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トマト  作者: ヒルマ・デネタ
Last chapter
17/17

触れる夢(終)





「秋津さん、シグレの綿を入れ替えたいんだけどいい?」

 八月。里波がシグレを秋津の家に持って来た。

「そろそろ入れ替えてやりたくて。俺、座布団とかにしてたからか、ぺったんこになってしまった」

「座布団にしたの」

 秋津はちょっとショックを受ける。秋津の中ではシグレは、縋るように抱きしめられていた記憶が強かった。

「かわいくてさ」

 里波は言い訳になっていない言い訳をした。秋津は笑って許してしまった。

「綿抜いたら、せっかくだから洗濯しよう。柔軟剤でふかふかにしよう」

 里波は洗濯機の中でぐるぐるに回されるシグレを眺め、バルコニーの日陰でぺったんこになって干されるシグレをスマホで撮る。秋津がテラスのテーブルでレシピを書き足していた。

「須永に送ろ。あ、須永月末のパーティー来れるって。俺が迎えに行ってくる」

 里波はハンモックに座りながら、須永に写真を送った。

「奥野と関本も来れるって」

「赤森さんは?」

「こそこそ来れたら来るってさ」

「そっか」

 里波はハンモックに寝そべった。揺れながら秋津に言った。

「秋津さん、少しずつ荷物運んどいていい? 本とか冬物の服とか」

 秋津はにやける顔を押えた。さりげなく、なんてことないように。そう意識して、里波の方を向いた。

「いいと思う。手伝うよ。少し早めに引っ越してきていいし」

 しまった。無意識にがっつき過ぎた。秋津は内心焦る。

「うーん、九月かな」

 里波は頷かなかった。

「そう、だよな」

 秋津はレシピに視線を落とし、ペンを回す。ハンモックから里波はにこやかに秋津を見つめる。里波はハンモックからおりると秋津の隣に無理矢理、お尻を押し込んで座った。そして、秋津の肩に里波は頭を預ける。

「勘違いしてたら嫌だから、しつこく言うけどさ。本当に仕事だからな。九月にこっち来る。去年から九月って決めてたんだ」

「わかってる」

 秋津は反省した。ペンを置いて、里波の腰に手をまわした。

「初恋だから張り切り過ぎただけ」

「そういうの面と向かって言わないでー」

 里波は秋津が不細工になるように顔を押さえた。夜になって、秋津がシグレに新しい綿を詰めた。秋津は裁縫が得意だった。

「よし、できた」

 秋津はシグレを里波に抱かせる。

「なんか、太った」

 シグレは、はち切れそうなほどピチピチになっていた。里波は抱きしめてみた。

「……ハリがある」

 里波は久しぶりにシグレを抱きしめて眠った。


 八月の最後の土曜日。里波は須永を駅まで迎えに行く。

「土産、よく分かんなかったからとりあえず酒にした」

 須永の手にはワインがあった。

「ありがとう。いい奴そうだな」

「ちょっと張り切った」

 須永を助手席に乗せ、里波は高速を走った。運転する里波を須永は初めて見たせいか、落ち着かない、怖い、信用できないと車のあちこちを掴んでいた。最初の方は里波も宥めていたが、だんだんムカついてきて最後の方はずっと口だけのブーイングをしていた。

「ブレッドは元気か?」

 パーティーの一番乗りはまさかの赤森だった。アロハシャツにサングラス。赤森に似合う、赤森らしい恰好だった。

「めっちゃ元気ですよ。父親が特に可愛がり過ぎて、太ったんです。だから今は、ダイエット中です」

 須永がブレッドの写真を見せる。最後に会った卒業式の日より貫禄が出ていて、里波は驚いた。ピチピチになったシグレを思い返して里波はこっそり笑った。

 レストランはテーブル席が三つあるだけだった。今日はそれを繋げて、クロスをかけた。秋津の料理を里波がキッチンから運ぶ。料理名はすべて暗記していた。テーブルに並べ終えた頃、奥野と関本がやってきた。

「タイミングいいなー。見てただろ」

 赤森がひやかす。奥野たちの土産もワインだった。

「あとペンションの主人から」

 ボスからオニオンドレッシングとパウンドケーキが届いた。秋津が喜んで、キッチンに運んだ時に奥野が里波の肩を叩いた。

「これ、預かってきた」

 奥野が手紙を里波に差し出した。少し癖があるけれど、読みやすい字。その文字だけで里波は差出人が分かった。

「あいつはかなり嫉妬深いから」

 奥野が意味ありげにキッチン方を見ながら言った。里波は頷いて、手紙をズボンのポケットにしまった。パーティーは盛り上がった。赤森は「愛欲に海」という言葉を繰り返して途中からずっと泣いていた。関本は料理を口に運ぶごとに「あんたは天才だ」と秋津に賛辞を送って、誰よりも酔っぱらった。須永は関本と赤森に絡まれ、時々里波に助けを求め、楽しんでいた。奥野は静かにその様子を眺め、舌鼓を打ち、心から嬉しそうにしていた。秋津はずっと楽しそうだった。人生でいちばん楽しいかもと言えば、レストランはその夜でいちばん大きな笑い声で包まれた。里波もポケットの手紙を忘れるくらい楽しくて、本当に夢みたいに幸せだった。テーブルには飲み干したグラスが残っていた。


