まぶたとおでこ
「おはよう。里波俊吾よね? 迷子になると思って迎えに来たの」
納豆。ワカメと豆腐の味噌汁。お新香。ご飯。里波が、納豆とご飯どっちに卵を使うか悩んでいると黒髪パーマのロングヘアの女性が里波に声をかけた。白いシャツに、アイボリーのハイウエストパンツを履いている。その上にアッシュグレイのドクターコートのようなものをはおっていた。そのグレイコートを着ている人間を里波は今日、食堂に来るまでに三人見かけた。奥野以外の人間がここに存在することに里波は安心した。
「卵かけご飯?」
「に、するか納豆に使うか迷ってるんです」
「全部混ぜちゃえば?」
「俺、納豆とご飯は別々に食べたいんっすよ」
里波は納豆に卵を落とした。かき混ぜる時に、前髪が鬱陶しくて里波は何度も顔を横に振った。
「名前、聞いても?」
「あ、ごめんね。関本佐和っていいます。何か困ったことがあったら、今日から私に言って。奥野はもうここにはいないから」
里波はえっと驚く。
「いないんですか?」
「うん。あの人は松崎さんの秘書だから、ここに留まれないぐらい忙しいの」
「松崎?」
里波が尋ねる。
「偉い人」
関本は頬杖をついてにっこりした。里波は頷いて、納豆をかき込んだ。
朝食を終えると里波は、関本の研究室に連れて来られた。デスクにパソコン。そして、八人は並べそうな大きなテーブルがあった。棚はきちんと整理され、トルコランプやマトリョーシカ、エッフェル塔に自由の女神と多国籍な置物が飾られていた。
「適当に座って。食後のコーヒー飲む?」
「すんません。俺、コーヒー飲めないです」
「あ、そう。じゃあ紅茶は? ペットボトルだけど」
「飲みます」
里波はドアに近いテーブルの席に座った。関本はアイスティーを運び、デスクからファイルを持ってくると里波の隣に座った。
「これ、里波に担当してもらう対象」
「対象?」
里波が聞き返す。関本はグレイコートのポケットからヘアクリップを出すとハーフアップにする。
「あなたが面倒見る人ってこと」
ファイルを開く前に里波は思い切って聞いた。
「ここは病院ですか?」
「違うわ」
関本は即答した。そして、言葉を選ぶために考える。
「研究と保護を目的とした施設、かな」
「何のための研究?」
「人類の未来?」
関本の疑問形に里波は変な顔をする。関本は笑い声を上げた。
「あははっ! まあ、そういう顔になるわな! 健全健全!」
なぜか関本は嬉しそうだった。
「分類すれば、人類だけど、未知なる人類っていうのがいるのよ。あなたが知らないだけで。そういう人達が社会に紛れるのは、ややこしいことや補助できない億劫の連続なの。だいたい人間社会が嫌になる。そういう人間を保護してるの。これ以上は言えない。奥野から詳しくは話せないって聞いてない?」
「聞きました」
「不安なら帰っても大丈夫よ」
里波は少し黙って、首を横に振った。
「大丈夫、だと思う。から、大丈夫です」
関本はファイルを指でつつく。
「そう。よかった。彼ね、気難しくてここの職員とは合わないの。外部から誰か寄こせって毎日、奥野に鬼電したら君が来てくれた。ありがとう」
関本は心からお礼を言った。里波はなんだか照れくさくなり、ヘラヘラ笑った。
「じゃあ、カルテ見て。たいしたこと書いてないけど」
病院じゃないと言ったのに、病院らしい言葉が出てくるなと思いながら里波はファイルを開いた。最初に里波は顔写真に目がいった。鎖骨まで伸びた黒髪。切れ長だが、優しそうな瞳。すっきりとした顔立ちだが、柔らかさがある。名前を見る。秋津准司。
「アキヅ、ジュンジ」
年齢は外見推定三十歳、とあった。
「なんすか、これ。外見推定って」
「見た目がだいたい三十歳ぐらいに見えるってこと。私は二十代後半でもいいと思うけどね。じっくり読んでて。ちょっと持ってくるものがあるから」
関本は研究室を出て行った。里波はそれを視線で見送ると、アイスティーで喉を潤し、カルテの続きを読んだ。
■■■■年■月■日、■■県■■町■■村、元■■邸裏の竹やぶで倒れている対象を保護。外傷はなし。
