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トマト  作者: ヒルマ・デネタ
Chapter 7
15/17

再会して栞



 歩いて歩いて気がついたら、竹やぶに囲まれていた。里波は来た道をふり返る。まだ、引き返せる風景だった。里波は戻った。戻って来られるようにしないといけない。里波は考えて、カッターナイフを出した。歯を食いしばると、手のひらを裂いた。血が滴る。それを竹に押し付けた。血の印が付いた。里波は血の跡を残しながら、緑に飲み込まれてゆく。里波の足音と息遣いだけがこぼれ、消える。歩いても、歩いても緑は消えない。里波はしゃがみ込んだ。このままだと、貧血になって倒れる。森に連れて行かれた秋津の二の舞になる。里波は終わりのない竹やぶの奥に目を凝らす。少し離れた竹の枝が折りかけていた。里波は顔を上げる。里波がさっき印をつけた竹の枝もそうだった。里波は立ち上がる。折れかけた枝を頼りに、歩き出す。だんだんと足は急ぐ。緑は流れ、突然ひらけた。そこには何もなかった。竹やぶがカサカサ鳴っている。

「篁家の屋敷はとっくにないよ」

 松崎がいた。もう里波は驚かなかった。けれど、血を目印に来たことを知られたくなく、傷のある手をポケットに隠した。里波は松崎の方に向き直る。松崎は、横を向いたまま竹やぶの方を見つめていた。

「あんたはどこから来たの?」

 正直にそれが里波は気になった。

「俊吾君が来たのは裏だよ。篁家の屋敷の裏。表の道は普通にあるよ。秋津を保護した時に、この辺りの地理は調べてある」

 松崎は里波をからかった。

「先回りして俺を馬鹿にするために待ってたんだ?」

「俊吾君が自分の意思と力で、ここまで辿りついたっていう事実が欲しかったから。けど、もう少し道に迷うと思ってたよ」

「誘導したくせに。本当に性格わりぃな、あんた」

「僕が念力でも飛ばしたっていうのか?」

「もういい。くどいことしやがって。秋津さんは? 死んでないんだろう、やっぱり。ネチネチネチなんなんだよ」

 里波はまくし立てる。松崎はゆったりと里波の方に歩み寄る。里波はポケットの中で、カッターナイフを握る。

「僕は大切に育てられた。それこそ、愛された。励まされ、慰められ、叱られ。それなのに僕の焦燥は消えない。これは理由のない生まれつきなんだと、無理矢理ずっとずっと納得しようとしていた。それなのに、篁家の血のことを知った。あいつらには、愛を持たない生まれつきの理由がある。赤森の猫を殺させた時、赤森の傷ついた顔を見たときに、僕ははじめて自分を慰めることができた。みんな僕が秋津の存在を信仰のように心の支えにしているって思っているようだけど、違うよ。ただ、僕と同じくらい秋津に傷ついて欲しい。そしたら僕は、生きていける」

 松崎は愛を貰っているのに満足できない自分に苦しんでいる。けれどその傷を慰める義理は里波にはない。松崎はポケットから紐を出す。里波は身構える。

「ここで俊吾君が死ねば、秋津は死ぬほど傷つくね。俊吾君が秋津を捜しに自ら、この場所に来て、殺される。とてもいい」

 松崎が掴みかかるのと同時に、里波はカッターナイフを出す。それよりも早く、松崎の手に矢が刺さった。松崎が叫ぶ。里波は目を見開く。手首を掴まれ、里波の手からカッターナイフが落ちる。里波は温もりに包まれた。

