アンセルムの葛藤
狩りから戻って来たアンセルムは荒れていた。
急遽狩りに行った為に、執務は滞っていたが、書類の山の机に拳を叩きつけていた。
「お前らしくない」
そう言うのは、ファントマ・マーノンである。
アンセルムとファントマは、幼い頃から一緒に育ち、俺、お前と呼び合う仲である。
ファントマにとってアンセルムは、尊大な皇太子である。
知力武力に優れ、権力を最大限の効力を得るように使い、冷静というよりは感情に欠ける人間という評価だ。
「そうだよ、気に入った女一人、手に入れられない情けない男だ」
今度は壁を打ちつけて、ドンと大きな音がする。
そのまま身体を壁にあずけて、アンセルムは片手で顔を覆った。
眼をつむっていても、モードリンの笑顔が浮かんでくる。こんな気持ちは初めてだ。
これを切ない、というのだろう、とアンセルムは知る。
モードリンが他の男の手を取る。
拳を握りしめ、歯を食いしばる。ギリギリ、音を立てるのは、アンセルムの心だ。
ファントマはアンセルムがまき散らした書類を拾い集め、順番に並べて机に置きなおした。
「俺が知るアンセルムは、気にいった女がいたこともないし、対人関係は相手の有効活用が最重要な人間だ。態度は横暴とさえいえる。」
アンセルムはファントマを睨むが、否定の言葉は出ない。
それを肯定ととらえて、ファントマは言葉を続ける。
「狩りでのお前は別人かと思ったぞ。
確かにモードリン嬢は美しいが、他にも美人はいるだろう?」
「お前にモードリンの何がわかる!」
語気を強めて、アンセルムは壁を叩く。
自分の手で幸せにしたかった。
「定期的に彼女の様子を知らせるよう、人を送ってくれ」
矛盾するアンセルムの想い。
他の男と一緒にいるモードリンを見たくない、それよりもモードリンの様子を知りたい。
「分かりました。
すぐに手配をしましょう」
ファントマはそう言って、部屋から出て行く。
何でも出来る男が、初めて手に入れられないものか・・、ファントマはアンセルムを思ってため息をついた。
執務室に誰もいなくなると、アンセルムはズルズルと崩れ落ちるように壁伝いに床に座り込んだ。
「何やってんだ、私は」
モードリンは国を豊かにすると言って前に進んでいるではないか、なんて女々しいんだ私は。
自分もモードリンに誇れるような王になる。
だが、今だけは、この想いに浸りたい。
メルデルエ公爵邸では、狩りでのことをユージェニーが母親のケイトリアに報告していた。
話を聞いていたケイトリアは、静かに瞼を閉じた。
「そう、それで戻って来たモードリンが部屋に閉じこもっているのね」
だからといって、婚約をなくすことはできない。
エルモンド・イグデニエル王太子と、モードリンは恋愛感情はないとしても、幼少の頃から王太子妃候補として接触があり、仲は悪くない。
王家、レプセント家、政略といえど、本人達も友好的に受け入れていたはずだ。
「時間が解決してくれるでしょう。
王太子殿下との結婚までは、2年の期間があるもの」
ケイトリアは自分がそうであったように、モードリンも夫となる人間と愛情を育むと考えていた。
高位貴族の娘と生まれ、政略結婚があるべきものと教育をうけてきたケイトリアと、モードリン、セリア。
「明日には、レプセント領に向かうのだから、今夜はそっとしておいてあげましょう」
「同感です」
ユージュニーは母親と違い、モードリンとアンセルムの様子を見ているだけに、恋人を引き裂いたようで、モードリンを哀れんでいた。
「部屋には入りませんが、扉の外からモードリンの様子を探ってきます」
そっとしておくとはいえど、やはり妹は心配なユージュニーである。
翌日は早朝から帰国の為に、公爵邸を馬車で出た。
モードリンの顔はむくんでいて、昨夜泣き明かしただろうと、誰もが思っていた。
ユージュニーは、ケイトリア、モードリン、セリアと手を取って馬車に乗せる。最後にユージュニーが馬車に乗り込むと従者が静かに扉を閉めた。
ガイザーン帝国の王都を走る多くの馬車に交じって、馬車は走る。
モードリンは馬車の窓の外に流れる風景をみつめ、家族に目を合わせようとはしない。
「あ」
もれでたモードリンの言葉。
モードリンが過ぎ去る景色をもどるように、窓をあけ身体を乗り出し後ろを見る。
多くの通行人の中に、アンセルムの姿を見た。
どうして、その一瞬で、たくさんの人に紛れているのに見つけられるのだろう。
「ああああ!」
窓にしがみつくモードリンを、ケイトリアが引き寄せて抱きしめた。
ユージュニーが開けた窓を閉めると、馬車の中にモードリンの嗚咽が響く。
どうして見つけられるのだろう。
同じ事をアンセルムも思っていた。忍びでレプセント家の馬車を見送りに来たが、見つけられるはずないと思っていた。
王都の道を行き交う人々、たくさんの馬車が走り去る一瞬、窓にモードリンを見つけた。
窓を開けてモードリンが身を乗り出す。
モードリンも私を見つけたのだ。
その歓喜、この感情を与えてくれるのはモードリンしかいない。
人々を掻き分け、馬車を追うように走る。
そんなに身を乗り出して、危ない。落ちたらどうするんだ!
モードリンが馬車の中に引き込まれ窓が閉められると、安心すると同時に寂しさに身を包まれる。
アンセルムは、走り去る馬車を見つめていた。