ねええええええ!! お兄ちゃんのバカー!! 絶滅しろおおおおお!!」
本日二度目。月菜の渾身の裏拳が、俺のもう片方の頬にクリーンヒットしたのであった。