ちょうど一年前の日付とその文章からはじまるカルテを里波は一通り読んだが、消されている部分が多く、頭によく入ってこなかった。里波はファイルを閉じる。関本が戻って来た。
「アルバイトでも一か月はうちの職員だから。これ着てね」
関本の手には新品のグレイコートがあった。
説明を終えた関本が部屋を出て行く。それを里波は見送った。パタンとスライドしたドアが閉まる音が静かな部屋に響く。里波はベッドに座る秋津の方に向き直る。秋津の部屋はやはり病室に似ていた。ベッドの背は上げられ、秋津は顔を里波の方へ向けていた。まぶたは閉じている。まぶたのふちに透明のジェルが塗られ、それのせいで秋津はまぶたを開けることができない。カルテには秋津の眼は、光に耐えられないとあった。秋津のまぶたに塗られているジェルは、専用の薬品でなければ取れない。このジェルは一日一回塗り直す。この仕事は明日から、里波がすることになる。
「俺は何をしたら、いいですかね?」
里波は素直に秋津に聞いた。秋津は肩を揺らして笑った。
「俺にそれを聞くのか?」
見た目から、声も涼やかなよく通る声だと里波は予想していたが、違った。低めの胸に響く、穏やかな声だった。けれど、よく通る声には違いなかった。
「すいません。夏期営業のコテージの手伝いだって聞いて、このアルバイト引き受けたんで。来たら、なんか、思ったのと全然違って」
奥野の話はほとんどが嘘とごまかしだったんだと里波は今になってやっと、冷静に考えた。
「騙されたんだね、里波は」
秋津は里波の心情を閉じた瞳で読み取る。秋津の口元は里波に会ってから優しい弧を描いたままだ。温和さを漂わせる秋津に、里波の緊張がほぐれる。
「座って」
言われるがまま、里波はベッドの傍の椅子に座った。
「俺のことどう思った?」
「秋津さんの印象ってこと?」
里波が聞き返す。
「そういうこと」
「写真で見たより、髪が長い」
秋津の髪は胸まで伸びていた。
「あははっ。ここに来てから切ってないからな」
秋津の指先は迷いなく、自分の毛先に触れた。その所作は滑らかであり、熟練さがあった。秋津の指から黒髪が落ちた。里波は口を開いた。
「今はそれくらい。秋津さんは俺に何をして欲しい?」
里波が尋ねる。秋津はそうだね、と呟く。
「とりあえずこういう風に会話をして欲しい。話さなくても近くにいて欲しい。昼食も一緒に食べよう。ここの奴らは嘘か、うさんくささが混じった話しかしてくれないからね」
里波は秋津の哀愁さに対して、同情心を持った。
「初日どうだった?」
関本の研究室に戻って来た里波はそう聞かれた。秋津の病室にいるのは午前九時から午後五時までと決められていた。その後里波は、支給されたノートパソコンで報告書を書き、関本のチェックが終われば一日の業務は終了となる。
「思ったより優しい人でしたよ」
「へぇ。里波には優しいんだ、あの男」
関本の声には棘があった。
「まぁ、初日だからかもしれないけど。思ったより楽しかった、かも」
里波はテーブルにあったノートパソコンの前に座った。
「報告書は毎日ここで書いていいんですか?」
「うん」
関本はなぜかニマニマしていた。
「なんですか?」
「奥野がなんで里波を連れてきたか分かる気がする」
「なんですか?」
「チョロそうだから」
里波はムッとする。
「俺そんなこと初めて言われましたぁ」
嫌味に聞こえるように里波は言い返しながら、ノートパソコンを開いた。関本はデスクから近くに来ると、里波の赤髪をわしゃわしゃ撫でまわした。
「ごめんごめん。褒めてんのよ。私は嬉しい。喜んでいる」
ぜってぇ嘘だ、と里波は心の中でボヤく。関本は撫でまわした手を里波の肩にまわす。
「けど、気を付けなさいよ。あの男は普通じゃないからね」
今までのお茶らけの声とトーンが変わった。関本の腕が離れていく。
「里波はいい子そうだから心配。だから、助言しておく。ここにいる人間は誰も信用しちゃダメよ。私も含めて」
夏の夕暮れは遅い。研究室はまだ明るかった。関本の影が薄く床に伸びる。
「奥野のことで、さすがに君も勘付いているでしょう? この一か月、上辺でいいからね。飲み込まれないように気を付けなさい」