「傷つくなって言ったのに」

 秋津が血で汚れた里波の手を辛そうに見た。

「あの時話したのって、そういう意味じゃなくなかった?」

 里波は冷静に言った。秋津は顔をしかめる。里波の背後で鈍い音がした。里波がふりかえろうとすると、秋津が里波の顔を胸板に押し付けた。松崎のうめき声が聞こえる。

「安心しろ。殺しはしない。説教するだけだ。お前らは先に行け。後片付けは私がする」

 赤森がシッシッ、と手払いする。秋津は里波の耳元で囁く。

「俺が大丈夫だって言うまで、ふり向くなよ」

 秋津は里波の手を引いて、竹やぶの奥に消えてゆく。それをしばし見送ってから、赤森は呻く松崎を抱えると自分で編んできたドでかいカゴに放り込んだ。

「お前がしたことは、竹やぶに矢を射っただけだ。赤きは酒の咎。私はお前を殺さない。拷問して生まれてきたことを後悔させて、早く地獄に落ちたいと思わせてから殺したいが、私はもうこれ以上辛抱強くいたくない」

 松崎は血を流しながら、赤森を睨む。そんな松崎を赤森は淡泊に見下ろす。

「こんなザマのお前を見れば、へそが宿替えすると思ったが、ダメだな。恨みは笑えないな。松崎。お前は自分が大好きなんだよ。なのにスカしてやがる。それがいけない。自分が自分を大好きだと、自分で認めろ。自分が自分に向けている愛以上の愛を、他人が自分に向けるのを常識のように望んでいる。ちょっと違うな。色も形も限定にしてんだ。お前の愛の受け口は、限定品しか受け付けてねぇんだ。私の言っていることが分かるか? 私はちょっとよく分からなくなってきた」

 松崎は荒い呼吸をするだけで、返事はない。けれど、赤森の言葉はきちんと聞こえており、唇を噛み締めた。カゴの底で恥に耐える。

「私はずっとお前に敵うことはないと思っていた。けど、冷静になった。里波ちゃんが誘拐されて、お前が迎えに行った。あれは秋津に対しての当て付けだと思っていた。けど、違う。しばらく考えて分かった。あれは私に釘を刺したんだろう? これ以上、自分に近づく私がやっかいだった。この数年は特に、お前は私の周辺を嗅ぎまわり、私を遠ざけようとした。それは正解だ。私はお前より、みんなに好かれている。私は自分で自分が大好きだと胸を張れる。そんでな、お前はもう、私の猫を殺せない」

 赤森は強く言って、愛惜が脳裏を過ぎる。

「お前は私を遠ざけたいんだろう? だったら、お前が遠くへ行け。金はあるだろう。二度と秋津にも里波ちゃんにも近づくな。関本にも、奥野にも」

 赤森はカゴを担ぐ。足は草履だった。

「ちょうど血が出てるんだ血判しろ。それから傷を医者に診せてやる」

 赤森と松崎は竹やぶから離れて行った。




 秋津が折れかけの竹の枝を里波によく見せた。

「ちゃんと来られるようにやっておいただろう? なんで、カッターで手なんか切った」

 秋津が説教する。竹の目印は松崎ではなく、秋津がやったのだと里波は知った。

「途中で気付いたんだよ」

「松崎が買った家の玄関に、ウサギの置物を置いていただろう?」

 確かにあった。けれどピンとこない里波は、首を傾げる。

「里波、ウサギの栞を使っていただろう。竹の」

 秋津の理由に里波は心底不服そうに抗議した。

「そんなんで分かるわけないじゃん! 察っしてちゃんレベルの暗号だろ、そんなん!」

「いや、でも栞っていうのは、こういう道で木の枝を折りかけて帰りの道しるべにするための、」

「そんなん知らねぇよ!」

 里波は秋津の手を振り払って先を歩く。秋津が慌てて追いかける。里波は自分の血が付いた竹の前で立ち止まる。

「これの方が分かりやすいよ」

 里波が言った。

「でも、無茶が過ぎる」

 秋津が咎める。

「今回のこの作戦の方が無茶が過ぎるだろうが」

 里波は怒りをにじませた。秋津は押し黙る。

「いつから考えてたの?」

「少し前から」

「少し前っていつ? 具体的に言えよ」

 里波は問い詰める。秋津は叱られてふてくされた子どものように、目をそらした。

「俺があの家から出て行くより、少し前……。里波に無事に大学を卒業して欲しかった。だから俺は一旦、松崎のところに行くことにした。あの時は金輪際、里波を松崎と接触させたくはないと思った。だが、あいつの執着を利用するにはやむを得ないということにした。今度こそ、金輪際かかわらないように、そのために長い作戦をした。全部は話せない。謝っても許されないのは分かってる」