 パーティーに呼んだ客達は皆、秋津の家に泊まった。秋津と里波は片づけを少しやって、皆より遅く寝た。里波は朝もやの時間に目を覚ます。傍らには秋津。部屋を出る。隣の部屋には男三人が寝ていた。足音を立てないように一階におりる。リビングの隣は関本が寝ていた。里波はテラスへの窓を開ける。そして、ハンモックに座った。七絵からの手紙はここで読むのが相応しいと里波は手紙を受け取った時から思っていた。手紙を開く。とても短い、シンプルな手紙だった。


 里波くんへ

 お元気ですか?

 あの夏の日々が懐かしいです。

 私もササメも元気です。

 ササメといえば、というのもおかしいですが最近、波際ササメという方の「まぶたのそばにいて」という本を見つけました。気になって買って、読みました。

 もしかして君が書いたのかもと思いました。たぶん、違うだろうけど。

 とてもおもしろかったです。里波くんもよかったら、読んでみて。

 いつまでもお元気で。


 夏の朝の下に便せんを折る音が響く。七絵さん、大正解です。里波は心の中で呟く。けれど、本当のことを伝える気は里波にはなかった。あの小説は一生の秘密にすると、秋津に再会してから里波は強く決めていた。





「まぶたのそばにいて」の映画公開は九月の半ばだった。里波は編集長と担当者以外の前ではけして姿を見せなかった。映画の撮影現場に行くことも、試写に行くことも、インタビューもNGだった。映画化に関して、嬉しいという内容のコメントだけは出した。けれど、担当から映画を見たらコメントが欲しいとしつこく言われていた。里波は公開初日の最終上映を見て、次の日にコメントを送ることにした。

 小説の秋津の名前は夏本にした。里波は海原にした。夏本は森のペンションの主人。そこにアルバイトに来る海原。年の差は十五歳。関本達に万が一、読まれた場合でも気づかれないように里波は気をつけた。バレない自信もあった。

 里波は夜の映画館に出かけた。客はまばらだった。十人と少しだった。里波は緊張する。けれど、映画が始まればそれはすぐにそれは消えた。夏本の役者は秋津よりずっと華奢で似てなかった。海原も里波よりずっと男前で似てなかった。それがいちいちおかしくて、里波はなんどか笑った。笑っているのは里波だけだった。

 夏本は人の心が分からないが故に世間を恐れ、山のペンションで暮らしていた。世間に慣れるために、海原が山から夏本を連れ出して一緒に暮らす。暮らしは順調だったが、ある日海原は事故に遭遇する。それがトラウマになり、眠れなくなると夏本が寄り添ってくれるようになった。こんな風にこの先も、寄り添って生きていけたらいいと海原は思っていたが、雪の降るある日、夏本は海原の前から姿を消す。それは夏本の過去の秘密が原因だった。

 物語はクライマックスにさしかかる。その時、里波の前を人が通った。ここから見るのか、と少しの怒りを持って隣を盗み見た。里波は声を上げそうになった。秋津が人差し指を唇の前に置いた。そして、スクリーンを指差した。秋津は正面を向く。里波は秋津の横顔を抗議するように見つめたが秋津はスクリーンから目を離さなかった。里波は諦めて、スクリーンを見た。けれど、やはり我慢できなかった。逃げよう。そう決めた瞬間、秋津が里波の手に指を絡めた。そして強く握る。里波は秋津を見る。秋津はスクリーンから目を離すことはない。里波は諦めた。里波は懺悔をしているような気持ちになった。

 ラスト。海原はペンションにやってくる。夏本は静かに驚く。ふたりはどちらとともなく、歩み寄っていくところでエンドロールが流れた。客が数人、席を立つ。里波と秋津はエンドロールが終わるまでスクリーンを眺めた。明るくなると同時に、秋津が里波から手を離した。客が帰っていく。里波は聞いた。