里波は報告書を書き終え、部屋に戻る。スマホが使えず、テレビもないため、暇を潰せるものが何もなく、里波は風呂に入った。そして夕食にカルボナーラを食べる。厚切りベーコンがおいしかった。サラダのドレッシングも買って帰りたいぐらいだった。食堂の帰りに、里波は関本の研究室に寄って、何か暇を潰せるものはないかと聞いた。関本は里波の部屋にテレビがないことに驚き、手配しとくと謝った。関本は小説を三冊、里波に貸した。里波が部屋に戻ると、部屋は暗かった。やっと夜になった。里波は電気を付けずに、レースのカーテンを持ち上げて窓の外を見た。一面の眩しく鮮やかな緑は、夜闇に沈んでいた。
「何を書いてるんだ?」
メモ帳にボールペンを走らせる音が秋津の耳に届く。里波はボールペンを止めて、秋津の顔を見る。まぶたのジェルが昨日よりゆがんでいる。今日初めて、関本に教えられながら里波がやった。関本は、オーケーと言ったが里波は秋津に申し訳なく思った。
「報告書に秋津さんにしたこと、話したこと書かないといけないから。忘れないように」
秋津の髪をとかした、と里波は書くとメモ帳をグレイコートのポケットに戻した。
「里波との会話は全部筒抜けかぁ」
今日の秋津は窓際の椅子に座り、ジンジャエールを飲んでいた。里波が手を貸さなくても軽やかな動作で秋津はストローを口に付ける。テーブルを挟んで、その様子を里波は眺める。
「これが俺の仕事だからね。だから俺に秘密を話したらダメだよ」
里波の注意に秋津は笑みを浮かべる。秋津は笑うと目尻にくしゃっと皺ができる。
「気を付けるよ」
秋津は自分の秘密がたいしたことではないような口調だった。里波は邪魔な前髪をかき上げる。
「前髪切ろうかな」
里波が呟く。
「前髪、長いよね」
秋津が返す。里波は驚く。
「わかんの?」
秋津は白くて関節ばった長い人差し指でまぶたのふちをそっと、なぞった。
「これをしてくれた時に、毛先が俺の肌に触れた」
「え、ごめんなさい」
「苦情じゃないよ。俺はそんなに口うるさくない」
秋津はクスクス笑う。
「じゃあさ、里波が自分の前髪を上手に切れたら、俺の前髪も切ってよ。そろそろ短くしたいと思ってたんだ」
「ええぇ、いやだ。困る」
「もう少し考えてよ」
秋津との時間は里波にとって不思議なことに、一日の生活でいちばん気が楽だった。
里波が報告書を書きに行くと、関本が開口一番に謝った。テレビは奥野から許可が下りなかったという。
「あのクソ野郎が! 昔から融通きかないんだから!」
関本が苛立ち、怒る。
「奥野さんとずっと仲良しなんですか?」
「仲良しじゃない!」
関本の否定は早かった。テーブルから関本は乱暴に椅子を引くと、座り、足を組む。
「十年ちょっとの付き合いよ。同い年で、前はあいつもここにいた。けど、まあ、仕事ができすぎたんだね。松崎の秘書になった」
「その、松崎さんはここの、所長とか、ですか?」
関本はハエを払うように手を振った。
「違う違う。あの人にとって、ここは小指の爪みたいなもんよ。人脈のあるすごい金持ち」
「すごい金持ち?」
「ものすんごい金持ち。話戻すけど、漫画とかなら取り寄せられるから。ここ電波ないから、明日の朝に人づてに頼んでも、一週間かかるけど」
「じゃあ、明日の朝までに考えときやーす」
里波はメモ帳を頼りに、キーボードを打つ。前髪が落ちてきては、その度にかき上げる。我慢できなくなった里波は本を読む関本に声をかける。
「関本さーん、ハサミ借りたいんですけど。前髪切りたくて」
「ええ? 前髪ぃ?」
関本が驚いて、本を伏せた。里波は目にかかった前髪を見せる。
「邪魔で」
「確かに長いね。あ!」
思い出した関本はデスクの引き出しを開けるとガサガサする。
「今年の正月にヘアアクセの福袋買ったのよ。千円で。こっちおいで」
里波は関本の近くに行った。手には波打ったワイヤーのカチューシャがあった。
「かがんで」
言われた通りにすると関本はさっと、里波にカチューシャを付けてやった。
「あ、かわいい。デコ出すの似合うよー。いい感じ。あそこに鏡あるから、見てみな。それあげるから」
里波は姿見の方へ歩いていく。
「本当だ! 結構似合う俺!」
関本が愉快そうに、自画自賛の里波を眺めた。