 あの家がふたりで住んでいた借家であることは言わずもがなだった。里波は自分の知らない計画があったのが、自分の想像よりずっと前で腹が立った。

「協力者は赤森さんだけ? 奥野さんは?」

「奥野もだよ。関本は知らない。言ってない」

 ペンションでのお好み焼きパーティーの日、奥野が里波に「松崎から逃げるように説得した」と話したのは嘘だった。芝居を打っていた。奥野は秋津が帰って来ることはないと可能な限り、里波に思い込ませたかった。実際は、秋津は赤森と奥野を使い倒すほどに頼っていた。

「最初からそうなら、そうだって話してくれればよかっただろう」

「松崎に勘付かれたらいけなかったんだ。里波は嘘が上手じゃない。俺が目をつぶっていても、里波が嘘を吐けば分かる。森の時、そうだった。でも、それが里波のいいところだから」

 秋津は笑みを浮かべた。里波は黙った。秋津の言い分は納得できる。それでも惨めで仕方なかった。秋津と離れた時間の自分があまりにも滑稽で、小説を書いたことも里波は後悔した。涙が込み上げてきた。これ以上かっこ悪くなりたくなかった里波は秋津に背を向けた。

「分かった。竹やぶから出るまで俺の後ろ歩いてて。それまでに気持ち切り替えるから」

 声の震えを里波は我慢できなかった。それさえも恥ずかしかった。逃げるように里波は歩き出す。秋津は後ろから里波を抱きしめる。

「ごめん。泣かないで、ごめん」

 秋津は慌てふためく。口を開けば、涙がこぼれそうで里波は顔を背けた。

「そっぽ向かないで」

 割れ物を包むように、秋津は大きな手で里波の頭を包んだ。そして里波の顔にかかる前髪をそっと上げる。

「笑うのはよくなかった。俺の言い方もよくなかった、ごめん。わざと里波を傷つけたのに。ごめんなさい」

 秋津は必死に何度も謝った。里波は涙をこらえる。俯いたが、駄目だった。秋津が里波の正面にまわり、顔を両手で包んだ。

「何か言ってよ」

 縋るような秋津の顔に笑みはない。それなのに、目尻には皺があった。笑わないとそこに皺はできなかったのに。里波は愛おしくて、さらに涙がこぼれた。秋津はうろたえて、抱きしめる。

「よしよし。いや、よしよしはよくないな。悪いのは全部俺だから。言い訳はもうない」

「そういうことじゃない。これは、違う。違うから」

 嗚咽まじりに里波は訂正するが、里波が泣きやむことしか頭にない秋津は聞いてなかった。緑に包まれた世界にふたりしかいなかった。そこに里波が付けた赤が、来た道へ続いている。ふたりはもういつだって、帰ることができる。






「松崎は日本から出て行ったぞ」

 クレープ屋のワゴンの正面のベンチで、赤森と奥野は苺のクレープを食べていた。

「よく素直に出て行ったな」

 奥野は言った。本当は赤森が憎しみと力を込めて、追いやった。それについて赤森は一生誰にも話さないと決めていた。

「篁の血は、私と秋津で最後だ。折られたプライドの仕返しをするプライドはなかったんだろう。またどっかで、自分の寂しさを埋めてくれるものを見つけるさ。もうあとは知らん。私は松崎を更生させるつもりはない。どうなれば、更生か知らん。俺の世界から消えればいいことにした。一生、恨むけどな。森の他の奴らは、隠れ家として森を使っていただけだ。森にはもう、誰もいなくなった。千年経てば自然に飲まれて、忘れられるだろう」