「なんでいんの?」

「理由がなかったら来ないよ」

 秋津はどこまでも穏やかだった。里波は席を立つと足早に帰る。秋津は当然のようについていく。

 夜の道を里波はひとり歩く。秋津がついて来ていたのは分かっていた。分かっていて、無視した。怒りと恥ずかしさと懺悔と、言い尽くせない感情で里波はぐちゃぐちゃだった。公園の前の街灯の下で、里波は立ち止まって秋津と向き合った。ごまかしても、もう無理だと分かっていた。分かっていても、里波は俯いてしまった。

「いつ、気付いたんだよ?」

 里波の声は小さかった。

「俺が里波のマンションに行ったことあっただろう?」

「いつの?」

「花見の、少し前」

 そんなに前かと、里波は落ち込んだ。

「ティッシュがなくなったから、新しいのを出そうと思って。そしたらティッシュの下から、あの映画の本が出てきた。何冊も同じのがあったから、里波がそんなに好きなんだと思って。でも部屋の本棚じゃなくて、クローゼットに隠してるってことは、知られたくないんだろうなと思いつつ、興味が勝って、買った」

「読んだ?」

  里波は念のために聞いた。秋津は言った。

「読んだ」

 自分の詰めが甘かった。里波は八つ当たりしている自覚はあった。それでも、

「秋津さんには絶対に秘密にしたかった」

 それが本心だった。

「……どうして?」

 秋津は聞いた。

「あれは俺の夢だったんだよ。秋津さんがもう、帰って来ないって現実を受け止めるための夢。だから見られたくなかった」

 ラストシーンは森まで秋津に会いにいきたい里波の叶わない願いを、あまっちょろく書いたものだった。

「あれを書いて、気持ちに区切りをつけて、秋津さんを夢の中に置いて行ったんだ。誰にも知られたくなかった。ごめん」

 里波は大きく深呼吸した。秋津は里波に近づくと、里波の前髪をかき上げるようにおでこを包んだ。

「夢より甘やかしてあげるから。だから置き去りにしないで」

 秋津の体温が里波を伝う。

「今はつらくはなくても、あの時はつらかったんだろう。それも全部、俺に託して。里波との過ぎた日々が、俺の先になったんだから」

 秋津は懇願する。里波は心配していたことを聞いた。

「あの小説読んで、秋津さんは傷つかなかった?」

「ちっとも。なんでそう思う?」

「年の差は十五にしたから。めっちゃ歳の差、縮めたから」

 秋津は一瞬黙って、微笑んだ。

「十五歳も百歳もたいした問題じゃないよ」

「秋津さん、見た目が三十代だからそんなこと言えるんだよ。数字だけ聞いたらエグいぜ」

「小説より、今の言葉に傷ついた。あと、波際ササメのササメって何? シグレの友達?」

「そうかもしれない」

 里波は仲が良いササメとシグレを想像して楽しくなった。

「ホテル取ってるの?」

 里波が尋ねる。秋津は首を横に振った。

「泊めてもらおうと思ってた」

「そう。じゃあ、帰ろう」

 里波と秋津は並んで、同じ場所に帰ってゆく。そして、ふたりは今夜、まばたきのような眠りに沈む。けれどそれは、待っていた長い夢だった。


 七絵さんへ

 お手紙ありがとうございます。

 俺は元気です。ボスやメアリーに聞いたかもしれないけど、小さなレストランで仕事をしています。もしよかったら、ご夫婦でいつか食べに来てください。(予約制なので電話ください。お店の名刺を同封しておきます)

 七絵さんが教えてくれた小説だけど、残念ながら俺は書いていません。でも、読みました。つらい所もあったけど、とてもおもしろかったです。読んでよかったです。

 ササメにもよろしく。


 秋津のレストランは一年経って、予約が取れない秘境のレストランになった。秘境というほど、秘境ではないと秋津はぼやいた。そして開店以来、はじめてお店を長期休業にした。里波の両親に会うために、ふたりはフィンランドに行く。

 里波は空港で秋津にもらった文庫本を読み終えた。

「ここまで来て、本読む?」

 秋津が驚く。

「ここで読み終わりたかったんだよ。あとこれ、返す」

「なにこれ」

 文庫本に挟んでいた秋津のやることリストを里波は返した。リストを広げて、秋津は恥ずかしそうにした。

「なんで途中でやめてんだよ。一個ぐらい書けよー」

 里波はリストの「里波と、」をデコピンした。秋津は労わるようにリストを撫でた。

「あり過ぎて、言葉にできなかったんだよ。書こうと思えば、思うほどこぼれた」

 秋津は、まつ毛を伏せて言った。里波は秋津の目尻の皺を見つめて言った。

「こぼれたもん、これから全部拾って行こう」

 ふたりは明るい朝を一緒に、飛び立つ。














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