 奥野は森まで続く一本道を想像する。もうあの道を戻ることはない。いや、やっと戻って来たのかと、笑った。

「空店の恵比寿さんかよ、お前」

 赤森が不気味がる。

「思い出し笑いだよ」

 思い出が緑で消えてゆく。奥野は苺を食べる。そして奥野はまじまじと赤森の横顔を見つめる。

「なんだよ」

「赤森、お前ずいぶんと老けたな」

 奥野はずっと思っていたことを言った。赤森は嬉しそうにする。

「死んだからってな、愛が消えるわけじゃない。見えなくなってもなお、ますます愛おしい」

 奥野は相槌も打てなかった。

「死んで花実が咲くものか。花が咲いたから、死ぬんだよ」

 赤森が言った。誰もがそうだったらいいが、そうじゃない人間もいる。奥野は思ったが、口にしない。

「後の雁が先になったな」

 赤森は嬉しそうに言った。

「秋津のことか?」

「ああ。お前も里波ちゃんに謝っておけよ。理由は理由だが、トラウマを利用して騙した。苦肉の策を言い訳にな」

 奥野は顔を苦くする。

「分かってるよ。明日、会いに行く」

 奥野は電話で先に謝っていた。ペンションでの演技うますぎて、騙されたと里波に言われ、奥野は謝るしかなかった。奥野は演技をしたつもりはまったくなかった。

「この作戦を本気で反対したのは奥野だけだ」

 赤森が言った。

「秋津も渋々だろ」

「馬鹿いえ。あいつは里波ちゃんには粘着質だぜ。今回、里波ちゃんが松崎に接触して、トラウマが再発したら、沢山甘やかして、自分だけが安心できる唯一だと思われたい。恐ろしいぞ」

 赤森は透明の鎖を手繰り寄せる。その手を見て奥野は呆然とした。

「あの秋津が?」

「あの秋津がだ」

 赤森は喉を鳴らす。

「愛惜なんてもんはとっくに通り越して、えげつないもんになってるよ」

 赤森はクレープを食べ終えた。

「私はもう行く」

 そして立ち上がると、思い出したかのように奥野に聞いた。

「聞きたかったんだけどよ、私の第一印象どうだった?」

 奥野はすぐに返した。

「悪い奴に子猫を託すと思うか」

「そうだな。私もそうだ」

「どういうことだ?」

 奥野が聞き返したが、赤森は手を振って帰って行った。

 次の日、奥野は里波の住むマンションを訪れた。里波はまだひとりで住んでいた。

「秋津と住むと思っていた」

「だって、秋津さんしばらく忙しそうだから」

 秋津はイタリアンレストランを開く準備をしていた。田舎で小さい店を開く。完全予約制の店になる予定だ。

「お客さん来るか、心配だけど」

「修行はしたことあるらしいからな」

「何十年前だよ」

 里波は笑う。里波の手には包帯が巻かれていた。

「手? 大丈夫か?」

 里波は頷く。

「ちょっと大げさなだけ」

 奥野は正座をして姿勢を正す。

「色々と申し訳なかった」

「奥野さんの謝罪は多すぎてもう、食あたりを起こすよ」

 里波がバッサリ言った。奥野は何もいえない。難しい顔をして、申し訳ないともう一度言った。里波は笑う。

「奥野さんが元気で楽しく生きてくれたらそれでいい」

 里波は言った。

「全部、俺と秋津さんのためでもあったんだし」

「そういう風に受け取るのはよくない」

 奥野は自分に厳しくした。

「じゃあさ、奥野さんは俺を森に連れて行ったこと、後悔してんのか?」

 奥野は言葉に詰まった。そして正直に首を横に振った。

「俺も、なんとなくで金に流されて行ったけど、森に行ったことを後悔してない。今があるから。この今があるのは、奥野さんのおかげだ」

「いや、里波君がこの世に存在したおかげだ」

「なにそれ、おおげさ」

 里波は笑う。そして優しく奥野に呼びかける。

「もう、いいんだよ。奥野さん。もう、終わったんだから。そんな風に思えないかもしれないけどさ。気になるなら、栞を挟んで閉じればいい。それで、時々思い返せばいい。それでいいんだよ」

 奥野は里波を見つめて、俯いた。手のひらを目の前にかざし、奥野は涙を押えた。

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